婚約破棄の手紙を代筆したら、宛名は私でした
――世の中には、婚約者へ宛てた婚約破棄の手紙を、その婚約者本人に代筆させようとする男がいるらしい。
残念ながら、実話である。
被害者は、私だ。
(……順を追って、説明させてください)
◆
「『あなたのお顔など二度と見たくありません』は、消しましょう」
文具店の二階にある相談用の小部屋。私が言うと、机の向こうに座った若い令嬢――ロザリー様は、困ったように眉を下げた。
「でも、リラ先生。これでもう五回目のお申し込みですの。やんわりお断りしても、『恥ずかしがっているだけだね』と受け取られてしまって」
ロザリー様が私を訪ねるのは、これで二度目だった。前回もはっきり断る手紙を書いたのに、お相手は都合よく読み替えてしまったらしい。
(断り文句を褒め言葉に翻訳できる才能……ある意味、天才だわ)
「お断りする意思は、はっきり書きます。ただ、『顔も見たくない』まで書くと、そこだけが相手の心に残ってしまいますので」
私は、新しい紙へペンを走らせた。
『これまでにお返事したとおり、あなたとの結婚を望んでおりません。恥ずかしさや迷いからお断りしているのではなく、わたくし自身が決めたことです。今後、同じお申し込みをいただいても、お返事は変わりません』
「このような形では、いかがでしょう」
ロザリー様は、完成した手紙を二度読んだ。
「……不思議ですわ。きっぱり断っているのに、相手を嫌な人だとは一言も書いていないのね」
「お相手を傷つけたいわけでは、ないのでしょう?」
「ええ。ただ、分かってほしかっただけ」
「でしたら、そのお気持ちだけを書けば十分です」
ロザリー様の表情が、ほっと緩んだ。
「ありがとうございます、先生。あなたにお願いしてよかった」
「あ、いえ。私は、その……ロザリー様の言葉を、並べ直しただけで……」
感謝の目を向けられた途端、今度は私の言葉が並ばなくなった。
手紙の中でなら、相手を傷つけずに断る言い方を、いくらでも見つけられる。
けれど人を前にすると、頭にある言葉の半分も、口から出てこないのだ。
「先生、よろしければこちらを」
ロザリー様が、小さな包みを差し出した。
中には、花の形をした焼き菓子。
「兄が買ってきたものですの。お礼に、ひとつ」
「そんな、お礼をいただくほどの……で、でも、とてもかわいいですね」
「ふふ。先生も、かわいらしい方ですわ」
「か、かわ……」
そこから先が出てこない。
仕事中の私は、淡い栗色の髪を町娘のように低く編み、度の入っていない大きな丸眼鏡をかけている。服も古着屋で買った、飾りのない灰色のワンピースだ。
どこからどう見ても、地味な代筆人のはずである。
……ただし侍女のマーサいわく、「笑うと目尻が下がる癖だけは、丸眼鏡でも隠せていません」とのこと。
ロザリー様は楽しそうに笑い、手紙を大切そうに抱えて帰っていった。
――改めて、自己紹介をしたい。
私、ヴィオレット・メルローズは、しがない子爵令嬢にして、匿名の代筆人である。
仕事で使う名前は〈リラ〉。病弱なお母様の薬代と、傾きかけた家計を支えるために始めた仕事だ。
家のことに追われて、夜会にはほとんど顔を出してこなかった。おかげでメルローズ子爵令嬢の名前は知られていても、顔まで知る者は少ない。
髪型と服装と眼鏡を変えれば、町の代筆人〈リラ〉と私を結びつける者は、まずいない。
依頼はふだん文具店の仲介人を通して受け、込み入った相談のときだけ、この二階で変装したままお会いする。仕事では普段と違う整った書体を使うから、依頼人が知っているのは、〈リラ〉という名前と丸眼鏡と、この仕事用の文字だけ。素顔も本当の名前も、誰にも知られていない。
口ではうまく言えないことを、その人に代わって、相手へ届く形にする。
それが、私の仕事だった。
ただし、嘘と、相手を傷つけるためだけの言葉は書かない。
依頼書にも、その決まりは最初に書いてある。
――事実と異なる内容の申し出は、「依頼人の主張」と分かる形で記すこと。
――金銭をだまし取るために使われたときは、依頼内容も守秘の対象にはならないこと。
細かすぎる決まりだと笑う人もいるけれど、言葉は使い方ひとつで、花束にも刃物にもなる。
渡した刃物で誰かが傷つけられるのを、知らないふりはしたくなかった。
……まさかこの決まりに、私自身が救われる日が来るなんて、このときは思ってもみなかったのだけれど。
◆
「婚約破棄を申し入れる手紙の代筆依頼だそうです」
ロザリー様を見送って間もなく、付き添いのマーサが、仲介人から預かった新しい依頼書を持ってきた。
「お急ぎなのね。まず、お名前を――」
依頼人の欄を見た。
