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二人の距離

作者: 久遠 睦

第一部 交わらなかった線


第一章 海斗・過去の設計図


宮沢海斗(35歳)は、古い空間に新しい命を吹き込むことを生業としていた。リフォームデザイナーという仕事は、依頼主の未来の暮らしを設計図に落とし込む作業だ。壁を取り払い、光を通し、動線を整える。そうして出来上がった空間で、家族は新しい物語を紡ぎ始める。だが、彼自身の人生の設計図は、三年前に破綻したままだった。


その日、海斗は京都市内の古い町家で、クライアントである若い夫婦と打ち合わせをしていた。彼の仕事は、まず聞くことから始まる。どんな暮らしを望んでいるのか、何に不便を感じているのか。夫婦の希望を丁寧に聞き取り、それを実現可能な形に翻訳する 。


「子供部屋は、将来二つに分けられるようにしたいんです」

「キッチンは対面式にして、リビングにいる子供の様子が見えるように…」


熱心に語る二人の言葉の端々に、これから始まる生活への期待が滲んでいる。海斗は微笑みながら頷き、手元のスケッチブックにペンを走らせる。だが、その脳裏には別の光景が蘇っていた。かつて自分も、同じように未来を語り合った妻の顔。子供の教育方針を巡って些細な対立が増え始めたこと 。互いにキャリアを追い求める中で、夫婦として過ごす時間が削られていったこと。統計上、30代の離婚理由として最も多いとされる「性格の不一致」という言葉 。そのありふれた言葉の裏には、無数の小さな亀裂と、埋められなかった溝が存在した。共働きによるすれ違い、価値観のズレ、そしてセックスレス。どれもが、じわじわと彼らの関係を蝕んでいった 。


「宮沢さんはどう思いますか?」


妻の言葉に、海斗は我に返った。

「そうですね。この柱は構造上抜けませんが、ここに可動式の間仕切りを入れれば、柔軟に対応できます。キッチンの壁を取り払うことで、かなり開放的なLDKが実現できますよ」

彼の提案は、常に現実的で、機能性を重視している。感傷を差し挟む余地はない。それがプロの仕事だった 。


打ち合わせを終え、会社に戻る前にスマートフォンが震えた。元妻からの短いメッセージだった。『今週末、海翔かいとのことお願いね』。承諾の返信を打ちながら、胸に微かな痛みが走る。離婚のデメリットとして挙げられる、子供への影響や養育費の支払い 。それらは今や彼の日常の一部だった。


彼が一人で暮らすマンションは、西陣の古い町並みが残るエリアにあった 。部屋は彼の性格を映すかのように、ミニマルで整然としていた。生活に必要なもの以外は何もなく、機能的ではあるが、温かみに欠ける空間。まるでモデルルームのようだ、と彼は時々自嘲気味に思う。


一人分の夕食を準備しながら、彼は考える。空間を改築することはできても、人の心や過ぎ去った時間を修復することはできない。自分は他人のための設計図は描けるのに、自分の人生をどう再設計すればいいのか、皆目見当がつかなかった。夜、彼は目的もなく祇園を歩いた。石畳の花見小路は、歴史の重みを感じさせる 。しっかりとした土台の上に築かれた町。今の彼が最も求めているものかもしれなかった。


第二章 美緒・キュレーションされた静寂


木下美緒(28歳)の世界は、大規模書店「京都ブックスクエア 岡崎」の高くそびえる本棚に守られていた。彼女の職業は、ブックコンシェルジュ。単なる書店員ではなく、客の漠然とした要望から最適な一冊を提案する専門家だ 。その仕事に、彼女は深い満足感を得ていた。


「旅に関する本を探しているんですけど、どこかこう、まだあまり知られていないような場所で…」


曖昧なリクエストに対し、美緒はいくつかの質問を重ねる。

「お一人での旅ですか?それとも、どなたかと?自然がお好きですか、それとも歴史的な街並みに興味がありますか?」

客との対話を通じて、その人が本当に求めているものを引き出し、物語へと繋いでいく 。彼女にとって、それは本を売るという行為以上の、経験をキュレーションする作業だった 。


