無限の国のアスリン
モンタナ州はアメリカの北西部に位置してカナダに接している。その州都ヘレナは2万5千人ほどの人口を擁している。その一人が、この物語の主人公アスリン・ウッドで、市立高校に通う女の子である。
期末試験が終わった日、アスリンは足の向くまま草原を散歩をしていた。路傍のアマリリスを愛でながら、森の方へ向かった。途中、見たこともないような大きな虫が目に入り、慌てて先へ進んだ。やがて前方に屋敷が見えてきた。玄関が開いていたので、こんにちはと声を掛けながらも遠慮なく中に入る。エントランスホールの左手には、地下に通じる階段が見える。もう一度、今度は大声でこんにちはと言いながら、その階段をゆっくり降りていく。
アスリンは小さな部屋にたどり着いた。そこには、大きな平面の鏡が2枚、互いに向かい合わせに立てて平行に置がれている。2枚の鏡(これらを鏡α、鏡βと呼ぼう)は1メートルほど離れている。勢い、アスリンは鏡αと鏡βとの間の空間に入る形になった。そして、鏡αで自分の姿を眺めた。鏡αに映っているのは、自分の前半分だけではない。鏡βに反射して自分の後ろ半分も見える。髪の寝癖はポニーテールでうまく隠せているみたいで一安心。
そんなことより、鏡αの中には鏡βが映っている。その鏡βの中には鏡αが映っている。鏡αと鏡βとは1メートルほど離れているので、鏡像が徐々に小さくなっていく。まるで数学の教科書から無限等比数列が引っ越してきたように、どこまでも途切れることなく続いている。
ふと気付いたら、アスリンは無限の国に舞い込んでいた。2枚の鏡はどこにも見当たらない。アスリンがとぼとぼ歩き始めると、同年代らしい男の子がこっちに向かって歩いてきた。不良には見えなかったので、アスリンは思い切って声を掛けた。
「はじめまして、私、アスリン・ウッドよ。よろしくね!」
「僕はカバタス。無限ホテルに泊まってる。すぐ近くさ」
「そこに私も泊まれるかしら?満室だったらどうしよう」
「この辺には無限ホテルしかないから、大抵は満室だよ」
アスリンは、不安を抱えたままカバタスと無限ホテルに向かった。果たして、無限ホテルは今日も満室だった。がっかりしたアスリンは、しかし、カバタスの説明に救われた。カバタスの説明によると、無限ホテルでは、客室がルーム#1の右隣に順次ルーム#2、ルーム#3、…とどこまでも無限に続いている。つまり、間数は無限大なのだ。アスリンがチェックインのサインを済ませると、ほどなくして館内放送が流れた。
「皆さまにお願い申し上げます。宿泊客が一人増えましたので、お荷物を持って速やかに右隣の部屋へ移動してくださいませ」
宿泊客は一人残らず素直な性格だったようで、一斉に移動が行われた。その結果、ルーム#1の宿泊客はルーム#2に、ルーム#2の宿泊客はルーム#3に、…と移動した。間数が無限大なんだから、移動先がないなんてトラブルは誰にも起こらない。その後、空き部屋になったルーム#1に無事アスリンが投宿した。一件落着。翌朝までぐっすり眠れそう。アスリンは、カバタスに感謝するとともに、無限ホテルの“無限の底力”に感激した。ヘレナではありえないことだわ。こうして、無限ホテルは、たとえ満室であっても常に宿泊客を受け入れられるのだ。
翌日、アスリンが朝食をとっていると、カバタスが近づいてきて、これから一緒にカジノへ行かないかと誘われた。好奇心旺盛なアスリンがイエスと答えると、高校生がカジノに入っても怒られないのと聞く暇もなく、二人は無限ホテルを後にしていた。
二人してカジノに向かう途中、アスリンは昨日のちょっとした出来事をカバタスに話した。実は、アスリンは昨日、無限ホテルにチェックインした後、一人で近くをぶらぶらした。いい匂いに釣られてスーパーマーケットと八百屋に足を運んたとき、アスパラガスの売値が微妙に違うことに気付いた。スーパーマーケットでは、アスパラガスが一束$1.9999…で販売されていた。一方、八百屋では、同じようなアスパラガスが一束$2で販売されていたのだ。
この話を聞いてカバタスは、アスリンに“無限の不思議”をひけらかそうと思い立った。スーパーマーケットでのアスパラガスの売値をPとすると、
P=1.9999… …(1)
と書ける。この式(1)の両辺から1を引くと、
P-1=0.9999… …(2)
となる。この式(2)の両辺を10倍すると、
10P-10=9.9999… …(3)
となる。この式(3)から式(2)を引くと、
9P-9=9 …(4)
が成り立つ。この式(4)をPについて解くと、
P=2 …(5)
となる。2つの式(1)、(5)から明らかなように、
1.9999…=2
が得られる。したがって、スーパーマーケットで買おうと八百屋で買おうと支払い金額は変わらない。