『ヒューゴ・ウィンズレー』
ペンが、止まる。
(……同じ名前の、別の方かもしれないわ)
祈るような気持ちで、手紙を送る相手の欄を見た。
『ヴィオレット・メルローズ』
「…………」
「お嬢様?」
私は、依頼書を机へ伏せた。
深呼吸をして、もう一度開いた。
残念ながら、名前は消えていなかった。
「……私の婚約者が、私との婚約を破棄する手紙を、私に書いてほしいみたい」
「はああっ!?」
マーサの声で、窓辺の小鳥が飛び立った。
ヒューゴ様とは、八年前――私が十五歳の春に婚約した。
初めて二人きりでお茶を飲んだ日、私は緊張のあまり挨拶を三度も噛み、とうとう黙り込んでしまった。
けれど、彼は笑わなかった。
代わりに、テーブルにあった紙へ『好きな本は?』と書いた。
私はその下へ答えを書いた。彼がまた質問を書き、私が返事を書く。気づけば、紙は裏まで文字で埋まっていた。
「君は、手紙の中だとずいぶんおしゃべりなんだな」
そう笑って、次の誕生日には青い羽根ペンを贈ってくれた。
「口で言えないなら、書いてくれればいい」
あのころのヒューゴ様は、私の言葉が出てくるまで、待ってくれる人だった。
だから私は、八年も彼を好きでいられたのだ。
……その人がいま、私との別れの手紙を、私に発注している。
「まだ続きがあります」
マーサが心底嫌そうな顔で、依頼書の下を指した。
『婚約者は八年間、私に冷淡だった。結婚の日取りも三度拒んだ。破談の原因が彼女にあると、誰が読んでも分かる文にしてほしい』
……結婚を三度延期したのは、ヒューゴ様のほうだ。
私は、一度も断っていない。
『精神的苦痛への慰謝料として、金貨三百五十枚を請求する。私が彼女から借りている三百枚と差し引き、残り五十枚を受け取る』
――要するに。
あなたから借りた三百枚は、返しません。
むしろ、あなたが悪かったことにして、あと五十枚ください。
ずいぶん丁寧な強盗である。便箋まで用意するらしい。
そもそも金貨三百枚を貸したのは、三年前。まだお父様が生きていて、メルローズ家の収入も今よりずっと安定していたころだ。
ヒューゴ様は、ウィンズレー家の領地を直すお金が足りないのだと言った。すぐに必ず返すからと、私に頭を下げた。
私は、お父様が結婚後のために私名義で残してくれていたお金から、金貨三百枚を貸すことにした。
お父様は反対しなかった。ただし、借用書だけは必ず書かせた。
「相手を信じることと、金額と返す日を紙に残すことは、別の話だ」
あのときは、少し大げさだと思った。
今では、額に入れて飾りたい言葉である。
その後、お父様が亡くなり、お母様が病気になって、我が家の収入は減った。いまの私たちにとって、金貨三百枚はお母様の薬代を何年も賄える大金だ。
それでも私は、返済を急かさなかった。「もう少し待ってほしい」というヒューゴ様の言葉を信じて、頼まれるまま、書面で一度だけ返済の期限を延ばしもした。
その延ばした期限すら、もう半年も過ぎている。
……いずれ夫婦になるのだから、と。そう思っていた私は、われながら、ずいぶん気の長い債権者だった。
そして、依頼書の最後の一行。
『代筆料は、受け取った慰謝料の中から支払う』
私を悪者にする手紙を私に書かせ、その代金も私から取る。
ここまでくると、怒るより先に、感心しそうになった。
「お嬢様。断りましょう。私が石を包んで返事をします」
「手紙が重くなるわ」
「そのまま頭へ届くようにするんです」
普通なら、嘘だと分かった依頼は受けない。
けれど今回、だまされる相手は私自身だ。私が断れば、ヒューゴ様は別の代筆人へ、同じ嘘を持ち込むだけだろう。
「……受けるわ。ただし、事実の確認書を付ける」
金銭を請求する手紙には、依頼人の署名をもらう決まりにしている。
『結婚を三度拒んだのはヴィオレットだと、あなたが主張することに間違いないか』
『現在、ほかに交際している女性はいないと、あなたが申告することに間違いないか』
『金貨三百枚は、ヴィオレットから借りた金で間違いないか』
最後に、虚偽の申告によって相手へ損害を与えようとした場合は、依頼書と確認書を証拠として開示することに同意する、という一文も添える。
「これを読んだら、さすがに取り下げませんか?」
「そうなってくれたら、一番いいのだけど」
本当はまだ、何かの間違いであってほしかった。
八年間好きだった人を、心の底から悪い人だとは、思いたくなかったのだ。
◆
翌日、ヒューゴ様が我が家へやってきた。
濃い金髪に、明るい青の目。整った顔立ちで、本人もそれをよく知っている。今日も上等な紺色の上着を着ていたが、よく見れば袖口は、似た色の糸で繕われていた。