彼女の人生そのものが、注意深くキュレーションされていた。仕事に打ち込み、休日は一人でカフェを巡ったり、陶芸教室に通ったりする。その生活は静かで、満ち足りていた。恋愛は、その完璧な調和を乱す「面倒くさい」ものでしかなかった 。


「木下さん、今度合コンあるんだけど、来ない?」

昼休憩の際、同僚が悪気なく誘ってきた。美緒は穏やかに微笑んで首を横に振る。

「ありがとう。でも、週末は作りたい器があって」

同僚は「またー?彼氏作らないの?」と笑うが、美緒は気にしない。恋愛に興味がないと言うと、周りから「変わっている人」だと思われることには慣れていた 。


彼女が恋愛を避けるのには、いくつかの理由があった。まず、自分の自由な時間が減ること 。誰かと付き合えば、メッセージの返信頻度に気を揉んだり、デートの予定を調整したりしなければならない。自分のペースが乱されることが、彼女には苦痛だった。そして、お金がかかること 。さらに言えば、過去の恋愛で経験した、自分の感情が相手の一挙手一投足に振り回される感覚が嫌だった 。もう傷つきたくないし、穏やかな日常を壊されたくない 。


彼女のアパートは、観葉植物の緑と、趣味で集めた焼き物で彩られていた。一人でいることに寂しさを感じることはない。むしろ、一人の時間は気楽で、何にも縛られず、思考を深めるための貴重な時間だった 。20代前半に経験した恋愛は、彼女に「自分は恋愛に向いていない」と確信させるのに十分だった。相手に期待しすぎて勝手に失望したり、些細なことで不安になったり 。そんな感情の浮き沈みから解放された今が、何よりも平和だった。


もちろん、このままでいいのかと不安になる瞬間がないわけではない。友人たちの結婚報告を聞くたびに、自分だけが違う道を歩いているような感覚に陥ることもある 。だが、彼女は不幸だとは思っていなかった。恋愛をしなくても、人生を豊かにする方法はいくらでもある。彼女は本を通じて、無数の人生を旅することができるのだから。


その夜も、美緒は新刊の小説を読みながら、ハーブティーを飲んでいた。物語の登場人物たちの恋愛模様を、彼女は常に少し引いた視点から、冷静に観察していた。


第三章 角の町家カフェ


二人の人生が交差したのは、祇園四条駅からほど近い、花見小路から一本入った路地だった。海斗は仕事のリサーチのため、築100年の町家を改装したカフェ「雨音茶寮あまおとさりょう」を訪れていた。歴史ある建物を現代の生活様式に合わせてどう蘇らせるか、そのヒントを探していたのだ。店内は、格子の窓や坪庭といった京町家の趣を残しつつ、モダンな家具が配置され、心地よい調和を生み出していた 。


海斗がカウンター席に座り、季節の京野菜をふんだんに使ったランチプレートを待っていると、窓際の席に座る一人の女性が目に入った。それが美緒だった。彼女は休日の午後を、お気に入りのカフェで過ごしていたのだ。手元のノートに、一心不乱に何かを描いている。その集中力は、周囲の雑音を一切遮断しているかのようだった。


海斗は、彼女の姿に興味を引かれた。それは恋愛的な好奇心とは少し違う、もっと静かな関心だった。彼女が描いているのは、カフェの梁や柱、窓枠といった建築的なディテールだった。自分と同じものに目を向けている。その事実に、彼は微かな親近感を覚えた。


ランチを食べ終えた後も、海斗はしばらく席を立てずにいた。彼女に話しかけるべきか、逡pyrrolする。普段の彼なら、見知らぬ女性に声をかけることなど絶対にしない。だが、今日は何かが違った。それはおそらく、このカフェの持つ穏やかな空気のせいであり、彼女の纏う自己完結した世界のせいでもあった。


