不器用な愛を、君に囁く
「聖女様、こちらへ」
柔らかな声に導かれ、私は現実感のないまま、大理石の廊下を歩いていた。
足元には厚手の絨毯が敷かれ、歩く音すら吸い込んでしまう。高い天井には豪奢なシャンデリアが輝き、壁に掛けられた絵画の中の人物たちが、物珍しそうに私を見下ろしている気がした。
ほんの数時間前まで、私は市立図書館のカウンターで、延滞された本の督促状を作っていたはずなのに。
私の名前は小鳥遊詩織。二十六歳、職業は図書館司書。彼氏なし。趣味は古い物語を読むこと。
そんな平凡な私が、どうしてこんなお城のような場所にいるのか。
理由は一つ。「異世界召喚」という、物語の中でしか聞いたことのない現象に巻き込まれてしまったからだ。
「聖女様、国王陛下が謁見の間でお待ちです」
「あ、あの……私は聖女では……」
「ご謙遜を。あなた様こそ、この国を闇から救うと言い伝えられし、稀有な魔力をお持ちの『言の葉の聖女』様に違いありません」
巫女のような装束を纏った女性は、うっとりとそう言い切った。
私のどこにそんな大層な力が? 思い当たる節といえば、物語に深く感情移入して、登場人物の気持ちがまるで自分のことのように感じられる、というちょっとした特技くらいだ。でもそれは、ただの読書好きの特性であって、魔力なんかじゃない。
重厚な扉が開かれ、眩い光が私を包む。
広大な謁見の間。その一番奥、玉座に座る壮年の男性が、この国の王様らしい。彼の隣には、幼さの残る王女様らしき少女もいる。そして、玉座の脇に、その人は立っていた。
銀灰色の髪が、窓から差し込む光を弾いている。彫像のように整った顔立ち。けれど、その碧い瞳は凍てついた湖面のように冷たく、一切の感情を映していなかった。身に纏った純白の騎士服と、腰に提げた長剣が、彼の立場を物語っている。
ただそこにいるだけで、場の空気を支配するような、凛とした威圧感。
目が合った瞬間、背筋がぞくりと震えた。怖い。その一言に尽きた。
「よくぞ参られた、聖女殿。長旅の疲れ、察するに余りある」
国王陛下の温かい声にも、私の心臓は落ち着かない。あの騎士の視線が、値踏みするように私に突き刺さっているからだ。
「この者は、我が国の騎士団長アレクシス・フォン・クレイスト。聖女殿の護衛を任せる」
「……アレクシス・フォン・クレイストです」
低く、温度のない声だった。彼は儀礼的に片膝をつくこともなく、ただ私を一瞥しただけだ。その無礼とも取れる態度に、周囲がわずかにざわめいた。
「団長、聖女様に対してその態度は…!」
「事実の確認が先だ。本当にこの女が、我々の求める力を持っているのか」
冷徹な声が、謁見の間に響き渡る。
『この女』。その言葉に、私の肩がびくりと跳ねた。
向けられるのは、あからさまな侮蔑と猜疑心。まるで見たくもない汚物を見るような目だった。
「お言葉ですが、団長。彼女は神託によって召喚されし方。疑う余地など…」
「神託とて絶対ではない。ただの異世界の女に、国運を委ねるなど愚の骨頂」
ああ、もうダメだ。
帰りたい。あの静かで、本の匂いに満ちた図書館に。
不安と恐怖で唇が震え、涙が滲みそうになったその時だった。
「兄様! やめてくださいまし!」
玉座の隣から、甲高い声が飛んだ。王女様だ。彼女はアレクシス団長をキッと睨みつけると、私の元へ駆け寄ってくれた。
「ごめんなさい、聖女様。兄は、少し……人付き合いが苦手なだけなのです」
『兄様』? ということは、彼は王族なのだろうか。王女様は私のローブの袖をきゅっと掴み、潤んだ瞳で私を見上げた。
どうやら、この騎士団長には何か事情があるらしい。