見えるところにはお金をかけ、見えにくいところは見なかったことにする。
彼の暮らし方は、だいたい服に表れている。
――昨日、匿名の代筆屋へ「私との婚約破棄」を依頼した人が、何食わぬ顔で、私の淹れたお茶を飲んでいる。
知らないというのは、ずいぶん人を大胆にするらしい。
「ヴィオレット。今日は、これに署名してほしい」
渡された紙には、こう書いてあった。
『ヴィオレットがヒューゴへ渡した金貨三百枚は、結婚生活のための贈与であり、返済を求めない』
昨日は、私が悪いことにして、慰謝料と借金を差し引く計画。
今日は、私自身に「そもそも貸していません」と署名させる計画。
ヒューゴ様の道は、どこから出発しても、私の三百枚へ到着するらしい。
(大陸中の道が集まる都みたいに言わないでほしいわ)
「これは……その……」
「父上が帳簿を整理しているんだ。形式だけの紙だよ」
形式だけの紙に署名を迫っていらっしゃるのは、どなたですか?
頭の中では、すらすら言える。
けれど本人を前にすると、言葉が喉で固まった。
「私は、でも……」
「こんな紙くらい、黙って署名すればいい。ミレーヌなら――」
ヒューゴ様の口が、不自然な形で止まった。
「……ミレーヌ?」
「違う」
「女性のお名前では?」
「馬だ」
「お馬さん」
「父上の知人が飼っている牝馬だ。書類を見せると、すぐにうなずく賢い馬でね」
書類へうなずく牝馬。
たいへん珍しい。ぜひ一度お会いしてみたい。
「それより、早く署名を」
言わなければ。
これは貸したお金です。署名はしません。
たった二つなのに、声にならない。
私は諦めて、ペンを取った。
署名欄ではなく、紙の余白へ書く。
『金貨三百枚は、借用書どおり、私があなたへお貸ししたお金です。この紙には署名いたしません』
日付と名前を入れ、ヒューゴ様へ返した。
「……こんなこと、口で言えばいいだろう」
それができたら、他人の手紙を書いて暮らしてはいない。
「すみません」
「謝るくらいなら署名すればいい。君は昔から、何を考えているのか分からないな」
ヒューゴ様は紙を鞄へ押し込み、帰っていった。
扉が閉まっても、私はしばらく、青い羽根ペンを握ったままだった。
『口で言えないなら、書いてくれればいい』
昔のヒューゴ様は、そう言ってくれた。
けれど今の彼は、私が書いた言葉さえろくに読まず、「何を考えているのか分からない」と言う。
私の伝え方が、変わったのではない。
彼が、私の言葉を知ろうとしなくなったのだ。
八年前の優しかった彼を、好きだった。その気持ちまで、間違いだったことにする必要はない。
けれど、私が結婚するのは、思い出の中の彼ではない。
今、私の言葉もお金も、自分の都合で使おうとしている人だ。
胸の奥が痛んだ。
それでも、答えはもう決まっていた。
――婚約は、終わらせよう。
ただし、私が悪かったという嘘も、貸した金貨三百枚を奪われることも、受け入れない。
「お嬢様。よく我慢しましたね」
マーサが焼き菓子を一枚、私へ渡した。
「……言えなかっただけよ」
「書けたじゃありませんか」
「でも、口では……」
「お嬢様は、お口に配られるはずだった勇気まで、ぜんぶ右手に集まってるんですよ」
ずいぶん偏った配分である。
どこかへ苦情を申し立てたい。
その夜、お母様にすべてを話すと、両家で婚約解消の話し合いをすることになった。
「あなた一人では、言いたいことを飲み込んでしまうでしょう。公証人に立ち会ってもらいましょう」
公証人とは、双方の話を聞き、何に納得して署名したのかを記録する人だ。あとから「聞いていない」と言わせないための、話し合いの証人である。
お父様の知人だったという公証人を、お母様が紹介してくれた。
◆
公証人のレナード・アシュフォード様は、柔らかな亜麻色の髪に、灰青の目をした方だった。
背は高いのに、こちらを見下ろされている感じがしない。長い指で書類の端をそろえる動作すらとても丁寧で品がある。
想像していたより、ずっと若い。けれど私が椅子へ座るまで何も尋ねず、お茶に手を伸ばすのを待ってから、穏やかに口を開いた。
「婚約解消についてのご相談と伺っています。まず、何があったのか教えていただけますか」
「はい。婚約者が、その……私との、婚約を……」
そこまでは言えた。
次に「私宛ての婚約破棄の手紙を、私に代筆させようとしています」と続けたい。
けれど、初対面の方へ説明するには、あまりにも奇妙すぎる。言葉が喉の中で絡まった。
「婚約を、破棄したいと……でも、手紙が、私で……」
これでは、婚約者が手紙になったように聞こえる。
(違うの……! 手紙になったのではなくて、手紙を、私が……ああ、もう!)