意を決して、彼は彼女のテーブルに近づいた。

「すみません、邪魔して。建築関係の方ですか?とても熱心にスケッチされていたので」


美緒は驚いて顔を上げた。少し警戒したような表情を浮かべたが、海斗の穏やかな物腰に、その緊張がわずかに解けた。

「いえ、ただの趣味です。古い建物の、こういうディテールを見るのが好きで」

彼女はそう言って、スケッチブックを少しだけ彼の方に向けた。そこには、鉛筆の繊細なタッチで、窓枠の木組みや、すり減った床板の質感が描き出されていた。


「素晴らしいですね。ここのリノベーションは、元の建物の良さをすごく尊重している。古いものと新しいものが、うまく共存している感じがします」

海斗の言葉に、美緒の表情がぱっと明るくなった。

「わかります。私もそう思うんです。ただ新しくするだけじゃなくて、歴史をちゃんと残しているところが素敵ですよね」


短い会話だった。互いに名乗ることもなく、連絡先を交換することもない。ただ、同じ空間で、同じものを見て、同じように感じたという事実だけが、二人の間に静かに横たわった。


美緒が席を立ち、会計を済ませて店を出ていく。海斗はその背中を、ただ黙って見送った。不思議な余韻が残った。それは恋の始まりを予感させるような華々しいものではなく、雨上がりの土の匂いのような、静かで心に染み入る感覚だった。


第二部 ゆっくりと、ほどけていく


第四章 御苑の対話


「雨音茶寮」での出会いから数週間が過ぎた。季節は初夏を迎えようとしていた。海斗は仕事で京都ブックスクエア 岡崎を訪れた際、偶然にもブックコンシェルジュとして働く美緒の姿を見つけた。彼は驚き、そして少しの躊躇ののち、彼女に声をかけた。美緒も彼を覚えていた。「町家カフェの人」として。


その週末、海斗の提案で、二人は京都御苑を散策することになった 。それはデートというにはあまりにぎこちなく、友人との散歩というには少しだけ意識的な、曖昧な約束だった。


広大な苑内の木々の緑は深く、初夏の日差しを浴びて輝いていた。紫陽花が咲き始めており、青、紫、白、ピンクの花々が目に鮮やかだ。土壌の酸性度によって色を変えるというその花は、人の心が環境や経験によって様々に変化していく様に似ている、と海斗は思った。

「綺麗ですね」

「ええ。でも、見頃はもう少し先かもしれませんね」

会話は当たり障りのない、天気や花についてのものに終始した。二人の間には、まだ心地よいとは言えない距離があった。


季節が巡り、秋が深まった頃、彼らは再び同じ公園を歩いていた。苑内の木々が色づき始め、燃えるような赤と、はっとするような白の彼岸花が咲いていた。その鮮烈な風景が、二人の会話を少しだけ個人的なものへと導いた。


「離婚してから、こういう時間を誰かと過ごすのは久しぶりです」

海斗がぽつりと漏らした。彼は自分の過去を、感傷的にならず、事実として淡々と語った。30代の恋愛は、20代の頃とは違い、結婚や将来の生活といった現実的な要素が絡んでくる 。一度失敗したからこそ、慎重になるのだと。


その言葉に、美緒は静かに耳を傾けていた。そして、自分の考えを口にした。

「私は、恋愛をすると自分のペースが乱されるのが怖いんです。誰かに縛られたり、気持ちを振り回されたりするのが嫌で… 。今の、穏やかに過ごせる生活が気に入っているんです」

それは彼女の本心だった。恋愛によって得られるものよりも、失うものの方が大きいと感じていた。


「来週も、もしよかったら」

海斗が、これまでの関係の流れで自然と口にした言葉だった。だが、その瞬間、美緒の表情が微かにこわばるのを彼は見逃さなかった。彼女は少し間を置いてから、「ええ」と頷いたが、その心の中では、これが「毎週の決まり事」になってしまうことへの不安が渦巻いていた。自分のテリトリーに、他人が定期的に入ってくる。そのことに、彼女はまだ慣れることができなかった。


彼らの関係は、京都御苑の季節の移ろいのように、ゆっくりと、しかし確実に変化していた。夏の紫陽花のような淡い距離感から、秋の彼岸花のような少しだけ踏み込んだ色合いへ。だがその道筋は、決して平坦ではなかった。


第五章 本の壁、心の壁


彼らの交流の舞台は、公園という中立地帯から、美緒のテリトリーである京都ブックスクエア 岡崎へと移った。海斗が、ヨーロッパの古建築修復に関する専門書を探している、という名目で彼女を訪ねたのだ。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

ブックコンシェルジュのプレートを胸につけた美緒は、プロの顔をしていた。海斗が探している本のテーマを伝えると、彼女はただそのジャンルの棚へ案内するだけではなかった。

