四十話 五十年前のこと 2
逆月山より東に一里ほど進んだ、山の奥深く、茅葺の小さな小屋が見えた。
壁には蔦が這い、そこからのぞく壁板は黒く変色している。さらに、その引戸は所々亀裂が走っていた。
己亥は引戸の前に立つと、その引戸を強く叩いた。
「牧田殿、いらっしゃるかッ」
戸を叩くたび、板が軋む。
「何じゃあッ」
すると、小屋の中から嗄れた胴間声が響き、地鳴りのような足音がしたかと思うと、バタンッと勢いよく戸が開いた。
「なんじゃあ、己亥」
と、小屋の主人である老人は、目をぎょろりと光らせ、己亥とその後ろに隠れる晴天丸を睨んだ。
老人は、いかにも偏屈そうな顔で、口がへの字に歪んでいた。
「牧田殿、不躾な願いですが、この少年を預かってくれませんか」
と、己亥は身体を横へ滑らせ、晴天丸の背を軽く押した。
牧田の気迫に晴天丸は、びくびく怯えている。
「そりゃ、鬼かえ?」
「そうです」
「大釜山の生き残りけぇ?」
「まあ、そうでしょう」
「わしに鬼の面倒を見ろ、とな?」
老人は目を細めた。
「ええ」
「お前が育てりゃ、ええじゃろが」
わかりきったことを訊く。
老人も意地が悪い。
三ノ衛将軍家の嫡子として、己亥は日々人と接するし、父母親族に隠し通せるものではないだろう。
子供とて、鬼が衆目に晒されることはまずい。
「無理ということは老人、あなたが一番よく知っているでしょう」
己亥は苦い顔をした。
「あっははは。まあ、そうだろうな。お前にゃあ育てられん」
牧田翁は大笑いに笑った。
こんな山奥に住んでいるとおり、偏屈な老人だが、悪い人間じゃない。
「わししかおらんかったのじゃろ」
牧田翁は可笑しそうに笑っている。
そして、気分が良さそうに
「ええぞ、引き受けてやってやる。恩に着イや、小僧」
「ハイ。拙者の無理な願い、聞き受けてくれてありがとうございます」
と、己亥は律儀に、深々と頭を下げた。
老人は鼻を鳴らし、己亥を見下ろすように見ている。
一応、身分上でいえば、己亥は将軍家の嫡子であり、牧田翁はただの老人でしかない。
普段であれば、顔も拝めないほどの身分差であるのだが、己亥はこの程度で起こるほど狭量な器ではないし、かわって牧田は狷介な老人として有名である。
「オイ、小鬼」
牧田が呼ぶと、晴天丸は、びくっと震えて己亥の後ろに隠れるようにし、彼の着物の裾を掴んだ。
己亥はやや困った顔をした。
「牧田殿、もう少し優しく接してはくれませんか。これでは彼が怯えてしまいます」
「ハッ、子供とて、この程度で臆するが男児かイ」
「まあ、それはそうですが……」
自分が引き取れない以上、頼めそうなのは今のところ老人だけである。
「晴天丸」
と、己亥は、自分の足元で怯える小鬼の名を呼んだ。
そして、しゃがんで晴天丸と目線を合わせた。
「すまないが、わしはずっとお前のそばにいてやることはできん。だが、この老人がそばにいてくれる。……口は悪いが、悪人ではない」
晴天丸は首をふるふると横に振った。
己亥と別れたくないらしい。
「晴天丸、男の子だろう。このくらいで泣くな。みっともないぞ」
「………」
晴天丸は口をぎゅっと閉じて今にも泣きそうな顔。
そんな彼を安心させるためか、
「なに、あと二年すればまた戻ってくる。これが今生の別れになるわけじゃない」
と、己亥は、晴天丸の頭を優しく撫でてやった。
ただ、晴天丸にとっては受け入れ難いのか、ぎゅっと己亥の着物の袖を掴んだ。
己亥は困った笑みを溢した。
晴天丸は俯いた。
そのまま黙然。
しばし過ぎ、
「オイっ」
待つことに飽いたのか、牧田が二人を睨むように見据えた。
二人は、一様に牧田を見上げた。
「小鬼、お前の身に何が起こったか興味はないが、だいたいは想像がつく。だがノー、これがお前の終わりではなかろう。お前は奇縁によって助かった」
老人は歪んだ顔つきのまま続ける。
「ならば、次は何だ。この小僧にくっついて生きていくか。……ハッ、わがまま言ウなよ。この坊が許せど、その周りのモンが許さん。お前を生かしておかん。どうだェ、そうだろう?」
「牧田殿の言う通りです」
己亥は、老人の言葉に頷いた。
「晴天丸、泣いてばかりではいけない。お前はこれから一人で生きていかねばならぬ時が必ずくる」
「………」
「わしが言えた立場ではないが……晴天丸、強くあれ」
己亥は強い眼差しを晴天丸へ向けた。
晴天丸は、己亥を見つめた。
木の葉が数枚、目の前を通り過ぎ。
少しの沈黙の後、晴天丸は飛び込むように、ぎゅっと己亥に抱きついた。
そして、少しすると、満足したのか、自分から己亥から離れ、彼の顔をしっかりと見た。
「……わかった。がんばる」
晴天丸はこくりと、頷いた。
「よし、いい子だ」
己亥は、また彼の頭を撫でてやった。
「終わったけェ?」
「ええ」
己亥は立ち上がった。
春の新緑が辺りを囲み、小屋もその中。
枯れた冬は過ぎ、新たな芽は至る所。
「あの……ッ」
別れ際、晴天丸は己亥を呼び止めた。
「やくそく、ぜったい守る」
「ああ、忘れるな。そして、これからを生きろ」
晴天丸の言葉に、己亥は頷き、強く応えた。
「では牧田殿、お願いします」
そう牧田翁へ頭を下げたが、彼の老人はハッ、と嘲笑うように笑っただけであった。
己亥は古びた小屋に背を向け、一歩二歩、徐々に遠ざかっていく。
去り行く彼の、土を踏む音が大きく鳴った。




