Day.6-③
何も分からず、膠着した状態が続いた数週間。
だが、決して悪いことばかりではなかった。
人魚の傷が完治に近づいている。あと数日安静にすれば、恐らく再び声を取り戻せるだろう。
柵越しに、水面を指先で叩く。水の跳ねる音に驚いたのか、人魚が顔を出した。
長い髪に、光がきらめく。幽玄の美しさは、無邪気な笑顔を浮かべていた。
ぎゅっと、何故か胸が締め付けられる。
「…君が喋れたら、話を聞けるのにな」
電子音と共に扉が開いた。
誰が来たのかは、見なくてもわかっていた。人魚の居るこの部屋の鍵を持つのは、自分と、もう一人だけ。
この研究所の所長にして、自身の恩師。
タイピングを止め振り返る。
「どうしましたか、沖合教授」
初老の師が、草臥れた様子で片手をあげる。酷い顔、まるで苦いコーヒーでも飲んだような、そんな表情。
やや時間を置いて、彼は口火を切った。
「高野君、ちょっと来てくれないか」
なぜでしょうか。そう聞く間もなく、彼はただそれだけを言って踵を返した。
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
虫の知らせというものは、本当にあったらしい。
教授の発した言葉は、しかしあらゆる最悪を上回る様なものであった。
「あの人魚は、安楽死させることになった」
声が出なかった。
ふう、とため息をついて俯く教授の、白髪の多い頭を見つめる。
「…は…冗談、ですよね」
真っ白な頭からどうにか絞り出したのは、そんな弱々しい言葉。
だって、そんな。ついこの間まで、そんな話は欠片も出ていなかったのに。
きっと何かの間違いだろう、そう期待を込めてじっと彼を見つめる。
だが、教授はただ目頭を揉むだけで、発言を変えることはなかった。どこか一点を見つめ、淀みなく言葉を重ねる。用意してきたらしい文言を、つらつらと。
「…その時は、薬品を使う。苦痛は殆ど無い。眠るように息を引き取るだろう、それと…」
「嫌です」
気づけば、そう言っていた。
ぴしゃりと水を打ったように静まりかえる。やっとこちらを見た教授の目と目が合う。
途端、汗が体中から吹き出した。殆ど反射的に言った否定だったのだ。根拠などあるはずもなく、しどろもどろになりながらも言葉を続ける。
「け…研究もまだ全然出来てないし、それに彼女、人魚はまだ不明な点が多いし発見数だって少ないのに、貴重なサンプルを殺してしまうなんて、そんなこと」
「だからだよ」
どうにか絞り出した理由は、呆気なく踏みつけられた。
「人魚は希少な存在だ。発見されたものは全て生体。死体は未発見。だから、体構造などはほぼ分かっていない。
…安楽死させた後、人魚は解剖に回される。決して、無駄な殺害などではない」
最早、何も言えなかった。
研究の為に、人魚を生かし。
研究の為に、人魚を殺す。
自分は研究者だ。それが役立つのなら、むしろ進んでやるべきことだ。
そう、何も悪いことではない。拒む理由など、ありはしない。
だが。
僕は。
研究者としてではない、高野明春としての人間は。
彼女が殺されるのを、見過ごせるのか?
「…二日後だ。それまで、人魚を頼むよ」
教授は、そう言って僕の肩を叩いた。
足が進むまま、ドアを開ける。
辿り着いたのは人魚の居る部屋。
水槽の向こうで、彼女が笑う。
まるで、全てを知っているかのように。
まるで、それでも全てを受け入れるかのように。
ただただ、柔らかく笑っていた。
それを見た瞬間。
迷いは、消えていた。