顔が熱くなった。
まただ。大切なことほど、うまく口にできない。
『君は昔から、何を考えているのか分からないな』
昨日のヒューゴ様の声が、よみがえる。
きっと、こういうところが駄目なのだ。もっと明るく、上手に話せていたら――
自分を責める言葉だけは、嫌になるほど滑らかに浮かんだ。
「すみません。最初から、もう一度……」
「謝らなくて大丈夫です」
レナード様は、困った顔も、助け舟を急ぐ顔もしなかった。
「待つことも仕事のうちです。話す順番が決まるまで、お茶を飲んでいて構いません」
その言い方に、少しだけ緊張がほどけた。
カップを持とうとして、膝の上の鞄から、青い紙ばさみがはみ出していることに気づく。
レナード様も、同じものを見ていた。
「そちらは、今日のご相談についてまとめたものですか?」
「はい。話すと、順番が迷子になるので……先に、書いてきました」
「では、そちらから読ませていただいても?」
私は頷き、仕事用の書体でまとめた三枚の紙を、鞄から出した。
一枚目には、八年間の出来事を日付順に。
二枚目には、金貨三百枚を貸した経緯と、借用書の内容を。
三枚目には、ヒューゴ様から届いた代筆依頼と昨日の訪問のこと、そして私が望むことを、三つだけ。
――婚約を終わらせたい。
――貸したお金を返してほしい。
――嘘の慰謝料は払わない。
レナード様は、一枚目を読んだ。
二枚目をめくった。
三枚目まで読み終えると、もう一度、最初へ戻った。
「……たいへん読みやすいです」
「ありがとうございます」
「日付、金額、相手の発言、残っている証拠。必要なことが、迷わない順番で並んでいる」
レナード様が、顔を上げた。
「文章は、見事です」
「あ、いえ、その……」
「内容には、かなり引いています」
「……私もです」
思わず答えると、レナード様が少し笑った。
そして、三枚目の右下へ目を止める。
「……この字」
「何か?」
「妹のロザリーが、しつこく続く縁談を断るため、代筆人へ手紙を頼んでいました」
レナード様は、私の紙を指でなぞった。
「相手を侮辱せず、それでも断る意思だけは曖昧にしない文章でした。あの手紙がなければ、妹はとうに押し切られていたと思います」
心臓が、跳ねた。
「筆跡だけではありません。事実と希望を分けて、最後に望みを三つだけ書く。この整え方を、私は以前にも読みました」
灰青の目が、まっすぐ私を見る。
「あなたが、代筆屋〈リラ〉ですね?」
「……はい」
隠すより先に、頷いてしまった。
「……失望、なさいました?」
「なぜです?」
「リラは、もっと堂々とした人だと思っていた、と……よく言われるので」
「妹を助けてくれた手紙を書いた方です。ずっと、お礼を申し上げたかった」
レナード様は、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「わ、私は、仕事をしただけです」
「その仕事に、妹は救われました」
まっすぐ感謝されると、やはり、何と返してよいか分からない。
レナード様は居住まいを正すと、公証人の顔に戻った。
「まず、大事なことを一つ。婚約破棄の手紙が届いただけで、あなたに慰謝料を払う義務は生まれません。話し合いで認め、署名して、初めて約束になります」
そして、私が書いた三つの望みへ目を落とす。
「当日は、この三つを、私が一つずつ確認します。言葉が出なければ、用意した紙を読み上げても構いません。――沈黙を、同意にはさせません」
「……お願いします」
「はい。お引き受けします」
レナード様は、もう一度、私の紙を見た。
「それにしても、あの〈リラ〉先生が、ご自分宛ての婚約破棄状を書くことになるとは」
「私も、できれば一生、経験したくありませんでした」
「二度目がないよう、きちんと終わらせましょう」
その声が頼もしくて、少しだけ、肩の力が抜けた。
◆
相談から二日後、レナード様が当日の打ち合わせのため、我が家を訪れた。
私の前へ置かれたのは、話し合いの進め方をまとめた書面と――なぜか、小さな焼き菓子の包みだった。
包みには、几帳面な字で札がついている。
『長時間の打ち合わせに備えた糖分補給用。返却は不要です』
「……贈り物に『返却は不要』と書く方を、初めて見ました」