「どのようなプロジェクトでお使いになるんですか?石造りの教会ですか、それとも木造の民家でしょうか」

彼女は海斗のニーズを深く理解しようと努め、彼が思いもよらなかった視点から、いくつかの書籍を推薦した 。その知識の深さと仕事への情熱に、海斗は純粋な敬意を抱いた。彼女は単なる店員ではなく、自分の専門分野を持つ一人のプロフェッショナルだった。


二人は、この書店の象徴的な空間、壁一面に広がる巨大な本棚の前に立った。その光景は圧巻で、多くの人がスマートフォンを向けて写真を撮っている。

「すごいですよね。みんなここで写真を撮っていく」

海斗が感心したように言うと、美緒は少し皮肉っぽく微笑んだ。

「ええ。でも、この壁の本を実際に手に取って読む人は、あまりいないんですよ」


その言葉をきっかけに、二人の会話は「外見と実体」というテーマへと移っていった。いかに人々がSNS映えする人生を演出しようとしているか。いかに見せかけが重視される時代であるか。美緒は、恋愛に興味がない自分を「変人扱い」する周囲の視線と、この本の壁との間に、ある種の共通点を感じていた 。誰もが「普通」という名の見栄えの良いフレームに収まろうと必死になっている。


「この本、在庫が切れていますね。お取り寄せしましょうか?」

美緒が提案した。その小さな、しかしプロフェッショナルな気遣いが、海斗の心に深く響いた。それは、彼らの次の接点が自然に生まれることを意味していた。


この日、海斗は美緒に対して、新たな尊敬の念を抱いた。公園を散策している時の彼女とは違う、自分の領域で輝く姿。それは、互いの人生を尊重し合う、成熟した関係の始まりを予感させた 。力関係が対等で、互いの専門性を認め合う。そんな心地よいバランスが、二人の間に生まれつつあった。


第六章 織りなす一枚


京都という土地への興味は、二人を自然と伝統産業へと向かわせた。彼らが次に訪れたのは、西陣にある織物資料館だった。


館内で二人の心をとらえたのは、絢爛豪華な西陣織の打掛や、気の遠くなるような工程を経て作られる帯の展示だった 。そして、手機てばたを巧みに操る職人の実演。伝統的な絹織物だけでなく、カーボンファイバーといった新しい素材を取り入れた革新的な作品も並んでいた 。


「伝統は革新の連続なんです」と、案内してくれた年配の職人は言った。「古いものだけを守っていても、時代に取り残される。かといって、新しいものばかり追いかけても、根無し草になる。古い糸と新しい糸、縦糸と横糸、両方があって初めて、未来に繋がる一枚が織りなせるんです」 。


資料館を出て、鴨川の河川敷に座り、川面を眺めながら彼らは話した。

「私には無理ですね、あんな風に何かを創り出すなんて」

美緒が感嘆の声を漏らす。

「そうかな。でも、俺は逆かもしれない。前の結婚も、二人の違いをうまく織りなせていたら、違う結果になっていたかもな」

海斗の言葉は、彼の後悔を滲ませていた。伝えるべきことを伝えなかったコミュニケーションの失敗。それが、彼の離婚の一因であったことを、彼は自覚していた 。


この日を境に、「織りなす」という言葉は、二人の関係性を考える上での、静かな道しるべになった。バラバラに見える互いの価値観も、時間をかければ美しい一枚の布のように織りなせるかもしれない。そんな淡い希望を、その言葉は与えてくれた。


地元の歴史と伝統という共通の興味は、単なる知識の共有以上のものをもたらした。それは、自分たちの性格やコミュニケーションの在り方を、客観的に見つめ直すための鏡となったのだ。職人の静かな誇りと、その言葉の持つ深い意味が、現代を生きる二人の関係に、思いがけない彩りを加えていた。


第七章 近づきすぎた一歩


関係が心地よいものになるにつれて、海斗の中に、かつて慣れ親しんだ感情が芽生え始めていた。それは、誰かと「対」になるという感覚だった。雨がそぼ降る午後、二人は二条城の北、静かな住宅街にあるブックカフェ「書斎喫茶 栞」にいた。静かで、一人で過ごすのにも最適なこの場所は、彼らのお気に入りの一つになっていた。


