Day.5
「お前、家族は大丈夫なのか」
嵐の夜から10日程経った頃、アキヨシはそんな疑問を投げかけてきた。唐突なそれに、思わず言葉に詰まる。止まった会話をどう思ったのか、矢継ぎ早に言葉を続けた。
「いや、突然悪かった!言いたくないなら言わなくていい、ただいつも俺といてくれるから、嬉しいが大丈夫かと…」
「違う違う!怒ってる訳じゃなくて」
慌てて否定する。本当に、怒っている訳じゃないのだ。ただ、少し驚いただけで。視線を手元に向けながら、できるだけ明るい調子を保つ。
「家族は、みんなもう死んじゃった」
父と母、そして姉と弟。仲間も昔は沢山居た。
だけど、ある時から海の様子が変わった。毒が流れ、汚れ、大量のごみが海底を埋め尽くした。
その内、一人二人と仲間は消えていった。小さかった弟から順に、姉も両親も命を落とした。
そうして、気づけば自分独りになっていた。
「でも、淋しくはないよ。私達人魚はね、大切な人が亡くなったら、その人を食べるの」
「食べる?」
「そう。食べて、一つになるの。そうして生きてる人の一部になる事で、いつまでも一緒に居られる。だから、淋しくはないの。家族は今も、側にいてくれているから。」
そう言って目を閉じれば、すぐに彼らの顔が浮かぶ。今でも大切な、愛しい人達の顔。会えはしないし話せないけど、今もきっと見守ってくれていると、そう思える。
「そうか…俺達とは違うが、そういう弔いもいいな」
アキヨシの言葉に、ふと疑問が湧く。
「人は大切な人を見送る時、どんな風なの?」
「んー、一概にこれだ!ってのは無いが…俺達の場合は、火葬って言ってな。焼いて骨を残すんだ」
「焼いて、骨を?」
何時だったか見た、鮮やかな橙色を思い出す。船を包み込む、くらくらする程に熱いそれ。
あれは火、というんだと、父は怯える私を抱きしめながら教えてくれた。
「そうだ。焼いて、骨だけにする。そうしてそれを見て大切な人を思い出す。」
アキヨシは、不意に遠くを見るような目をした。
「俺の親父は、骨も遺ってないんだわ。船が沈んで、上がらずじまいだった」
人の記憶は泡に似ている。忘れたくない事でも、いずれ思い出せなくなっていく。
だから、形に残るものが欲しい。
いつまでも覚えてもらえるように。
いつまでも覚えていられるように。
「忘れるのも、忘れられるのも、寂しいもんなぁ…」
アキヨシは、しみじみと呟いて目を伏せた。
何も言わず、膝に置かれた手を握る。
分厚くて、大きな手。暫しあって、指がゆっくりと絡んでいく。
初めて触れた人の体温は、火傷する程熱かった。
ーー
「初めまして、遠洋と申します。高野さんは人魚が好きですか?」
討論への誘いから一週間後。約束のその日が、今日だった。
開口一番、飛んできたのはそんな質問だった。名乗り返すのも忘れ、まじまじとモニターに映る男を見つめる。
自身と同じくらいか、一つ二つ上か。整った顔立ちに黒縁の眼鏡をかけ、白衣を羽織った研究者らしい見た目の男。遠洋と名乗る研究員は、なんとも感情の読めない顔をしてこちらを見つめ返す。
人魚が、好きか、そうでないか。
嫌いなら態々こんな、海洋生物の研究者などという道に進むわけが無い。
しかし、好きと言い切れるかと言えば、そうではない。少なくとも、昔に比べれば、今はむしろ。
ふと、自身が研究する人魚の事が頭に過ぎる。
美しく、柔らかな笑みを浮かべる彼女。
人を喰らい、陸へと上がった人魚。
ーー傷ついた手を見て、涙を流した彼女。
人魚の事を、どう思っているのか、なんて。
「両方です」
零れた答えは、なんともつまらないものだった。
「海洋生物研究者としては好きだが、高野明春としては違う、とでも言えばいいのでしょうか。少なくとも今は…」
言い切ることはなく、目を瞑った。手に無意識に力がこもる。傷に爪がくい込んだのか、ぴりりとした痛みがあった。
「研究者としては好きなんですか。それなら大丈夫ですね」
「え、あ、はい…何が大丈夫なんですか?」
そもそも質問の意図は…そう訊ねると、遠洋はふむ、と顎に手を当てた。そうして、どこからか写真を取り出す。
余程いいカメラを使っているのか、画面越しでなお鮮やかな発色で描き出されたそれらに写り込むのは。
「そちらで研究中の人魚…ですか?」
「はい。うちには二体いるんですよ。どうですかどちらも可愛くて美しいでしょう?」
「はい…?」
赤い髪の人魚がメノウ、青い髪の人魚がサンゴです。どちらも物凄くいい子で賢くて本当に最高なんですよ。真顔のまま早口で捲し立てた後、ハッとしたように咳払いをする。
「私、人魚が滅茶苦茶好きなんですよね。つい今みたいに語りすぎてしまう。なので先に人魚が好きかどうか聞いて確かめてるんですよ」
「は、はい…」
相手が興味が無い話をするのも申し訳ないですし。人魚が好きだと言う人にだけ話すように気をつけているんですよ。そう言って、遠洋は一旦写真をしまった。