思わず言うと、レナード様が札を見直した。
「……やはり、堅すぎましたか」
「少しだけ」
「公的な書面なら、迷わず書けるのですが。個人的な手紙は、妹からも『召喚状のようだ』と不評でして」
公証人にも、うまく扱えない言葉があるらしい。
そう思うと、完璧に見えていた人が、急に近くなった。
「リラ先生なら、どう書かれますか」
私は、札の裏へ書いた。
『今日は長くなりそうなので、お疲れになる前にお召し上がりください』
レナード様は二度読み、それから、丁寧に札をしまった。
「勉強になります」
「し、しまうほどのものでは……」
「私には書けなかった言葉ですから」
そんなふうに大切にされると、短い一文まで、少し特別なものに思えてくる。
私はごまかすように、焼き菓子を一つ、口へ入れた。
レナード様も同じものを取り、目元を緩めた。
……ロザリー様がくださったものと、同じ花の形だった。
たしか、「兄が買ってきた」と言っていた。
レナード様は、本当にこの焼き菓子がお好きらしい。
打ち合わせの終わりに、私は例の「牝馬」の一件も報告した。
レナード様はペンを取り、真顔で書き付けた。
「『ミレーヌは、書類を見るとうなずく賢い牝馬である』……と。記録しておきます」
「そ、そんな、真面目に記録するようなことでは」
「いえ。嘘は、細部から崩れますので」
公証人の言葉は、ときどき予言のように響く。
◆
私は、ヒューゴ様の依頼どおり、婚約破棄の手紙を整えた。
ただし――事実ではないことを、事実であるかのようには、書かなかった。
私は、ヴィオレットが三度結婚を拒んだと主張する。
私は、婚約者として冷淡に扱われたと認識している。
よって慰謝料は金貨三百五十枚。借金三百枚と差し引き、残り五十枚を支払うこと。
どれも「ヒューゴ様自身の主張」だと分かる形にした。
私は、依頼人の言葉を整えることはできる。
けれど、その言葉が真実だと保証することまでは、できない。
事実確認書を添えた完成稿を、仲介人からヒューゴ様へ戻す。
二日後、両方が返ってきた。
『内容をすべて読み、申告した内容に間違いがないことを確認した』
その下に、ヒューゴ様の署名。
完成稿にも署名があり、ご丁寧に、短い感想まで添えられていた。
『すばらしい出来だ。特に、私の誠実な努力が伝わるところがよい』
ご自分で、ご自分を褒めていらっしゃる。
ヒューゴ様は、私なら人前で言い返せないと踏んでいる。
整った書面さえ先に出せば、両家の前で私が黙り込み、その沈黙ごと「認めた証拠」にできる。だから、これほど堂々と、嘘へ署名できるのだ。
八年も一緒にいたので、それくらいは分かってしまった。
……けれど彼は、知らない。
私が黙っている間にも、ずっと「書いている」ことを。
翌日、その手紙が、今度はヒューゴ様から私宛てに届いた。
自分で書いた文字なのに、婚約者の署名とともに読むと、胸が痛んだ。
それでも私は、手紙を最後まで読んだ。
今度こそ、終わらせるために。
◆
――話し合いの日。
我が家の応接間には、私とお母様、ヒューゴ様とその父君ウィンズレー伯爵、そして公証人のレナード様が集まった。
最初に口を開いたのは、お母様だった。
「ヴィオレットからは、婚約を終えたいと聞いております。ただし、手紙に書かれた理由と金銭の請求には異議があります。本日は、その事実を確かめるための話し合いです」
ウィンズレー伯爵が、重々しく頷いた。
「承知している。私はヒューゴから、ヴィオレット嬢が三度も結婚を拒んだと聞かされていた。事実ならば破談もやむを得ん。だが、慰謝料まで息子の言い分だけで認めるつもりはない」
「父上。手紙を読めば、僕が正しいと分かります」
ヒューゴ様は自信たっぷりに、婚約破棄の手紙を広げた。
――自分は八年間、誠実に婚約者を待った。
――しかし彼女は、結婚を三度も拒んだ。
――よって慰謝料として金貨三百五十枚を請求し、うち三百枚は借金と差し引き、残り五十枚を受け取る。
自分で発注した文章を、よくもそこまで誇らしげに朗読できるものだ。
ある意味、依頼人としては百点である。
読み終えたところで、扉が叩かれた。
使用人が、困った顔をのぞかせる。