温かいコーヒーを飲みながら、海斗はごく自然な口調で言った。

「この間、息子に美緒さんのことを話したんだ。大事な友達だって」


その言葉は、彼にとっては善意からの、そして関係の前進を示すためのものだった。しかし、美緒にとっては、それは警報のように響いた。彼女の世界に引かれた境界線が、許可なく踏み越えられたように感じたのだ。彼の人生の一部に、彼の家族の物語の中に、自分が組み込まれていく。それは、彼女が最も恐れていたことだった。自分のペースが乱され、行動が制限されることへの恐怖が、一瞬で彼女の心を支配した 。


彼女の反応は、怒りではなかった。もっと冷たく、素早い撤退だった。それまで和やかだった表情からすっと色が消え、空気が張り詰める。

「…そうなんだ」

短い返事。それ以上の言葉は続かなかった。


海斗は戸惑った。自分の何が間違っていたのか、すぐには理解できなかった。彼はただ、正直でありたかっただけなのだ。だが、彼は気づいていなかった。自分が、離婚を経て安定したパートナーシップを求める30代男性の視点から 、無意識のうちに、彼女との関係に「恋人」という既存の設計図を当てはめようとしていたことに。


「ごめんなさい、ちょっと用事を思い出したから、今日はこれで」

美緒はそう言って、足早に席を立った。


一人残された海斗は、冷めていくコーヒーを見つめながら、会話を反芻していた。彼はまた同じ過ちを犯したのかもしれない。相手の価値観を十分に理解せず、自分の期待を押し付けてしまうという過ちを 。


一方、アパートに帰り着いた美緒は、安堵と自己嫌悪の入り混じった感情に襲われていた。ほら、やっぱり。恋愛はこういう面倒な事態を引き起こす。自分の選択は正しかったのだと、心の一部が囁いていた。しかし同時に、海斗の傷ついたような、当惑した顔が脳裏から離れなかった。彼女は、自分の殻に閉じこもることで、誰かを傷つけてしまったのかもしれない。その事実に、胸がちくりと痛んだ。


第三部 新しい設計図


第八章 二人の間の「余白」


一週間の、重苦しい沈黙が流れた。メッセージのやり取りは途絶え、二人の間に生まれた心地よいリズムは完全に崩壊していた。先に沈黙を破ったのは、海斗だった。彼は短いメッセージを送った。それは、自分の気持ちを押し付けたことへの謝罪であり、自分の期待を相手に投影してしまったことへの反省だった。言い訳がましくなく、ただ事実を認める、誠実な言葉だった。


『もしよければ、もう一度話せませんか』


彼が待ち合わせ場所に指定したのは、鴨川の河川敷だった 。遮るもののない、開けた空間。そこなら、互いに正直な気持ちを話せるかもしれないと思ったからだ。


川岸のベンチに座り、二人はこれまでで最も率直な対話をした。

「ごめんなさい。あの時、すごく怖くなってしまったんです」

美緒が先に口を開いた。彼女は、自分の人生が誰かのものに組み込まれてしまうことへの恐怖を、正直に語った。恋愛によって自分らしさを失い、穏やかな生活が壊れてしまうことへの強い不安 。それは、過去の経験から学んだ自己防衛本能だった 。


海斗は静かに頷き、そして自分の気持ちを話した。

「俺の方こそ、ごめん。君の気持ちを考えていなかった。離婚して一人になって、正直、寂しかったんだと思う。君といる時間が心地よくて、勝手に期待してしまった」

彼は、結婚生活の終わりに感じた孤独を繰り返すことを恐れていた。だが、その恐れが、相手への配慮を欠いた行動に繋がったことを認めた。


この対話は、二人の違いを「解決」するものではなかった。むしろ、その違いを明確に認め、受け入れるためのものだった。美緒は、恋愛から距離を置きたい。海斗は、誰かとの繋がりを求めている。この根本的な価値観の違いは、簡単には埋まらない 。


