Day.6-①
私は、どうしてこんなにも愚かなのだろうか。
今更な後悔が、胸の内からせり上がる。もう、何もかもが遅いのに。
人という生き物。焦がれ焦がれて、触れてみたいと願った存在。
分かっていたはずなのに。
どうして。
どうして私は、忘れていたのだろうか。
ー土の上に生きる彼らは、海で長くは生きられない。
あの日と同じ、嵐の夜だった。
アキヨシは、突然倒れ込んでしまった。
「アキヨシ…?ねえ、アキヨシ!お願い、返事して!」
どれ程叫んでも、アキヨシは呻くだけだった。赤く染まった頬を絶えず流れ落ちる汗が、じっとりと布を濡らしていく。
全身を駆け巡る嫌な予感を振り払いたくて、きっとなんでもないと思いたくて。確かめるように、アキヨシの額に手を伸ばす。
「っあ…!」
熱い。
反射的に飛び退いて、ひりつく指を摩る。普段でさえ高い温度は、もはや触れれば人魚の低い体温では耐えられない程になっていた。
前に触れた時は、これ程では無かった筈だ。
何か異常が起きている。
ふと、苦しそうに呻くアキヨシが足を抑えているのに気づく。
「あ…」
ざっと血の気が引いていく。塞がりかけていた筈の傷が、赤黒く染まり腫れ上がっていた。
「っうぐ…あ…」
「アキヨシ!」
「あ…はる、ッゲホッ…」
「ダメ、無理しないで!水持ってくるから、休んでて!」
無理に起き上がろうとするのを抑え込む。重く逞しかった体は、恐ろしい程に簡単に沈み込んだ。
明らかに、アキヨシは弱っている。
脳裏を掠めた不吉な文字を、かぶりを振って追い払う。決意を新たに、拳を強く握りしめた。
「…私が、絶対助けるから…!」
体を拭き、額に濡らした布を載せ冷やす。傷に触れないよう気をつけつつ、真水で洗い流し乾燥させる。薬も治療法も無い以上、できる事など限られていたが、それでもできる限りの事をした。
今まで以上に人も探し回った。前より広く、遠い範囲までヒレを運ぶ。通りかかった船でもいい、陸に着けば人がいるかもしれない。兎に角、アキヨシを助けてくれる誰かを見つけなければ。
泳ぎ回る。食料を探す。看病をする。
繰り返し繰り返し、日が昇って、夜になって。魘されるアキヨシの側で、必死に祈りを捧げる。
アキヨシが治りますように、
明日こそは、助けが見つかりますように。
アキヨシが、どうか…生きて、弟さんに会えますように。
それでも。
アキヨシの熱が下がることはなく、助けが見つかる事もなく。
アキヨシは、ゆっくりゆっくり弱っていき。
ある日、アキヨシはとうとう血を吐いた。
「あ…」
海の暗い青に溶ける、それ。
赤色、黒色、混ざった、血の色。
命を動かす、大切な色。
それが無ければ生きられないと、嫌という程に知っていた。
それが無ければ死んでしまうと、仲間を見てきて知っていた。
その大切な赤色が今、アキヨシから消えていく。
それもこれも、全部。
「わたしの、せいだ」
私がもっと速く、長く泳げたら。今より遠くを探しに行けたのに。
「…違う…」
「わたしが」
私がもっと力があれば、アキヨシを背負って陸まで泳げた。
私がもっと頑張っていれば、助けを呼べただろう。私がもっと賢ければ、アキヨシを救う方法が思いついただろう。
伸ばされたアキヨシの、骨の浮いた手を握る。爛れる程の熱さすら、今はどこか遠くに感じる。
「あき、あきよし、ごめんなさい、わたしが、」
「ちがう、おまえは、」
「わた、私ががんばらなかったから、アキヨシは帰らなきゃ、帰りたいのに、私がもっと、私のせいで、アキヨシは」
肉の焦げる匂いがする。アキヨシが何かを叫んでいるのに、自分の心臓の音が、呼吸音がうるさくて聞こえない。
アキヨシは弟さんに会いたいって、会わせなきゃって、助けるって誓ったのに。誓ったのに?どうして私は。私が。
私が、アキヨシをこんな風にした。
私のせいで、アキヨシは、死、
「ハルカ」
たった三文字の、その言葉。
アキヨシが付けた、私の名前。
優しい声が、囁く様に奏でられ。あれ程うるさかった心音が治まり、夜の洞窟に静寂が落ちる。
「…あ…」
「聞いてくれ。
俺は、もうすぐ死ぬ。だけど、お前のせいじゃない」
俺は、遅かれ早かれ死ぬ筈だったのだ。アキヨシは、咳き込みながらもはっきりと言葉を紡ぐ。
「俺は、元々肺が弱かった。遺伝だ…俺の母も、同じだった。俺と同じ様に、血を吐いて死んだ。いつかこうなると分かっていた。お前のせいじゃない。誰のせいでもない。むしろ」
アキヨシは、一つ息を吐いて、微笑んだ。
「お前は、あの夜死ぬ筈だった俺を助けてくれた。ここまで生かしてくれた。お前は、俺の命を救ってくれたんだ」
そうして、またアキヨシは血を吐いた。背中を摩ろうとするも、押し止められる。大丈夫だ、そう呟いて、熱に潤んだ瞳で真っ直ぐにこちらを見つめる。
「アキヨシ…?」
「頼みが、ある」
この上、まだ何か言うなんて烏滸がましいが、どうか聞いて欲しい。
「…わたしに出来ることなら、なんでもする」
ぐっと堪え、その目を見返した。
それに安心した様に、しばし目を閉じて。
アキヨシは、静かに言った。
「俺の肉を喰ってくれ」
「そうしたら、死んでもお前の側にいられるんだろう。俺は、お前が許すならずっと共に在りたい」
「それに、お前には色んなものを与えてもらった。感謝してもし尽くせない。せめてお前の糧になれるなら、こんなに嬉しいことはない」
「ただ、頭だけは、どうか陸に持って行ってくれないか。そうして、いつか、できたらでいい。弟に伝えてくれ。」
「兄ちゃんは、ちょっと海の神様に会ってくる。暫く帰らないが、心配するな。ああそれと、恥ずかしいが」
「愛してる、って」
「泣かないでくれ、ハルカ。いつもみたいに笑ってくれよ、俺の大好きな笑顔で見送ってくれ」
「ハルカのおかげで、ここまで生きられた。ハルカのおかげで、幸せだった」
「ありがとうな、ハルカ」
こつ、とアキヨシの手が落ちる。
「アキヨシ」
返事はなかった。閉じられた瞼は、二度と開かない。
「アキヨシ」
火傷する程熱い体温は、いつの間にか私と同じくらいに冷たくなっていた。
「アキ…」
喉が詰まるような感覚が、落ちる言葉を抑え込む。
頬に滑る雫が、血溜まりに落ちて消えていく。
それは徐々に数を増やして、赤色を洗い流していく。
「あ…う、あぁ…」
落ちて、落ちて、消えていく。名前すら、最早呼べはしなかった。
二人いるはずの空間に、一人分だけの呼吸が響く。
声は、返ってこなかった。