けれど、そんな事情があったとしても、彼の私への敵意は本物だ。これからずっと、この人と一緒にいなければならないなんて、絶望的な気分だった。
こうして、私の波乱に満ちた異世界生活は、最悪の出会いから幕を開けたのだった。
私に与えられたのは、王城の一室だった。天蓋付きのベッドに、猫足の豪奢なソファ。窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がっている。まるで物語の中のお姫様の部屋だ。
けれど、私の心は少しも休まらなかった。部屋の外には常に護衛の騎士が立ち、私の保護者であり護衛役であるアレクシス団長は、一日に一度、報告のためだけに顔を出す。
「変わりないか」
「は、はい……」
「そうか」
会話はそれだけ。彼は私の顔すらろくに見ず、すぐに踵を返してしまう。向けられるのはいつも冷たい背中だけだ。
食事が運ばれてきても、喉を通らない日が続いた。故郷の味が恋しい、というわけではないけれど、緊張で胃が縮こまってしまっているのだ。
そんなある日のこと。夕食のシチューを口にして、私は目を見張った。
(……美味しい。なんだか、懐かしい味がする)
カボチャとタマネギの甘みが溶け込んだ、優しい味。それは、幼い頃に母がよく作ってくれたシチューの味に、どこか似ていた。その日、私は久しぶりにお皿を空にすることができた。
翌日も、その次の日も、私の前に並ぶ食事は、どこか日本の家庭料理を思わせる、素朴で優しい味付けのものばかりだった。最初は偶然かと思ったけれど、三日も続くと確信に変わる。誰かが、私のために……?
ある夜、私は喉の渇きを覚えて部屋を出た。侍女に水を頼もうと思ったのだ。
廊下の角を曲がったところで、ひそひそと話す声が聞こえてきて、思わず足を止める。アレクシス団長と、彼の副官らしき男性の声だった。
「団長、よろしいのですか? 料理長に毎日あれほど細かい指示を……」
「……余計な口を挟むな」
「しかし、聖女様の故郷の料理を再現するなど、いくら文献を調べたとはいえ…」
「彼女が食事を残していると報告があった。体調を崩されては計画に支障が出る」
「それは、そうですが……。あれは、団長の優しさでは?」
「黙れ。俺はただ、責務を果たしているだけだ」
息を呑んだ。
あの優しい味の料理は、全部この人が? 私が食事を残していることを知って、わざわざ私の世界の料理を調べて、料理長に指示まで……?
言葉とは裏腹な、あまりにも細やかな気遣い。
胸の奥が、きゅうっと締め付けられるような、甘い痛みに襲われた。冷たいと思っていたあの人の、意外な一面を垣間見てしまった。
その日から、私は彼を見る目が少しだけ変わった。
冷たい言葉は相変わらずだけど、その裏に何かあるんじゃないか。そう思って観察してみると、小さな発見がたくさんあった。
私が庭を散歩していると、彼は必ず遠くのバルコニーから私を見守っていること。
部屋に届けられる花が、私が故郷で好きだったスズランに似た花であること。
夜、私が眠れずにいると、廊下を警邏する彼の足音が、私の部屋の前でだけ、いつもよりゆっくりになること。
彼は何も言わない。けれど、その行動は雄弁に、私を気遣ってくれていることを示していた。
どうして、そんな不器用なことしかできないんだろう。
もっと普通に、「大丈夫か?」と声をかけてくれればいいのに。
そんなある日、事件は起きた。
気分転換にと、王女様と一緒に森の近くを散策していた時のことだ。茂みから、牙を剥いた獣――ゴブリンと呼ばれる魔物が、二体飛び出してきたのだ。
「きゃあああ!」
王女様の悲鳴。護衛の騎士がすぐに応戦するが、相手は二体。一体が騎士をすり抜け、私の方へ向かってくる。
もうダメだ、と思った瞬間。