「私たちは、多分、普通の恋人にはなれないんだと思う」

美緒の言葉に、海斗は静かに答えた。

「それでいいのかもしれない。無理に形に嵌めようとするから、うまくいかなくなる。俺たちが心地いいと思える距離を、探していくしかないんじゃないかな」


彼らは、二人の間にある「余白」は、埋めるべき欠陥ではなく、互いの独立性を保つために必要な、尊重すべき領域なのだと理解し始めた。それは、新しい関係性の設計図を描き始めるための、第一歩だった。定義のない、名前のない関係。ただ、互いを尊重し、正直でいることだけを約束する。その不確かさこそが、今の二人にとっては唯一の確かなものだった。


第九章 鴨川に沈む夕日


あの川岸での対話から、数ヶ月が過ぎた。二人の間には、新しい、穏やかなリズムが生まれていた。彼らは会いたい時に会い、話したい時に話す。互いの生活に深く干渉することはなく、一人の時間を過ごすことが、不安や疑念の原因になることもなかった。それは、30代の恋愛観が求める「お互いがそれぞれの人生を楽しみながら並走できる関係」そのものだった 。


その日の夕方、彼らは再び鴨川の土手にいた。どちらからともなく、自然と足が向いたのだ。言葉少なに、ただ並んで座り、空が茜色から深い藍色へと変わっていくのを眺めていた。


壮大な宣言も、愛の告白もない。海斗は彼女に「付き合ってほしい」とは言わず、美緒も「恋愛に前向きになった」と告げることはなかった。ただ、心地よい沈黙が二人を包んでいた。それは、一人でいる時の静けさとは違う、誰かと共有することで深まる、満たされた静寂だった。


海斗は、心の中で静かなエピファニーを迎えていた。かつての結婚生活は、「夫」「妻」という役割と、数えきれないほどの暗黙の義務で満たされていた。だが、今ここにあるのは、何の定義も義務もない、ただ純粋な信頼と安らぎだった。彼が本当に求めていたのは、世間的な「幸せの形」ではなく、この名もなき、しかし確かな繋がりだったのかもしれない。


美緒もまた、穏やかな気持ちで夕日を見つめていた。彼女の境界線は尊重され、誰かを人生に受け入れても、自分の世界が崩壊するわけではないことを知った。彼女は伝統的な意味で「恋に落ちた」わけではない。しかし、彼女の人生を乱すのではなく、豊かにしてくれる深い絆を、確かに感じていた。それは、恋愛に依存せず、多面的に自分を磨いてきたからこそ得られた、健全な心の支えだった 。


夕日が完全に沈み、一番星が瞬き始める。二人の未来は、まだ白紙の設計図のままだった。しかし、その余白はもはや不安の象徴ではなく、無限の可能性を秘めた、自由の証のように思えた。


第十章 開かれた間取り


さらに数ヶ月後。海斗はクライアントに新しいリフォームプランを提示していた。それは、可動式の間仕切りを多用した、広々としたオープンフロアプランだった。

「この設計のコンセプトは、『繋がりと独立の両立』です。家族が集う開放的な空間でありながら、必要な時にはそれぞれのプライベートな領域を確保できる。柔軟性が、これからの暮らしには重要だと考えます」

彼のデザイン哲学は、美緒との関係を通じて、明らかに変化していた。彼の言葉には、以前にはなかった深みと説得力が宿っていた 。


同じ頃、京都ブックスクエア 岡崎で、美緒は一人の客の相談に乗っていた。結婚へのプレッシャーに悩んでいるというその女性に、美緒は一冊の本を差し出した。それは、既存の価値観に縛られず、自分らしい幸せを見つけた人々の生き方を紹介するノンフィクションだった。

「無理に誰かに合わせる必要はないんですよ。自分にとって心地いい生き方を見つけるのが、一番大切ですから」

彼女の言葉は、かつての自分自身に語りかけるようでもあった 。


その日の夜、海斗は仕事を終えた美緒を京都ブックスクエアの前で待っていた。

「お疲れ様。ラーメンでも、どう?」

海斗が笑いながら言うと、美緒も微笑み返した。

「いいね。お腹すいた」


二人は並んで夜の京都を歩き出す。彼らの間に、「私たちは何なのか」という問いが浮かぶことは、もうない。彼らはただ、海斗と美緒だった。未来の設計図は描かれていない。結婚の約束も、同棲の計画もない。そこにあるのは、今この瞬間の、ささやかで確かな温かさと、これから二人で歩んでいく日々の、どこまでも開かれた間取りだけだった。


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