一話 籠の中の鳥は
鳥籠の鳥にとって外の世界とはどのように映るのだろうか。
果てしない地平線を希い美しく見えるのか、それとも悪魔や天災が轟々として存在するおそろしい異界に見えるのか。
(僕はきっと前者だな)
そう、ルゥラは思った。
空は青く澄みわたり、人の希望や夢の全てをこの空が受け入れてくれるような気がする。
彼は今日、初めて街の外に出た。
今までは高い城壁に囲まれた街で、外の世界を夢見るしかなかったが、今年見習いという体で、父親が会頭を務めるライン商会の商隊に、同行させてもらえることになったのだ。
ルゥラ、十歳。
まだ十分あどけなさが残っている。
そして、今。
商隊が小休止に入ったところで、ルゥラは小さな丘の傾斜に、仰向けに寝転がり、天を眺めた。
(広いなぁ)
一体どこまで広がっているのか空の底は見えず端も見えない。
この地上のモノは大抵有限であるが、空だけは唯一目に見える無限のように感じる。
「おい、ルゥ!」
唐突に周りの空気を裂くような声が聞こえた。
父親の声だ。
ルゥラは、周りの人間から親しみを込めてルゥと呼ばれていた。
「そろそろ出発するぞ!」
ルゥラ以外は全員出発準備を終えている。
「うん、今行くよ!」
ルゥラは近くに生えてあった雑草の花を踏み、仲間達の元へ駆けた。
ルゥラ達の商隊は移動している。
彼等が今いる森は広大で数日間は似たような景色が続くが、森を抜ければすぐ目的の街である。
(たしか……食器を買うんだっけ)
目的の街ラマークは陶器の街として有名で、街には数十軒の工房があるという。
——おいッ、ルゥ起きろ!
「え、なに、どうしたの!?」
ルゥラは父親にゆすられて飛び起きた。
まだ幼いこともあり、馬車に乗っていたのだがいつの間にか寝てしまっていたようだ。
「着いたぞ」
父親がルゥラの視線上から身を逸らすと、そこには見慣れた木々ではなく、煉瓦造りの建物、茶色がかった石畳、二日ぶりに見る人工物であふれていた。
「わぁ……」
ルゥラは思わず感嘆の声を漏らした。
初めて見る故郷以外の街の姿である。
どこか故郷に似ていても、必ずどこか違う、その風景に激しい感動を覚えた。
そんな息子の心境を知ってか知らずか、父親は、ほら、と巾着袋を投げ渡した。中には銅貨が入っている。
「見て回りたいんだろ?俺はこれから知り合いの工房に行ってくるから、しばらくこの街を見て回ってこい」
父親のこの提案はルゥラにとって願ってもないことだったが、彼がこの商隊に同行したのは、旅行ではなく将来継ぐであろう家業を学ぶ為なのだ。
「で、でも……」
と、ルゥラが申し訳なさそうに身をよじると、父親は息子の考えていることが分かったのか、
「あっはっはっ。今日初めて街の外に出たんだ。明日は挨拶回りで忙しくなるだろうが、今日は初日だし、俺も知り合いの工房に着いたことを連絡するだけだ。前々から外の世界を見たかったんだろう」
と、大笑いして、がしがしとルゥラの頭を撫で回した。
「初めから手伝わなくていいさ。徐々に徐々にだ」
「あ、ありがとうッ!」
ルゥラは大きく頭を下げ、膨れ上がる感動を精一杯、身体で表してみせた。
父は、カッと硝子が割れたような声で笑った。
「オリバー、あとは頼むぜ」
「はいっ」
と、父親が話しかけたのは四十手前の男。
商会員の一人である。
父は、さすがに子供一人では危ないと思った。
そこで、オリバーに白羽の矢がたった。
彼は、ルゥラと同じくらいの子供がおり、諸事上手くやると思ったのだ。
父親は、ほら、行ってこい、とルゥラの背中をバンッと叩いた。
「……行ってきます!」
「おう!」
ルゥラは、念願叶ったり、と喜びのあまり、飛び上がるようにして走り、父親から遠ざかっていった。
ルゥラを見送った後。
「ヨークさん、工房と連絡がつきました。お待ちしている、とのことです」
「分かった、行こうか」
今更だが、ルゥラの父親はヨークという名前だ。
ヨークは、ルゥラにも言った知り合いの工房に、先に人を走らせ、着いたことを知らせていた。
