Day.4
男は、アキヨシと名乗った。
四人家族の長男だったが、14で父が海で、15で母が病気で死に、今は漁師の叔父の家に住んでいる。高校ーー勉強をする所らしいーーには行かず、漁師として海に出た。
「叔父さんは行けって言ってくれたんだけどな。俺はアタマ悪かったし、早く一人前ンなって弟の大学費稼ぎたかったから断った」
「弟さんがいるの?」
「おう、アケハルって名前のな。アイツ俺よりずっと賢くてな、大学院出てすぐ研究所に勤めるのが決まったんだ」
そう言って、アキヨシは誇らしげに鼻を擦った。しかし、その誇らしげな表情に一端の寂しげな翳りが差す。
「…会いたい?」
そう訊ねてから、後悔する。
大切な家族なのだ、会いたいに決まっているじゃないか。
何を当たり前の事を聞いてしまったのだろうかと、しょげているのが表情に出てしまっていたのかもしれない。
「まあ、その内な。アイツも今は忙しいから」
そう言って、アキヨシは笑いながら伸びをした。
「中々タイミングがなあ。俺も一回漁出ると長いし、俺の休みにゃアイツが忙しかったり」
アイツ、酷い時は家にも帰ってこないで職場に泊まり込みしてんだよ。体壊すからやめろって言ってんのにな。態とらしくため息を吐くアキヨシの、おどけた様な態度に笑い返し、密やかに安堵する。
明日から、もっと広い範囲を探してみよう。船を見逃さない様に、彼が早く弟さんに会う為にももっともっと頑張らなければ。ぐっと、胸の前で拳を握る。
「そういや、お前の名前は?」
「…え?」
思わぬ質問に問い返すと、アキヨシもまた首を傾げた。
「名前だよ、名前…あれ、もしかしてお前らってそういうのは無いのか?」
「あ…いや、あるよ」
変な反応をしてしまったものの、別に名前が無いとかそういう訳では無い。
ただ。
「その…私達は、「歌」を歌って会話するの。だから、名前はあるけどそれは人魚語の名前で。えっと、人間の言葉には当てはめれないんだ」
人魚の「歌」は、私達の言葉だ。そこには何百何千と言う情報が載せられ、細かな情緒すら伝えられる。
しかし、人魚と人間の言葉は全くの別物だ。人の言葉に直す、というのは、特に名前なんてものはとても難しい。
だから、教えてもわからないと思う。そう言うと、アキヨシはなら、と言葉を続けた。
「人魚の…「歌」って言ったか?それでいいから、教えてくれ」
「うーん、まあそれでいいなら…」
ぴょこんと岩場に腰かけて、息を吸い込む。
たった数個の、短い音節。一人だけに向ける、私達の言葉。
初めまして、愛しい隣人よ。貴方にこの声が届いているなら、どうか少しだけ聞いていて。私の名前を、私の居場所を…
喉を震わせて、どこまでも響けと祈りを込めたリサイタル。
それは、数分にも満たない内に幕を閉じた。
「…どう?」
「分からん!」
「言ったでしょ!」
つい尾ヒレで水を打ちつけた。
別に怒ってるわけじゃない。ただちょっと、悔しかったのだ。
別の種族同士では、名前を伝える事すら難しい。
それが、どうしても悲しかったのだ。
「ただ、ひとつ分かった」
しかしアキヨシは、続けて言った。
「お前の歌声は、とても綺麗だ」
真っ直ぐな瞳が、こちらを捉える。飾らない、直接的な賛辞の言葉にぽぽ、と頬が赤くなるのを感じた。
「そ、そう?ありがと」
恥ずかしい。
褒められたのなんて、何時ぶりだろう。
「それに、確かに名前はわからなかったが、俺にはこう聞こえたんだ。これから、こうやって呼んでもいいか?」
アキヨシの口が、形を作る。溢れ出した音が、すとんと胸に届いた途端。
まるで、胸の中で花が咲いた様だった。
しゅわり、わだかまりが溶けていく。与えられた名を繰り返す度に、くすぐったい様な感覚がした。
「…もう一回、呼んで?」
ーー
「よお後輩。調子はどうかね」