「ヒューゴ様。ブロンデル商会のミレーヌ様がお見えです」
ヒューゴ様の肩が、跳ねた。
「よ、予定より早いな。……隣の小応接室で待ってもらえ」
「ミレーヌとは、誰だ」
ウィンズレー伯爵が尋ねる。
「と、取引先の令嬢です。今日の話し合いが終わったあと、出かける約束がありまして」
伯爵の眉が、わずかに寄った。
……馬ではなく、取引先の令嬢だった。
当然である。
書類を見るとうなずく牝馬が、屋敷を訪ねてくるはずがない。
ヒューゴ様は何事もなかったような顔で、私へ署名用の紙を差し出した。
「以上だ。ヴィオレットは、こちらへ署名を」
最初から、私が同意することになっているらしい。
「では次に、ヴィオレット嬢のお話を伺います」
レナード様が、私の前へ、用意してきた紙を置いた。
「ご自分で読まれますか。それとも、私が読み上げましょうか」
「自分で……」
言いかけたところで、全員の視線が私へ集まった。
喉が、狭くなる。
「私は、その……結婚を……違って……」
何度も整えたはずの文章が、口に出した途端、ばらばらになった。
ヒューゴ様が、呆れたように息を吐く。
「相変わらずだな。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいい」
――分かっている。
それができないから、私は、書いてきたのだ。
膝の上で握りしめていた私の手へ、お母様の指が、そっと触れた。
お母様は、代わりに話そうとはしなかった。
ただ、私が次にどうするのかを、待ってくれている。
私は紙を、レナード様のほうへ押した。
「……お願いします」
「承りました」
レナード様は、私が書いた文章を、一字も変えずに読み始めた。
「一つ目。結婚の日取りを延期したのは、ヴィオレット嬢ではありません」
「嘘をつくな!」
ヒューゴ様が遮った。
レナード様は静かに、机の上の砂時計を指した。
「ヒューゴ様は先ほど、十分にお話しになりました。こちらの陳述は、まだ七秒です」
ヒューゴ様が、口を閉じた。
私は、三通の手紙を机へ置いた。
レナード様が日付を確かめながら、順に読み上げる。
「『春まで待ってほしい』『秋まで延期したい』『来年にしよう』。――すべて、ヒューゴ様からヴィオレット嬢へ届いた手紙です」
ウィンズレー伯爵が一通ずつ確かめ、息子をにらんだ。
「……お前の字だな」
「じ、事情があったんです」
「事情があったことと、ヴィオレット嬢が拒んだことにするのは、別の話です」
レナード様が、淡々と告げた。
「二つ目。金貨三百枚は、ヴィオレット嬢からヒューゴ様へお貸ししたお金です」
私は、借用書を机へ置いた。
お母様が、伯爵へ告げる。
「こちらは、亡き夫の立ち会いで作成したものです」
レナード様が、日付と署名を確認する。
「一度延長された返済期限も、すでに半年前に過ぎています」
「だから、慰謝料と差し引くと言っている! 理由は婚約破棄の手紙にすべて書いてあるだろう!」
ヒューゴ様は、机の上の手紙を叩いた。
「これだけ筋道立てて書かれているんだ! 読めば、どちらに非があるか分かるはずだ!」
「――つまり、この手紙に書かれた主張は、すべてあなたご自身のものだと?」
「当然だ」
「承知しました。……では、三つ目です」
レナード様は、私が最後に書いた一文を読んだ。
「この婚約破棄の手紙を書いた代筆人〈リラ〉は――ヴィオレット嬢、ご本人です」
応接間が、静まり返った。
「…………君が?」
「……はい」
「あの手紙を、君が、書いた……?」
私は、小さく頷いた。
ヒューゴ様の顔から、得意げな色が消えていく。
私は、ヒューゴ様直筆の依頼書と、署名入りの事実確認書を机へ出した。
レナード様が、依頼書を手に取る。
「『破談の原因はヴィオレットにあると、誰が読んでも分かる文にしてほしい』。――こちらは、あなたご自身がお書きになった、ご希望です」
「い、依頼人の秘密を漏らすのか!」
「虚偽の申告によって相手へ損害を与えようとした場合、依頼書と確認書は証拠として開示される。その規約にも、あなたご自身が署名されています」
レナード様は、確認書の末尾を示した。
「秘密を守る約束は、誰かをだますための隠れ蓑ではありません」
続けて、もう一枚。