風を切る音と共に、銀色の閃光が走った。
「――ッ!」
気づけば、私の目の前にはアレクシス団長の広い背中があった。彼の剣が、ゴブリンを一刀両断していた。
いつの間に現れたのか、息一つ乱していない。あまりの鮮やかさに、私は言葉を失った。
「……怪我は」
振り返った彼の声は、いつもと同じように硬い。
でも、その碧い瞳が、焦りと安堵がないまぜになったような色で、激しく揺れていることに私は気づいてしまった。
「な、ないです……ありがとうございます…」
「無事ならいい」
彼はそう言うと、剣を鞘に納めようとした。
その時だった。私は見てしまったのだ。
彼の、剣を握っていた右手が、カタカタと小さく震え、その指先から白い霜のようなものが立ち上り、一瞬だけ、薄い氷に覆われたのを。
「え……?」
それは本当に一瞬のことで、彼が手を騎士服の影に隠した時には、もう何も見えなくなっていた。
でも、確かに見えた。
まるで、指先が凍りついたかのように。
彼は私に背を向けたまま、低い声で言った。
「もう二度と、俺の許可なく城から出るな」
「で、でも…王女様が…」
「口答えをするな。お前は厄か…。いや、いい。戻るぞ」
突き放すような、冷たい命令。
彼の背中を見つめながら、私の頭の中は、先ほど見た光景でいっぱいだった。
あの氷は、一体……?
彼が何かを隠している。それだけは、確かなことだった。
あの日以来、私はアレクシス団長のことが気になって仕方がなかった。
彼の右手に現れた、あの薄氷。あれは一体何だったのだろう。
考えても答えは出ず、私は彼の副官である、赤毛の騎士ライオネルさんに尋ねてみることにした。
「ライオネルさん、少しよろしいですか?」
「聖女様。いかがされましたか?」
中庭で剣の訓練をしていた彼は、快く手を止めてくれた。私は意を決して、単刀直入に切り出す。
「アレクシス団長のことなんですけど……彼は、何か病気か何かを患って…?」
「……!」
ライオネルさんの表情が、明らかに曇った。何か知っているのだ。
「どうか、教えてください。この間の森で、団長の手が一瞬、凍ったように見えたんです」
「……見て、しまわれたのですね」
彼は深いため息をつくと、周囲に人がいないことを確認してから、声を潜めた。
「これは、ごく一部の者しか知らぬことですが……。団長は、呪いにかかっておいでです」
「呪い……?」
「はい。『氷心の呪い』と呼ばれる、古の魔女にかけられた呪いです。……強い感情を抱くと、その身が内側から凍てつき、いずれは心臓までもが氷の塊となって死に至る。特に、愛情や悲しみ、怒りといった、魂を揺さぶるほどの強い感情は、呪いの進行を著しく早めます」
言葉を失った。
強い感情を抱くと、体が凍る……?
じゃあ、あの冷たい態度も、無表情も、全て……。
「団長は、王太子であった頃、そのあまりの才覚を妬まれ、政敵によって呪いをかけられました。以来、団長は自らの感情を全て殺し、『氷の仮面』を被って生きてこられたのです。王位継承権も放棄し、ただ国を守る騎士として、誰とも深く関わらぬように……」
だから、あんなに不器用なんだ。
優しさを見せたくても、心配する気持ちを表に出したくても、できない。
私を気遣う気持ちが、彼を危険に晒してしまうから。
あの森で、私を守るためにゴブリンを斬った時。彼はきっと、私を失うかもしれないという恐怖や、守れたことへの安堵といった強い感情に襲われたんだ。だから、手が一瞬凍りついた……。
「俺のそばから離れるな」
あの言葉は、私を危険から遠ざけるための、彼の必死の叫びだった。
「お前は厄介事を持ち込む」
そう言いかけてやめたのは、本心じゃない言葉で私を傷つけたくなかったから……?