背後からかかる間延びした声に、ついため息が出た。振り向かなくとも誰かはわかっている。無視して歩みを進めるも一瞬で回り込まれた。
高い位置で括られた、黒髪が揺れる。
「なんですか、姫川先輩」
「ちょっとお茶しない?」
「…もう今日は帰りますからぶちまけた魚の掃除も提出ギリギリの論文も離島への弾丸ツアーも手伝いませんからね」
蘇る、先輩の悪事の数々。
弾丸ツアーもキツかったが特に魚の掃除は最悪だった。何をどうしたら部屋中に魚が飛び散るんだ。凄惨な殺人現場の様になったそこを掃除するのに夜中までかかったし一週間ずっと生臭かった。
今日は何を言われたって帰ってやる。意志を固め、拳を握ったものの。
「つれないなぁ。折角助けてあげたのになぁ」
「…何の話ですか」
「タイ、持ち逃げしたの言っちゃおうかなぁ」
ぐっ、と喉につっかえる様な感触があった。あれは不慮の事故で、とかなんとか言っても、経費で買った物を私用の為持ち帰ったのは事実。
「…三十分だけですよ」
「よーし、コーヒー奢ってやろう」
お茶じゃないのか。
「んで、アレはどうなの」
一口だけ飲むと、すぐさま先輩は質問を投げてきた。
やはりその事か。
「…順調、とは言い難いですね。」
「暴れる?」
「いえ、検査自体は素直に応じるし、コミュニケーションも取れます。しかし、目新しい発見は無い」
予め用意していた答えだった。一口飲んで、苦さに顔を顰める。昔からブラックは苦手だった。目が覚めるからと飲んではいるが、慣れる事はないままだ。
「人魚は知能も高く、遊泳速度もトップクラス。その気になればサメすら襲うのだから、飢える事などまず無い。なのに何故態々人間を食ったのか、また何故、機動力の落ちる陸に来てまで人間を襲ったのか」
考えれば考えるほど、疑問は増えていく。
人魚は知能が高く、力も強い。ホホジロザメですら、時には捕食する程だ。しかし狙うのは、基本的には小型から中型の魚。それなのに何故、大型でしかも見慣れぬ存在である人間を喰らう発送に至ったのか。
「人の肉が美味しかったんじゃない?」
危険を冒してまで食べたい、そう思ったんじゃない?
へらりと笑う先輩に、どうしても頷くことは出来なかった。
「…違うと思うんですよ」
「へぇ。根拠は?」
「彼女、俺の血を見て反応しなかった」
本来の活動場所を離、陸に上がる程に欲しているのなら。
肉の味を、血の味を、無視できるはずはない。
なのに、彼女は。
「彼女は、本当に人間を…」
「アレは人を喰った」
冷たい声が、突き刺す様に発せられた。
「アレが通報された後、すぐさま検査に回された。胃の内包物も調査された。
そこには間違いなく、人を喰った形跡があった。
私が、アレを開いたんだ」
黒い波紋が揺れて、消える。いつまで経っても減らないそれには、自分の顔が写りこんでいた。
「忘れるな、君は研究者で、アレはその対象だ。情を持つな。色眼鏡で見るな。君に出来ることは、ただ真摯に向き合い真実を暴く事だけだ」
先輩はそう言って、またコーヒーを飲んだ。ミルク入りのそれは、白っぽい渦を巻いている。
「まあせいぜい頑張りたまえよ。君だからこそ、アレを調べる権利があるんだ」
精一杯活かしなさい、そう言って渦ごと飲み干した。
「じゃ、また付き合ってねん」
あっさりと手を振って、椅子から立ち上がる。
ひらり、白衣の裾が舞う。あっという間に消えた先輩を目で追って、手元のカップに目を落とす。
「…」
テーブルの上には、砂糖とミルク。
その両方を手に取れば、滔々と黒いそれはみるみる姿を変えた。
To.葉月海洋研究所 遠洋 冬樹様
突然の連絡恐れ入ります。
先日、人魚についての討論への誘い、誠にありがとうございます。同じ人魚を研究する者として、是非参加させていただきたいと思いご連絡致しました。
それでは、楽しみに待っております。
from.長月海洋生物研究所 高野明春