「もっと話したいですが、まあ後にしましょう。今回は先にお伝えした通り、人魚についての研究結果の発表、及び討論ということで。勿論言える範囲の事だけで結構です」
「はい」
一つ頷いて、ちらりと後ろを伺う。扉の向こうに人の気配はない。
後ろめたいことをしている訳では無いが、これはあくまで私的な討論会だ。折角の発見を盗用される可能性もある為、どちら側にもリスクは大きい。
それでも、人魚について知りたかった。
彼女の事を、理解したかった。
「では、始めましょう」
「先程も言った通り、私の研究所には二体の人魚が居ます」
横付けのモニターに、大きく画像が映る。鮮やかな髪色の人魚が、一つの水槽の中で手を振っていた。
「同じ水槽で、ですか」
「はい。元々人魚は群れで暮らす為、特にストレスを感じている様子もありません。二体に血縁関係はありませんが、二年間目立った問題もなく、仲睦まじく過ごしています」
画面が切り替わり、寄り添いあう二体の写真が映る。幸せそうに笑う姿は、彼女を彷彿とさせた。
「人魚は加齢による見た目の変化がほぼない為分かりづらいですが、双方とも六十を超えており、かなりの高齢です」
人魚の寿命は平均50~60年だ。それを鑑みれば、かなり長生きな個体と言えるだろう。
「そして、原因は不明ですが…ここ数ヶ月間、メノウが奇妙な行動を繰り返すようになりました」
「奇妙な行動?」
「はい。水中で泳ぎ回るのをやめ、陸にいることが多くなり、またサンゴの側から離れなくなりました。サンゴも嫌がる様子は無く、むしろ積極的にメノウの髪を梳く等スキンシップをとっています」
「水温や塩分濃度、居住環境に変化は?」
「特には。以前と同じです」
話を聞きつつ、時折質問を交えながらパソコンに書き込んでいく。人魚には不明な点が多い。そもそも発見された数が少ない上、野生下での人魚がどのようであるかが殆ど分かっていない。
故に、習性なども僅かにしか解明されていないのだ。
「成程。では、僕が研究する人魚…ご存知だとは思いますが、例の『人喰い人魚』についていくつか」
「お願いします」
「はい。人喰い人魚…仮に『A』と呼称します」
画像を映し出すと、遠洋はピクリと眉を動かした。そのまま食い入るように見つめだす。
「Aは現在傷を負っている為、発声はできません。食事については問題なく、主に骨やウロコを取り除いた魚のすり身等を与えています。凶暴性や人への敵意は無く、非常に穏やか且つ従順。血や二肉への反応も無く、他の人魚とほぼ変わりありません」
「反応しない?」
「…はい。全く。むしろ、こちらを案じるような態度を取りました」
「凶暴で、陸に上がってまで人を襲ったと聞いたのですが」
眉を寄せながら、遠洋は首を傾げた。
それも当然の事だろう。自分ですら未だ分からないのだ。
人を喰らった筈の彼女は、なぜ血の匂いに反応しなかったのだろうか。
「ええ、Aの傷もその際出来たものです。…でも、嘘ではないんです」
あの時、涙を流した彼女の悲しげな顔が、触れる手の冷たさが、今も鮮やかに蘇る。
人を喰らったのが、確かなら。
それなら、何故。
「何故、彼女は人を喰らったのでしょうか」
縋るような声だった。自分でも驚く程に弱く、しかし切実な問い。
どうしても、知りたかった。何故、彼女はそんな事をしたのか。
その答えが欲しくて、賭けた。
遠洋なら、自身より長く研究している彼なら答えをくれるのではないか、そう考えた。
しかし。
「…私には、分かりません。」
希望は、呆気なく砕かれた。
ぱしゃりと水が波打った。彼女がすぐ近くへ来たらしい。
「…やあ、こんにちは」
努めて明るい調子を出したが、顔を上げることは出来なった。ただ手元だけを見つめ、柵に寄りかかる。教授が見ればきっと、危険だと咎めただろう。
しかし、ここには自分と彼女以外誰もいない。だから、例え彼女が自分を喰らっても、きっと明日まで気づかれない。
そう、考えていたのに。
「…っなんで…」
あの時と同じ、冷たい手が、自分の手に重ねられる。覗き込む様な瞳は、あまりにも優しい色をたたえていて。
「どうして、君は…」
はく、はく、唇が形作っても、音は奏でられずに消えていく。
「教えてくれ…どうして君は、人を…」
冷たい手が、今度は頬に触れる。人の体温は、人魚には高すぎるはずなのに、それを厭う事もなく。
ああ、どうしてこの、優しい人魚は。
「…どうして、僕の兄を喰ったんだ…」
滲む視界で、彼女が悲しげな顔をした様な気がした。
To.高野 明春様
この度は、討論への快諾、ありがとうございました。非常に有意義な時間を過ごすことが出来ました。もし都合が合えば、またお話出来ればと思います。
また、人魚について新たなる発見があった際は、すぐさまお伝え致します。
また今度人魚について語りあいましょう。
From.遠洋 冬樹