「さらに事実確認書では、『結婚を拒んだのはヴィオレット嬢だと主張する』『現在、ほかに交際している女性はいないと申告する』の二点に、間違いがないと認めています。署名は、一週間前」
「そ、それは……」
「なお――先日、ヒューゴ様がうっかり『ミレーヌ』という名を口にされた際、ヴィオレット嬢が尋ねたところ、『父上の知人が飼っている牝馬だ』とご説明された、と記録に――」
「――誰が、牝馬ですって?」
隣室へ続く扉が、勢いよく開いた。
艶やかな黒髪を結い上げ、鮮やかな紅色のドレスをまとった若い女性が、扇を握りしめて立っている。
耳元で揺れる大粒の宝石は、片方だけでも、お母様の薬代を一年は賄えそうだった。
「ミ、ミレーヌ! 待っていろと言っただろう!」
「ええ、待っておりましたとも。あなたが『ヴィオレットから慰謝料を受け取ったら、すぐに新しい婚約を発表する。隣で待っていてくれ』とおっしゃったから!」
ウィンズレー伯爵の顔が、ゆっくりと息子へ向いた。
「……新しい、婚約?」
「ち、違います、父上。ミレーヌが勝手に――」
「勝手、ですって?」
ミレーヌ様が、一歩踏み込んだ。
「わたくしたち、三か月前からお付き合いしていたでしょう! 婚約を破棄したら結婚すると、毎日のようにおっしゃっていたではありませんか!」
……自分から、交際期間まで教えてくださった。
レナード様が、事実確認書へ目を落とす。
「一週間前の時点で、『交際している女性はいない』と署名されていますが」
「一週間前? その日は、わたくしと結婚指輪を選びに行った日ですわ!」
ヒューゴ様が一歩逃げるたび、ミレーヌ様が二歩分の事実を置いていく。
見事な蟻地獄だった。
ミレーヌ様は、くるりとウィンズレー伯爵へ向き直った。
「それに、ウィンズレー家には十分な財産があると伺っておりました。……まさか、わたくしの持参金で、その金貨三百枚をお返しになるおつもりでした?」
「け、結婚すれば、夫婦の金だ」
「まあ。ヴィオレット様にも、同じことをおっしゃったのでしょうね」
ミレーヌ様は、扇をぱちんと閉じた。
「わたくし、妻にはなれても――馬にもお財布にも、なるつもりはありませんわ」
彼女は私へ小さく頭を下げ、部屋を出ていった。
(……最後の一礼、律儀な方だわ)
ウィンズレー伯爵は、しばらく目を閉じていた。
やがて立ち上がり、お母様と私へ、深く頭を下げる。
「メルローズ夫人、ヴィオレット嬢。私は息子の話を信じ、ヴィオレット嬢が婚姻を拒み続けたのだと思い込んでいた。嘘を見抜けなかったこと、心よりお詫びする」
それから、息子へ向き直った。
「ヒューゴ。お前に与えていた競走馬と馬車を売り、金貨三百枚を返す。足りない分は、領地で働いて返せ」
「ち、父上!」
「公証人殿。ヴィオレット嬢が同意するなら、その内容で書面を作っていただきたい」
レナード様は、まず、私を見た。
「――いかがなさいますか」
誰も、私の代わりに答えなかった。
この場の全員が、私の言葉を、待ってくれている。
「……貸したお金を返していただければ、それで結構です。慰謝料は、求めません」
お母様が、静かに頷いた。
「娘の望みがそれなら、メルローズ家としても異存はありません」
私は、ヒューゴ様を罰したいわけではなかった。
ただ、自分の言葉とお金を、自分の手へ取り戻したかっただけだ。
「ま、待ってくれ、ヴィオレット」
ヒューゴ様が、急に声をやわらげた。
「君が〈リラ〉なら、話は変わる。そんな才能があるとは知らなかった。……婚約破棄の手紙は、撤回してやってもいい」
――要旨。
お金を稼げる女だと分かったので、捨てるのをやめます。
私は、用意していた返答の紙へ、手を伸ばした。
けれど、途中で止めた。
……これだけは、自分の声で伝えたい。
「私は、口下手です」
ヒューゴ様を、まっすぐ見る。
不思議なくらい、もう怖くなかった。
「でも、何をされても平気だったわけでは、ありません」
「ヴィオレット……」
「私が好きだったのは、話せるまで待ってくれた、昔のあなたです」
青い羽根ペンをくれた少年は、もういない。
「私の言葉もお金も都合よく使う、今のあなたとは――結婚しません」
声は、震えなかった。
◆
話し合いが終わり、皆が帰ったあと。