でも、$2より$1.9999…の方がちょっぴり安い気がする。そう感じる人が多いから、スーパーマーケットでは「$1.9999…」とポップ表示している。実際、「$2」とポップ表示した場合に比べて売り上げが伸びたらしい。$2と$1.9999…が同じだなんて納得できない。とアスリンが思っているうちに、カバタスは一足早くカジノに侵入していた。
カジノでは、カバタスは無限ルーレットに挑戦してみた。玉が止まった穴には、数字ではなく☆のマークが描かれていた。☆のマークとは、カジノの説明によると、無限増大ゲームに参加する権利をプレーヤに付与するマークらしい。その無限増大ゲームには2つのコースがあって、1つ目は等差数列コースで、今日は1コイン、来週は2コイン、再来週は3コイン、その次の週は4コイン、…という具合に、獲得コインが週ごとに1コインずつ増えていく。もう1つは等比数列コースで、今日は1コイン、来週は2コイン、再来週は4コイン、その次の週は8コイン、…という具合に、獲得コインが週ごとに2倍になる。数式で説明すれば、1つ目の等差数列コースの獲得コインの総額Aは、
A=1+2+3+4+5+…
となる。一方、2つ目の等比数列コースの獲得コインの総額Bは、
B=1+2+4+8+16+…
となる。
数学があまり得意でないアスリンは、AとBどっちが大きいのかカバタスに小声で尋ねた。そうしたら、カバタスは自慢げにこう答えた。
「AよりBが大きくて得するに決まってるじゃない。だって、AとBで各項を比べると、最初の2つは同じで(1=1、2=2)、その後はAよりBが常に大きくなるんだから(3<4、4<8、…)」
こうして、カバタスは迷わず等比数列コースを選んだ。
そういえば、等比数列の増加の仕方は想像以上に物凄いと高校で数学の先生が力説していたことをアスリンは思い出した。てことは、一生かかっても使い切れないほどのコインを獲得できるんだと気をよくしたら、今度は、ヘレナでパパとママが心配しているから、そろそろ家に帰らなくちゃと思い始めた。でも、どうやって帰ればいいのかしら。
「僕に任せておけば大丈夫。ここに君を連れてきたのも僕なんだから」
「そうなの?じゃあ、カバタス、私をヘレナに送り届けて!よろしくね」
アスリンがヘレナに帰った後、カバタスは、カジノから毎週コインを受け取ったが、毎週コインを少しずつ受け取るのは面倒だと感じ始めていた。できれば、一気に総額を受け取りたい。そうは言っても、カジノにも都合があるだろうから、何か交換条件を出さないと無理だろう。そこで、カバタスは、いくつかの交換条件を用意した上で、意を決してカジノと交渉した。その結果、幸運にも、カジノ側はカバタスが毎月1回カジノのトイレをピカピカに掃除することで手を打ってくれた。めでたし、めでたし。これで、コインが一気に手に入るぞ。
季節は流れ、カバタスがカジノとの交渉を成功させてから1か月ほど経った頃、カバタスからアスリンあてに薄い封書が届いた。アスリンは、無限の国からどうやって郵便物が届いたのか分からないながらも、さっそく開封して手紙を読んだ。そして、無限倍々ゲームの恐ろしさに憮然となった。その手紙によると、カバタスはカジノから巨万のコインを受け取るどころか、なんと、逆に1コインを払わされたらしい!その理由の骨子は次のとおりである。
無限等比数列1、2、4、8、16、…を全部足し合わせたものをBとおくと、
B=1+2+4+8+16+… …(6)
と書ける。
まず、この式(6)において、右辺の1(第1項)を左辺に移項すると、
B-1=2+4+8+16+… …(7)
また、式(6)において、両辺を2倍すると、
2B=2+4+8+16+32+… …(8)
ここで、2つの式(7)、(8)を見比べると、右辺どうしが等しいので、当然のことながら左辺どうしも等しい。したがって、
B-1=2B
が成り立つ。これをBについて解くと、
B=-1
となる。
つまり、無限等比数列1、2、4、8、16、…は、すべての項がプラス(正の数)であるにもかかわらず、これらの項をどこまでも足していくと、なんとマイナス(負の数)になってしまうのだ!そんな理不尽な。アスパラガスにまつわる「1.9999…=2」の不可解なんて、これに比べたら可愛いもんだわ。
無限の国の住人カバタスも、このことを初めて知った。彼は、数式の変形がどこかで間違っているのではないかと何度もチェックしたが、結局その間違いを見つけ出すことはできなかった。そして、この摩訶不思議な結果はどうにも腑に落ちないものの、カジノのコインを一気に獲得しようとした自らの欲張りについては素直に反省したらしく、手紙を締めくくる言葉は「吾唯足知」だった。(完)