初夏の月
その音は次第に大きくなってきた・・・
文字が一つ一つ紡がれて、やがて言葉となった・・・
カタカタとキーボードを叩くをとだけがやけに耳に残る。
初夏の夜、寝苦しさに耐えかねて目を覚ました、何か気晴らしにと思いパソコンの電源を入れる。
部屋をほんのりと照らす明かりと、画面に映る文字だけが今の彼の世界。
深夜、所在のわからない不安を抱きながらも、彼はただ没頭した。
そこに意味は無く、それに願いは無く、おそらくは逃避でしかない。
理解はしていた、でも勇気がなかった、全てを捨てた時から、総てが見えなくなっていた。
一つの文面に目が止まる、ただの好奇心か親切心なのかは彼にもわからなかった、気付けば手が先に動いていたといった感覚だ。
彼女は自分が居ても居なくてもいい人間だといった、ならば何故居るんだと彼は思った。
この世に必要の無いものなどはじめから生まれるわけが無い、総ての物には何らかの意味があって存在するのだから。
この言葉は何より彼自身が思うことだった、まさに自問自答といったところだろう。
ここで彼は気付く、彼女と僕は似ているのかも知れない。
だからこそ思った、逃げるな、背けるな、前を見ろ、と。
人間はもろい生き物だ、感情というものが他の動物よりも圧倒的に豊かで、それ故に繊細、故に脆く、弱かった。
彼自身もその自覚はある、ただ逃げたところで意味が無いことは知っている。
停滞は後退でしかなく、ただ進むことでしか得られない事が大多数を占める世界なのだ。
彼女は自分の意味について問うた、彼は答える、自分の価値など自分で決めるものだと。
ある種彼は世界を敵ばかりだという認識なのかもしれない、彼自身が納得する世界の形がそう。
世界とは自分を中心にあって、自己=世界の中心と彼は考えている。
何故ならば、自分自身というものは自分自身でしかなく、他ではないからだ、故に中心、いわば視点は自分であると考えていた。
傷つけるのも傷つけられるのも嫌だ、だから消えたいと・・・
傷つけるのが嫌ならば何故消えたいと願う?それは周りを傷つける事と同義だ。
彼女は最初、彼が何を言いたいのかわからなかった、その意味は、この後の彼の言葉により明らかになる。
もしも必要の無い人間と思うなら無視している、俺はそんな奴に付き合うほど暇でもないし興味は無い、自分の価値は自分で決めろ、少なくとも俺はあんたを認めているし必要だと思っている、悲しい事を言うな。
人の抱く影の大きさや重さなどは実際のところ当の本人にしか判らぬもの、周りが出来ることなんかたかが知れている、彼自身の実体験からすれば、例えそうだとしても、たった一人でもいい、そんな風に「親友」だと、「仲間」だと言ってくれる事がいかに支えになるかを感じていたから、どれだけ救われたことか。
だからこそ、彼女にもそうなって欲しかった、そういう人を支えれる側に彼自身もなりたかったから。
彼女らは互いを否定した、理由は自分にあると、だが周囲の人間はそれを良しとは思わない。
誰も彼女らを失うことなど求めるものなどいなかったから。
その証拠として彼らの落胆振りは見るに耐えれぬものがあった、不安は波紋を呼び、水面に浮かぶ波の如く、ゆっくりと、だが確実に広がっていた。
一人がもう止めようと言った、もう一人は何故かと問うた、彼はただ傍観するしかなかった。
波が起こる瞬間、その原因を彼は感じ取ることはできず、それ故ただ事態が進むのをただ黙って見守ることしか出来ない。
自分の無力さを噛み締め、悔しさや後悔で胸がえぐられる様な錯覚に陥る。
呼吸は荒く、不安と歯がゆさだけが今の彼を支配していた。
ふとそんな彼の元に福音が鳴った。
見ると周りの景色はかつての色を取り戻し、心なしか以前よりも鮮やかに彩られているように思えた。
体に開いた隙間が埋まるような、まるで柔らかな水が湧き出るような不思議な感覚、過去に何度か経験したであろう懐かしい感覚、久しく忘れていた、これが「嬉しい」という気持ちだ。
自分の居場所、生物界においても領域確保は常とされる、人間ならばなおの事。
彼は過去の鏡を見ていたのかも知れない。
彼自身が選んだ選択、その結果としての今、求めていたものではないにしろ、確かに彼自身がその手で得たものだ。
人を殺めたことは無いし、今後もきっと無い、この手で、あるいはその言葉で多くの人を犠牲にしてしまったらどうなるのだろう?