全ての点と点が、線で繋がっていく。
あの冷たい仮面の裏で、彼はたった一人、孤独な戦いを続けていたんだ。
私が感じていた小さな優しさは、命がけで絞り出してくれた、彼の精一杯の真心だったんだ。
「……何か、呪いを解く方法はないんですか?」
「古文書によれば、ただ一つだけ。『愛し愛される者からの真実の口づけが、氷の心を溶かす』と……。しかし、愛するという感情自体が団長の命を縮めるのです。あまりにも、皮肉な話でしょう」
愛することでしか解けない呪い。でも、愛せば死んでしまう。
なんて残酷な……。
その日から、私の行動は変わった。
私は王城の巨大な書庫に通い詰めるようになった。司書としての知識が、こんなところで役に立つなんて。
「言の葉の聖女」という私の召喚理由も、気になっていた。ただ異世界から来ただけじゃない。私にしかできないことがあるはずだ。
膨大な書物の中から、私は「呪い」と「愛」に関する記述を片っ端から探し続けた。
そして、一冊の、埃を被った古い絵本を見つけた。タイトルは『氷の王子と陽だまりの少女』。
ページをめくると、そこに描かれていたのは、強い感情を抱くと体が凍ってしまう呪いにかかった王子と、彼を愛した平民の少女の物語だった。まるで、アレクシス団長と私のようだ。
物語の中で、王子は少女への愛おしさで体が凍りつき、死の淵を彷徨う。
少女はただ泣くことしかできない。けれど、その時、少女がいつも王子に読んで聞かせていた詩の一節を、涙ながらに囁く。
『あなたの凍てつく心に、私の声が届くなら。言葉の陽だまりで、あなたを温めたい』
すると、その言葉が光となり、王子の体を包み込んで、呪いを和らげたのだ。口づけではなく、心からの『言葉』が、奇跡を起こした。
私は、そのページを読んだ瞬間、全身に電流が走るような感覚に襲われた。
これだ。これこそが、私の力。
物語の登場人物に共感し、その力を少しだけ引き出す。
もし、この物語の少女の「言葉の力」を、私が引き出すことができたなら――。
私はその絵本を胸に抱きしめた。
怖い。でも、やらなきゃ。
あの人を、孤独な戦いから救いたい。
氷の仮面の裏に隠された、本当の彼の心に触れたい。
ただ冷たいだけの人じゃない。誰よりも優しくて、不器用で、愛おしい人。
そのことに気づいてしまった今、もう見て見ぬふりなんてできなかった。
数日後、王都の近くにワイバーンの群れが出現したという報告が城を駆け巡った。
騎士団が総出で出撃するという。もちろん、その中にはアレクシス団長もいる。
胸騒ぎがした。いてもたってもいられず、私は書庫を飛び出し、城壁の上へと向かった。そこからなら、騎士団の戦いが見えるはずだ。
「聖女様! ここは危険です!」
「お願いします、少しだけ……!」
騎士の制止を振り切り、私は石壁の向こうを覗き込む。
平原で、銀色の鎧を纏った騎士たちと、空を舞う巨大な翼竜たちが激しくぶつかり合っていた。中でも、先頭に立ってワイバーンを次々と切り伏せていく一際白い騎士の姿は、すぐに分かった。アレクシス団長だ。
彼の剣技は、もはや芸術の域だった。けれど、その動きが、少しずつ精彩を欠いていくのが遠目にも分かった。仲間を庇い、民を守ろうとする彼の強い責任感が、呪いを進行させているのだ。
まずい。このままでは……!
その時、一際大きなワイバーンの王が、アレクシス団長に狙いを定めて急降下してきた。
団長は地上にいた仲間を庇い、その一撃を、剣ではなく自らの左肩で受け止めた。
「団長ッ!」
ライオネルさんの悲鳴がここまで聞こえてくる。
肩から血を流しながらも、アレクシス団長は怯まなかった。彼は振り向きざまに剣を振るい、ワイバーンの首を見事に刎ねた。
けれど、それが限界だった。
彼はその場に膝をつき、彼の全身から、白い冷気が立ち上り始めた。
左腕が、肩が、胸が、みるみるうちに白銀の氷に覆われていく。
「だめ……!」
私は懐から、あの絵本を取り出した。
ページを開き、少女が王子に語りかけるシーンを指でなぞる。
大丈夫。私には、この力がある。
『あなたの凍てつく心に、私の声が届くなら』
少女の気持ちと、私の気持ちが、一つに重なる。
お願い、届いて。私の声。
(アレクシスさん!)
