15 早めの出発
「和代さん、和代さん」
心地よい眠りを妨げるように、何者かが体を揺すっている。
「う……ん」
和代は小さく唸り声を上げた。
掛け布団を被って防御体制に入る。
「起きてってば、和代さん」
しかし揺れは止まらない。
仕方なく布団をはね上げて上半身を起こした。
「なんですの、もう!」
「あ、おはよう」
和代の目の前には小石川香織の顔があった。
「起こしちゃってごめんね。もう出発するみたいだから、悪いけどすぐに準備して」
「出発は明日のはずです。悪いですけどもう少し寝かせてください。昨晩は遅くまで運転の練習していて疲れているので」
言いたいことを突きつけて和代は再び布団に潜った。
まどろみはすぐにやってくる。
このまま夢の続きに浸ってしまおう。
幸せな気持ちに包まれた頃、頭にものすごい衝撃が落ちてきた。
「何をしますの!?」
「ごめん。なんか寝ぼけてるみたいだったから」
「だからって目覚まし時計で頭を殴る人がありますか!」
おかげで目が覚めたが、流石にこれはひどい。
この前に引き続いての強烈な暴力である。
一見すると人畜無害そうなこの女、実はサディスティックな本性を秘めているんじゃないだろうか。
「で、何ですの? まだ二時間ほどしか寝ていないのですけど」
この二日間、ほとんど休憩もせずにバスの運転をする練習をしていた。
おかげで運転技術はかなり上達したと自負できる。
昨日は最後の仕上げとして深夜遅くまで練習した後、今日はゆっくり休息を取って明日の脱出作戦に備えるつもりだった。
「予定変更だって。これからすぐ出発するよ。子どもたちもみんなバスの所に集まってる」
「……なんでまた急に」
「今が絶好のタイミングだからだ」
ドアの所に薫園長が立っていた。
工場で作業でも始めそうなツナギ姿である。
「中央で動きがあったらしい。これまでにない勢いでL.N.T.各地に暴動が起こっている」
「動き、とは?」
「具体的なことはわからん。だが、かなりの人員がそちらに掛かりきりになっているようだ。監視の目を盗んで脱出するなら今を置いて他にない」
和代は溜息を吐いた。
正直、体調は万全とはいいがたい。
だが今が好機だと言うならやるしかだろう。
「わかりました、準備を終えたらすぐに行きます」
「すまんな」
「だからせめて着替えが終わるまで出て行ってもらえませんか!?」
※
十分後。
和代は着替えて園庭に降りてきた。
そして昨日とは打って変わった目の前の光景に息を飲んだ。
「なんですの、これ……?」
保育園の前には川が流れていた。
川と言ってもL.N.T.南部を流れている大きな河川とは違う。
護岸工事を施された谷間の底を流れる、穏やかなせせらぎの小川と言った感じだった。
それが今、激流になっている。
水嵩は普段の数十倍。
縁からあふれ出し、道路を水浸しにして園庭にまで水が侵入してきている。
「さっきからずっとこの調子なの。ううん、私が起きた時よりひどくなっている」
「夜のうちに大雨でも降りましたの?」
「降っていない。そもそも疑似天候管理をされているL.N.T.で水害など起こるはずがないんだ」
「じゃあこれは一体なにが原因だと言うのですか」
「それが全くわからない。確かなのはこのペースで増水を続けたら、あと数十分もせずにバスを外に出すことが不可能になるということだ」
確かにそれはマズイ。
チャンスと言うか、今を逃せば脱出不可能になってしまう。
和代は気持ちを切り替えてバスに乗り込んだ。
座席には十一人の子どもたちが行儀よく並んで座っている。
「みなさん、おはようございますわ!」
「おはようございまーす!」
挨拶をすると、子どもたちの元気な返事がかえってきた。
彼らは手作りのシートベルトでしっかりと座席に固定されている。
「事情が事情なので、多少乱暴な運転は覚悟してもらいますわよ」
「はーい!」
続けて香織と智絵が乗ってくる。
和代はドアを閉めてバスにキーを差し込んだ。
低いエンジン音が響き、車体が震動する。
「それじゃ行ってきます、園長先生」
「いってきます!」
「せんせい、元気でね!」
「からだに気をつけて!」
「ぼくたちもがんばるから!」
香織に続いて子どもたちが園長に別れの挨拶をする。
恐らく今生の別れとなることはみんな何となく察しているだろう。
窓を全開にし、シートベルトが許す限り体を乗り出して小さな手をせいいっぱい振る。
「子どもたちは責任を持って預かりますわ。園長さんはどうぞ安心なさってください」
「頼んだぞ……と、忘れるところだった。こいつを持って行け」
運転席の窓からジョイストーンが投げ込まれる。
「これは?」
色は無色透明だが、能力が宿っていないわけではなさそうだ。
なにやら不思議な歪みが見えるが……
「≪神鏡翼≫だ」
「っ!」
あの≪白命剣≫と並び、神器と称されるジョイストーンである。
気軽に渡されるにはあまりにとんでもない代物であった。
「な、なぜあなたがこんなものを……?」
「餞別代わりにヘルサードが送って来た。一時は俺の息子のモノだったらしい。念のため言っておくが、あんたには多分使いこなせないぞ」
「わかっていますわ」
神器の恐ろしさは≪白命剣≫で身に染みてわかっている。
あれも星野空人が体感時間で数年に及ぶ修練の果てにようやく使いこなした力だ。
実は和代も以前にこっそり発動させてみたことがあるのだが、身をねじ切られるような苦痛に襲われすぐ手放してしまった。
「赤坂さんのお父さんが神器を使いこなしてたってことは……」
「彼も使える可能性があるってことですかね」
和代はちらりとミラーで一番後ろの座席を見た。
後ろ髪の長い少年が退屈そうに窓の外を眺めている。
少年の名は赤坂翔樹。
「できればそんな事態にはなって欲しくない。こいつは一応の保険だ」
「わかりましたわ。よほどのことがない限りはしっかりと管理させてもらいます」
「頼んだぞ。無事を祈る」
和代は頷いて窓を閉めた。
子どもたちは名残惜しそうに園長に手を振り続ける。
ただ一人、後部座席の少年を除いて。
「さあ、出発しますわよ!」
クラッチを踏み込み、ギアを一速に入れる。
バスはゆっくりと前に進み始めた。