レナード様が、私の書いた三枚の紙を返してくれた。
「最後のお言葉も、あなたらしい言葉でした」
「……書いてきた文章より、ですか?」
「比べるものではありません。紙でも声でも、あなたが選んだ言葉ですから」
レナード様は、少しだけ目元を緩めた。
「ただ――あなたの声で聞けたことは、うれしく思いました」
迷いのない答えに、胸が温かくなる。
「今日は、たいへんお疲れでしょう。続きの書面は私が整えておきますので、ゆっくりお休みください」
「ありがとうございます」
レナード様は、それ以上踏み込まずに帰っていった。
その距離が、今の私には、ありがたかった。
◆
三か月後。
ヒューゴ様の競走馬と馬車は売られ、貸した金貨三百枚の大半が返ってきた。
残りは、ヒューゴ様が領地で働きながら、毎月返すことになっている。
ブロンデル商会は、ヒューゴ様個人との取引を打ち切った。ウィンズレー家の財産について嘘をついていたことまで知れ渡り、ほかの商人も、彼にお金を貸さなくなったらしい。
信用は、築くのには時間がかかるのに、失うときは馬車よりも速いらしい。
ヒューゴ様は領地へ送られ、朝から晩まで、帳簿や請求書を確認しているという。
ウィンズレー伯爵からは、
『ヒューゴには、すべての書類を最初から最後まで読ませ、内容を説明させてから署名させること』
という命令が出ているそうだ。
一枚の紙で借金を消そうとした人が、今では一日じゅう、紙に囲まれている。
先日、最初の返済報告書が届いた。
金額に、間違いはなかった。
誤字は、四つあった。
……そこは、まだ成長の余地があるらしい。
私は以前と変わらず、〈リラ〉として手紙を書いている。
変わったことがあるとすれば――レナード様と顔を合わせる機会が、増えたことだ。
最初は、返済書面の確認。
その次は、ロザリー様が「先生にお礼を言いたい」と、お兄様を連れてきた。
さらにレナード様は、契約に添える手紙を必要とする依頼人を、次々と紹介してくれるようになった。
そして訪ねてくるたび、彼は、花の形をした焼き菓子を持ってくる。
最初の包みに添えられていたのは、短い札だった。
『お疲れのときに、よろしければお召し上がりください』
――以前、私が書いた言葉を、覚えていてくれたらしい。
次のときには、こう書かれていた。
『新しく出た味だそうです。あなたと食べてみたくて、選びました』
その次は、さらに一歩、踏み込んでいた。
『あなたが喜んでくださる顔を、思い浮かべて選びました』
一枚ごとに、公証人らしい堅さがほどけ、レナード様自身の言葉が増えていく。
少しずつ変わっていくその文章を、私は、ひそかに楽しみにしていた。
レナード様は、私が返事に困って黙り込んでも、気にしない。
急かす代わりに自分も焼き菓子を一つ取り、私の言葉が見つかるまで、のんびりお茶を飲んでいる。
今日も仕事を終えたころ、彼が文具店の二階へやってきた。
けれど――差し出された焼き菓子の包みには、札がついていなかった。
「今日は、文章がないのですね」
「はい。リラ先生へお見せできる個人的な文章は、とうとう底をつきました」
「それは……おめでとうございます……?」
「あまり、めでたくはありません。あなたに会う口実が、一つ減りました」
いつもより少しだけ緊張した顔で、レナード様が私を見る。
「そこで――個人的な依頼があります」
「お手紙、ですか?」
「あなたをお茶に誘う手紙は、どう書けば受けていただけますか」
私は、少しだけ考えた。
それから、ペンではなく、彼の目を見て答えた。
「それは……口で、おっしゃってください」
「では」
レナード様が、姿勢を正した。
「ヴィオレット嬢。今度、私とお茶を飲んでいただけますか」
文章なら、もっときれいな返事が書ける。
けれど今は、これだけで十分だった。
「はい。喜んで」
――今度は、紙がなくても言えた。
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婚約破棄の手紙を、よりによって婚約者本人へ代筆させる男のお話でした。
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