Act3 … Yuri
目覚まし時計が鳴った。いつもより、一時間ほど早い起床。手探りで音を止め、欠伸をしながら起きる。眼鏡を掛け、ベッドから降りて伸びをする。よし、目が覚めた。
Yシャツと灰色のズボンを手慣れた様子で着て、ベルトとネクタイを締める。壁に提げてある紺色の上着と鞄を手に持った明は、自分の部屋を出てリビングに向かった。
「おはよう、母さん」
キッチンに居る母親ににそう声をかけると母親は驚いた顔をして振り向いた。
「おはよう、明」
にっこりと笑った母親――葛城さくら。明はさくらと二人暮らしである。父親は明が幼い頃に離婚した為、不在である。
もうすぐ四十歳の筈なのに皺ひとつ無い顔であり、小柄で細い身体のさくらは一般的に言う美人である。
「今日は早いのね。何か用事?」
テーブルに朝食のパンと目玉焼き、サラダを置きながらさくらは尋ねた。
「……今日は、ちょっとね」
明は誤魔化すように言葉を濁し、席に着いた。その様子を見てさくらは心配そうに顔を歪めた。
「悩み事?」
明の真正面の席に着いたさくらは黙々と朝食を食べる明を見つめる。
「いや、ちょっと……」
流石に母親の心配する顔に堪えかねた明は朝食を食べる手を止め、渋々理由を言った。
「……クラスメートに会いたく無いんだよ……」
ぼそっと呟いてまた食べ始める。しかし、さくらは聞き逃さなかったらしく嬉しそうに微笑んだ。
「あら、お友達ができたの?」
「!?」
思いがけない返答に明は噎せる。咳き込みながら明は否定した。
「ち、違うっ! ……っあいつは、友達じゃない!」
「そうなの? 明がクラスの子の話をするなんて最近無かったから、てっきりお友達ができたのかと思ったわ」
「…………」
くすくすと笑うさくら。明はそれを見て言い返す気力が失せたのか、黙って食事を片付け「いってきます」と家を出た。
明の家は八階建てのマンションの五階にある。エレベーターで下まで降りて、徒歩十五分程離れた学校へ向かう。
いつもより早く家を出たため、早く登校することができた。
朝の学校は人が疎らで静かだ。明は普段の騒がしい学校よりこっちの方が好きだった。
明は校舎には入らず、まっすぐ裏庭に向かった。目的は、二つ。昨日話を聞き逃した彼女と話すことと、東藤黎に会わないようにするためだった。
しかし、あろうことか、二つ目の目的は裏庭に着いた途端に無駄に終わった。
裏庭の大きな広葉樹。昨日、明が黎に怒鳴った場所。その幹に寄り掛かりながら体育座りで腰を降ろしている黎がいた。
黎は前を向いて笑っていたが、明が近づいて来たのに気付いて横を向いた。
「よっ、おはよっ」
片手を低く上げて挨拶をした黎に、明はあからさまに嫌そうな顔をした。
「東藤……どうしてお前がここにいる?」
「どうしてって、明を待っていたんだよ」
「……」
待っていた? どうして?
「そんなに嫌そうな顔すんなよ。 昨日の事も謝りたかったし、ユリさんの話を聞いてあげたかっただけなんだから」
ユリさんとはどうやら昨日の彼女の名前らしい。
「……声が聞こえないのに、か?」
「そうだよ。 これでも頑張って名前までは聞き出したんだから」
黎は口を尖らせてそう言って足元を指差した。そこには黎から見て逆さに五十音と数字が書かれていた。
「なんだ、これ?」
「これでユリさんに指差してもらって話すんだよ。 時間かかったよー。 俺が理解しないと次に進めなくてさ。 明が来てくれて、助かった!」
そう言ってニカッと笑った黎。その笑顔につられてか、明は思わず謝罪を口にした。
「あ、……昨日は、急に怒って悪かった」
黎はそれを聞いて驚いた顔をして固まっていたが、すぐに笑顔で言った。
「いいよ、気にしてない」
明は内心ほっとしていた。昨日の事で黎に対してどこかしら後ろめたさがあったからだ。心のわだかまりが消え、明は黎に聞いた。
「ところで、あの人――ユリさんはいるのか?」
『うん。おはよう』
問いかけたらすぐに彼女は返事をした。どうやら近くで自分達の会話を聞いていたらしい。彼女が返答したのが分からない黎は彼女がいるであろう方を指差して言った。
「え、そこに居るじゃん。見えないの?」
その時、ハッと気付く。黎は明が彼女の事を見ることができないと知らないのだ。
「あぁ、見えない」
「え……? どういう、意味?」
戸惑いを隠せないまま黎は固まってしまう。
「そのままの意味だ。東藤にユリさんの声が聞こえないように、僕にはユリさんの姿が見えない」
意味、分かるよな?
そんな視線を向けると、黎は納得した顔で軽く頷く。
「なっとく。どうりで見ただけじゃあユリさんが居るかどうか判断できないわけだ」
「理解できたか。 ――で、東藤はどこまでユリさんと話を?」
改めて本題に入ろうと思い、黎に尋ねる。
「えーと、彼女はムラカミユリさん……」
「――で?」
急に口籠った黎を促すように明は言ったはずだったのだが、黎はさらにもごもごと聞き取りづらいような声で言った。
「――だけ……」
「…………はぁ!?」
返された言葉をすぐに理解できなかった明は反応が遅くなってしまった。一方、黎は自棄になったらしくさっきよりも大きな声で言い返した。
「だ、か、らっ! まだ名前しか聞いてないんだよ! だいたい、これを使って会話しようって思い付くのにも時間掛かったんだからしょうがないじゃん!」
黎はそう言うといじけたように顔を背けた。
声が聞こえない、それだけでとても不便でだ。だけど、東藤はそれを補えるように努力したんだ。
ある意味納得した明は体の力を抜くように息を吐いた。
「そうだな、頑張ったのは認める。これからユリさんと話すから暫く黙ってろよ」
それを聞いた黎は神妙な顔で頷いた。
「――じゃあ、ユリさん、話してもらえますか?」
そして、明はユリとの会話を始めた。