その人達にも家族はいたはずだ、恋人も友人も、そういった行為をするものはどういった価値観なのだろう?
まさか理解していないのかとも思えてしまう。
過去に一度、彼自身が殺意を抱いたことがある、向けられた刃の先に居たのは彼の親。
自らをこの世に作り出した張本人、その共犯者。
彼は言った、一緒になったのは間違いだったと。
彼女はいった、生まなければよかったと。
涙はでることは無く、代わりに何かが壊れてしまった、それはガラスの割れるような音をたてて、決して戻ることが無いことを自身に深く刻み込んだ。
今一度彼は刃を握り締め、そして叫ぶ。
ならば何故俺がいる?何故俺を否定しない?あんた達が互いを否定するという事は俺自身の存在を否定することと同じだ。
抱く感情は殺意ではなく、悲しみでもない、虚しさだけがただそこに響いた。
刃を向けるという事は斬られる覚悟のある者だけだと彼は言う、斬られる覚悟?そんなものあるわけが無い。
覚悟以前に存在を否定されて、なお何かを望めというのか?なんとも残酷なんですね。
彼らは泣き崩れた、彼の手から刃は離れ、そしてここに一つの「家族」という形も終わりを迎えた。
迷い、傷つき、それでも止まる事無く前に進もうとする友を彼は見守る。
誇らしかった、まぶしかった、彼の支えになれているかはわからなかったけど、たった一言の「ありがとう」が何よりも嬉しかった。
友が選ぶ結末は彼自身が選び進んだ道なのだから、ただほんの少しでいい、友に安らかな時が早く訪れますようにと彼は願った。
きっかけなんてわからない、気付けばそうなっていた、以前から予感みたいなのはあったかもしれないけど今となってはわからない。
鼓動はただただ早くなるばかり、過去の記憶が走馬灯のように蘇っては消え、いつしかその事で頭の中が、自分の感情が支配される。
心地いいと思った、でも彼女には届かない、これは耐え難く、覆らない事実として彼自身の前に壁として立ちふさがる。
不思議と嫌な気はしない、当然だとばかりに彼は笑みをこぼした。
暖かな感情はやがてその身を蝕む氷となるかもしれない、でももう後戻りが出来ないところまで来てしまっていた。
何度繰り返すのだろう?失うのが怖いのならば求めなければいいと、願わなければいいと誰しもが知っていることなのに、それでも僕らは繰り返す。
得たいのはたった一人の笑顔だけ、それだけがただ今は欲しかった。
火照ったからだと感情を無理やり冷まし、外へと出た。
いつしか雨は上がり、湿気と夜風の香りが鼻孔をくすぐる。
ゆっくりと歩きながら、ただ彼女の事を考える。
まだ見ぬ笑顔に思いを馳せて、空を見上げた。
ここ数日で劇的変化は無かったかもしれないし、そもそもの日常が劇的変化の連続で、今日は誰かの番なだけで、もしかすると明日は自分の身に起こるのかもと。
そんな期待と不安を抱きながらもただただ歩いてみた、別に行きたい場所や目的はなかった。
公園に差し掛かったところで花火をしている人達を見かけた、みんな楽しそうにはしゃぎながら夏を謳歌しているように思えてなんだか幸せな気持ちになる。
人の笑顔や優しさというものは、それを見た周囲の人間にも多大な影響を与えるんだなと彼は思った。
夜空を見上げるとそこには月が出ていた。
声や温もりはまだ感じることは出来なくても何故か満たされる。
遠く離れた場所だって、きっと彼女の空にも僕と同じ月が出ているのだから。
お読みいただいてまことに有難うございました。
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