私は声に出す代わりに、心の中で、彼の名前を叫んだ。
すると、私の体から淡い光が溢れ出し、真っ直ぐに、戦場にいる彼へと飛んでいく。
(聞こえますか? アレクシスさん!)
凍りつき、霞んでいく彼の意識の中に、私の声は直接響いた。
(死なないで。一人で戦わないで。あなたの痛み、少しでいいから、私に分けて)
冷たいと言われた。厄介者だと思われた。
でも、もう分かってる。
あなたの不器用な優しさを、私は知ってる。
だから、お願い。
(あなたの言葉は冷たくても、本当は温かいことを、私は知っています。あなたの瞳は凍てついていても、本当は誰より優しく揺れることを、私は知っています。だから……戻ってきて)
私の心の声が、光となって彼の体を包み込む。
すると、彼の体を覆っていた氷が、パリン、パリンと音を立てて砕け散っていくのが見えた。
完全に消えたわけじゃない。呪いが解けたわけでもない。
けれど、進行は、確かに止まった。
意識を取り戻したアレクシス団長は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、真っ直ぐに、私がいる城壁の上を見つめた。
何キロも離れているのに、彼と確かに目が合った。
戦いは、騎士団の勝利で幕を閉じた。
その夜、私は彼の部屋に見舞いに訪れた。
左肩に包帯を巻いた彼は、寝台に腰掛け、窓の外の月を見ていた。
「……団長、お加減は…」
「なぜ、あそこにいた」
「……」
「危険だと、言ったはずだ」
いつものように、咎めるような低い声。
でも、私はもう怖くなかった。
彼の本当の声が、私には聞こえるから。
「心配だったんです」
「……余計なことを」
「余計じゃありません」
私がそう言い返すと、彼は少し驚いたように私を見た。
私は彼の前に進み出る。彼の碧い瞳が、戸惑うように揺れている。
「あなたのこと、もっと知りたいです。あなたの心の声を、もっと聞きたいです」
もう、誤解したくない。すれ違いたくない。
凍てつく呪いごと、あなたを、抱きしめたい。
私のまっすぐな視線に、彼は耐えきれないというように、ふっと目を伏せた。
そして。
ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけ。
氷の仮面が、溶けた気がした。
彼の唇の端が、微かに、本当に微かに持ち上がったのだ。
「……ありがとう」
掠れた、囁くような声だった。
初めて聞く、彼の感謝の言葉。
初めて見る、彼の微笑みの欠片。
たったそれだけで、私の胸は、張り裂けそうなくらいに満たされた。
彼の呪いはまだ解けていない。私たちの間には、まだまだたくさんの障害があるだろう。
それでも、きっと大丈夫。
不器用な愛を、君に囁く。
いつかこの声が、氷を溶かし、君の心に届く日まで。
そう言ってくれているような、優しい月の光が、私たち二人を照らしていた。
小さな背中が、扉の向こうに消えていく。
俺は、静寂を取り戻した部屋で、己の右手を見つめていた。
不思議なことに、震えはなかった。心臓を締め付ける、あの凍てつくような痛みもない。
『あなたのこと、もっと知りたいです』
あの女……詩織の声が、耳の奥でこだましていた。
まっすぐな瞳。呪いすら恐れない、そのひたむきさ。
戦場で、凍りゆく意識の中、確かに聞こえた彼女の声。それは、まるで陽だまりのように温かく、俺の心を内側から溶かしていくようだった。
あれが「言の葉の聖女」の力なのか。
初めて会った時、厄介な存在だと思った。
感情の起伏に乏しい俺の心を、初めて揺さぶった異邦人。
この感情の凪いだ世界で、これ以上何も失わぬよう、誰にも心を動かさぬよう、ただ責務だけを己に課して生きてきた。だというのに。
彼女の存在は、俺が必死に築き上げた氷の壁に、いとも容易く波紋を広げた。
最初はただの監視対象だった。
異世界から来たという得体の知れない女が、本当に国の救いとなるのか。その一挙手一投足を見張り、些細な変化も見逃すまいと思っていた。
