宿屋にて
ケーテに夜の帳が降りてきた頃。
「よし! 一日目終了! 外周を廻るだけで楽しめるなんて、さすがケーテ! 芸術の町の名前は看板倒れじゃなかったわね!」
「怖いのもありましたけど、きれいなのもあって面白かったです」
興奮冷めやらぬ様子で、アリス一行は宿屋へと足を進めていた。ここでの滞在も、冒険者達ご用達の宿と決めていた。噂話や依頼なんかが舞い込んでくるし、冒険者同士で気兼ねなく酒を酌み交わす雰囲気から旅情を感じ取れる点がアリスの好みだったからだ。
「さてとー明日からどうしようかなー」
行ってみたい場所はたくさんあった。
旅芸人の一座を招いて上演している劇場。今ちょうど、『神に祝福された』とすら評される容貌を持つ看板役者の在籍する劇団が来ているのだとか。他にも、東方の島国から輸入された作品展覧会を催している美術館、古今東西の作品が収められている図書館、ステンドグラスやフレスコ画に彩られた聖堂……。
思いをめぐらせているうちに、宿に到着する。
「ま、足の向くまま気の向くまま、と行きましょうか。さて、今日も飲むわよ!」
酒場の入り口を指差し、そう宣言するアリスであった。
「うーん、さすが芸術の町。料理にも一捻り加えてくるわね」
「そうですね。見てるだけでも楽しくなってきます」
メニュー板には『夢見の』だの『虹の』だの『煉獄の』だの『語るもおぞましく筆舌に尽くしがたい・要予約』といった大げさに修飾された料理名が並んでいた。そして、テーブルに並ぶ料理も、色鮮やかなものが揃っている。
『夢見のハイボール』には、しゃわしゃわと気泡を浮かべる酒に、星型の氷と小さな花が浮かび、グラスのふちには輪切りにされたレモンがささっていた。口に含むと、ハイボール独自の苦味と柑橘系の酸味が口に広がる。
『虹のパスタ』は、文字通り七色の平麺が絡みあっている点を除けば、塩胡椒で味付けされたシンプルなものだった。コックいわく、「ソースをかけるとせっかくの虹に雲がかかってしまう」のだとか。確かに、色ごとにかすかに異なるハーブの風味があり、繊細な違いを楽しむならこの形がベストだとわかる。
「……それにしても」
アリスはガイツを見る。はぁはぁと息を荒げ、顔からは汗が噴き出している。しかし、その表情は満足げであった。
「よくそんなの食べられるわね」
ガイツの前には、『煉獄のレッドペッパースープ』の名の通り、どろどろとした真紅の液体が注がれた器が置かれている。
「ガイツ?」
話しかけても、返事は来ない。
「もしもーし?」
アリスは彼の目の前で手を振ってみた。
「……は、すみませんでしたアリス嬢」
話しかけられていることに今気づいた様子のガイツが遅ればせながらそう返した。
「ガイツがお酒以外でそんなになるなんて珍しいわね。……一口もらうわよ」
深めのスープスプーンで一掬いして、それを口に含むアリス。重厚な野菜の風味が、口いっぱいに広がった。
「なんだ、あんまり……」
辛くないじゃない。と言いかけたアリスの頭に、鼻に、目に、耳に、かっと熱くなるような刺激が走った。
「うわ、やっぱからっ!」
目に薄く涙を浮かべて、叫ぶアリス。半分ほど残しておいた『夢見のハイボール』を一気に流し込んで口内の火事を鎮めた。
「大丈夫ですか? アリス嬢」
「大丈夫……でも確かに、癖になるのもわかるわ。あたしはもういいけど」
「いや、今のはいいリアクションでしたね」
咳き込むアリスの横で、スローンはにやにやしている。
「……よし、あんたも飲みなさい」
「ああ、いいっすよ」
うながされ、器から直接、ごくごくといくスローン。
「な、ンダ、たいし、たっこと、ナイジャナイカ。フツウに、おい、しい」
つぎつぎの言葉で感想を述べるスローン。しかし、目は時として、口が隠そうとしている真実をばらしてしまう。その目は異常に瞬きの回数が増え、瞳からはうっすらと涙がながれていた。
「本当? じゃあ、残り全部いってみる?」
「イエ、おれは、もう、じゅうぶんだべたんで、ごちそ、ウさまです。あ、あっちに、依頼の掲示板が、あるんで、見てきますね」
そそくさと席を立つスローン。その背を、アリスはにやにやしながら、ガイツは平然と、ビトは心配そうに見つめていた。
「……さて、ちょっとキナ臭い依頼がありましたよ」
氷を浮かべた水の入ったグラスを片手に、スローンは席に戻ってきた。なんとか真剣な表情をつくろうとはしているが、その目はまだ潤んでいた。
「『祈り』を使える者限定。詳細は面談の上で、報酬は相場の数倍。依頼主は匿名。好条件にも関わらず、怪しすぎて希望者が集まっていないんだとか」
「よし、それ受けるわよ!」
「ええ! さすがに怖くないですか!」
即答するアリスに、目を丸くして驚くビト。
「もちろん! 怪しいのはわかるけど、『険しきを冒す』と書いて冒険! こういうのこそ、まさに冒険だわ! よし、明日になったらすぐいくわよ!」
目がきらきらと輝いているアリス。こうなった彼女はもはや止められないことを、三人は知っていた。