「息子さん、よほど外に出たかったんですね」
小さくなっていくルゥラの背を見て配下の商人が言うと、ヨークは笑い声を上げた。
「昔から飽きずに地図を眺めているような奴だったからなぁ。嬉しいんだろうよ」
ルゥラは父親と別れた後、街路を歩きながら、街の風景を、目の中に呑み込むように観察していた。
(赤茶色のレンガ、土で汚れたような石畳……)
故郷の街はもう少し綺麗だった。
陶器が名産の街ゆえか、至る所が土っぽく、空さえも土っぽく見える。
人通りはそれなりにあるが、故郷の方がもう少し賑やかであった。
(いろんな工房があるなぁ)
ラマークは世間的には陶器の街として有名だが、他にもガラス工房だったり鍛冶屋だったりが軒を連ねており、金具がうちつけられる音や火が燻る音がそこら中から聴こえてくる。
ルゥラは踊躍、目を輝かせた。
小さな森を隔てているとはいえ、同じ国の中である。
故郷の街と景色が大幅に変わるわけないのだが、彼の目にはこの街が、まるで童話の世界のように幻想の泡沫があちらこちらで漂っているように感じられた。
(何もかも物語のような……)
いずれ、家業を継いで外の世界の景色を見ることは多くなるだろう。もちろん、この陶器が有名というだけの街より素晴らしい景色は沢山あるはずだ。
しかし、この初めて味わった興奮は忘れ難く、そして既に慣れてしまった。
これから神秘的な光景に何度も出会うかもしれないが、この時ほどの興奮はあるまい。
訪れた土地が発する光景に魅せられても、初めて味わったという衝撃は一度きりのものだ。
ルゥラはこの日、終日街の中を歩き回り、日が暮れ始めた頃に商隊の所へ戻った。
翌日はひどく忙しかった。
ヨークはルゥラに、商人に最も必要なのは人脈だ、と言い、この日は様々な工房へ挨拶回りに行き一日を人脈づくりに費やした。
挨拶回りが終わり、宿に戻ったルゥラは部屋に入るなりベッドに倒れ伏した。
少し格式の高い宿のおかげか、ベッドはふかふかで身体が吸い込まれるようである。
「つかれたぁ〜……」
枕に顔を埋めて声とも唸り声ともわからない音を出した。
ルゥラはベッドの寝心地の良さに若干瞼が重くなりつつあるなか、挨拶回りの最中、所々で聞いた噂が、ふと頭に浮かんだ。
(大丈夫かなぁ……)
ルゥラは噂を思い出すと不安になり、より深く枕に顔を埋めた。
(戦争かぁ……)
そう噂を頭に浮かべてみるも、不安よりも疲労の方が強く、思い出した噂が頭の中で散り散りになっていくと共に、意識も徐々に途切れていった。
どうにも戦争が起こるらしい。
結局噂なので、らしい以上のことはいえないが、その噂はひしひしと、庶民の間を駆け巡り、恐怖に包み込んでいった。
ルゥラも、その噂を挨拶先で聞いたことは前述した。
ちなみに、戦争、といっても人間同士ではない。
魔族との戦争である。
この世界には、人以外にも人類と呼ばれるような種族があり、大別すると、人間、魔族、亜人、エルフ、龍人であり、またこれらとは別枠で神人と呼ばれる希少な者達がいる。
ルゥラのいる国——セントレージア——と戦争すると噂される種族は前述の内、魔族、と総称されているが、実際は様々な部族で構成された多種族国家である。
しかし、結束が弱いということはなく、約千二百年、魔王と呼ばれる者が諸部族をまとめあげ、強大な国家の一つとなっている。
人間もそれなりの力を持つことはできるが、人類と呼ばれる中では最も弱い。ここ数年の内でも幾つかの国が滅亡した。
また、魔族は漸進的ながらも領土を拡張しつつあり、国土はセントレージアと十倍以上の差があるだろう。
ただ、セントレージアも軍備の強化を始めている。
しかし、魔族に対するこれらはあくまで噂であり、確報ではない。
国も軍備を強化する一方、情報を集めようと躍起になっているが、魔族は殆どが排他的であり、大部分の情報が隔絶されており、現状として流言飛語のみが飛び交っている状況だ。
今はまだ、ルゥラのように不安を頭の片隅に残しながらも、人々は日常を生きている。