だが、俺が見た彼女は――。
ある日の昼下がり、書庫でのことだ。
俺は柱の影から、書架の間を歩く彼女の姿を遠巻きに眺めていた。巫女たちが持ってきた難解な魔法書ではなく、彼女が手に取ったのは、子供向けの挿絵が多い、古びた物語の本だった。
細い指が、愛おしむように本の背を撫でる。ページをめくる横顔は真剣そのもので、物語の世界に没入しているのだろう、時折小さく眉を寄せたり、ふわりと微笑んだりした。
その無防備な表情から、目が離せなくなった。
その時だ。胸の奥が、チリッと冷たい痛みを覚えたのは。呪いが警告しているのだ。『それ以上、感情を動かすな』と。
またある時は、庭園でのこと。
妹のリーリエに手を引かれ、彼女は散策をしていた。我が国の固有種である『月涙草』の花を見つけ、その場にしゃがみ込むと、まるで旧知の友人に語りかけるかのように、その白い花びらにそっと触れていた。
「綺麗……。夜にだけ、ほのかに光るのよね。故郷で好きだったスズランに、どこか似ているわ」
リーリエにそう語りかける声は、鈴を転がすように柔らかい。俺が侍従に命じ、彼女の部屋に飾らせていた花だ。気づいていたのか。その事実に、心臓が微かに熱を持つ。そしてすぐさま、それを罰するかのように鋭い冷気が背筋を走った。
危険だ。この女は、俺の感情を揺さぶりすぎる。
俺が料理長に指示したと気づいているのかは分からない。だが、彼女が故郷の料理を懐かしむように、少しずつ食事を口にするようになったと報告を受けた時、俺は詰めていた息を、自分でも気づかぬうちに吐き出していた。安堵、と呼ぶにはあまりにも微かで、けれど確かな温かい感情。それが、この身を蝕む毒なのだと、頭では理解しているのに。
彼女がゴブリンに襲われた、あの時。
茂みから飛び出す魔物と、恐怖に目を見開く彼女の顔が、やけにゆっくりと見えた。
頭で考えるより先に、体が動いていた。気づけば、彼女の前に立ち、剣を振るっていた。
無我夢中だった。彼女の悲鳴を聞きたくない、ただそれだけだった。
彼女の無事を確認した瞬間、凄まじい安堵が全身を駆け巡った。同時に、右腕に激痛が走る。強い感情の奔流が、呪いを活性化させたのだ。見れば、指先が霜で覆われ始めていた。
まずい、見られるわけにはいかない。
恐怖が俺を支配する。この呪いを知られたら、彼女は俺を化け物のように見るだろうか。怯えるだろうか。
だから咄嗟に隠し、突き放した。
『俺のそばから離れるな』。本心だった。危険だからではない。俺が、この腕で、守れる場所にいてほしかった。
『口答えをするな』。違う。本当は、怯える彼女を抱きしめてやりたかった。怖かっただろう、と。温もりを与えてやりたかった。
だが、言えるはずもない。触れることすら、許されないのだから。
だというのに、彼女は。
俺の氷の仮面の奥にあるものを見抜き、あろうことか、呪いごと受け入れようとしている。
「ありがとう」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
ほんの少しだけ、口元が綻んだのが自分でも分かった。何年ぶりのことだろうか。感情を表に出すということが。
ああ、愛おしい。
この感情が、俺の命を削る毒だと分かっていても、もう止めることはできないだろう。
君を守りたい。
君のそばにいたい。
いつか、この呪いを克服した先に。
凍てついたこの唇で、君の名前を呼べたなら。
今はまだ、心の中でしか囁けない。
――不器用な愛を、君に。
俺はそっと、彼女が触れた左肩の包帯に触れた。
そこにはまだ、陽だまりのような温もりが、残っている気がした。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
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