Day.2
※海難事故の描写があります。
海上では、ほんの一瞬の油断が命取りである。
海は気まぐれに表情を変える。どれほど穏やかに凪いでいても、たった数分で嵐になる。海で生き残りたければ、吹けば消えるような些細な違和感すら見逃すな。叔父の教えが、語る大きな背中が、頭の中を駆け巡る。
ドウ、と大きな音が鳴る。矢のように降り注ぐ雨の中、稲妻が空を駆けた。
甲板がぐらりと揺れ、体が浮遊感に包まれる。鈍く重い水音と共に、視界いっぱいに黒が広がった。
ごぽり、口から泡が立ちのぼる。上も下もわからないまま、もがく事も出来ない。
ああ、俺はここで死ぬのだろう。家族や友人、故郷の町並みが脳裏を過ぎる。
これが走馬灯か、などと思った時には、もう目も開けられなかった。
雨音に混じって、いつもと違う音が聞こえた。
叫んでいる様な、軋む様な、不思議で不可解な音達が。
何か外にいるのかな、もしかしたら仲間かも。
嵐は怖かったけど、溢れる期待と好奇心には適わない。普段より黒い海の中に飛び込んで、音のする方へと尾ひれを進める。
その時だった。
ばしゃん、と水が跳ねる音と共に、大きな塊が飛び込んできた。
「わっ!?」
驚いて、慌てて岩陰に隠れる。恐る恐る見つめていると、それは少しの間もがいてやがてくたりと腕を投げ出した。ごぽり、泡が口から吐き出される。
あのままでは死んでしまう。
直感的にそう感じた。咄嗟に、岩陰から飛び出した。
彼の体を掴んで、海面へと押し上げる。しかし再び呼吸する事もなく、打ちつける雨が顔中を濡らすばかりだ。
とりあえず、どこかで休ませなければ。陸はないかと周囲を見渡すが、悪天候で見通せない。
仕方ない。
「大丈夫、私の住処に連れて行くからね。ちょっと遠いけど、頑張って!」
あそこなら広いし、雨風も凌げる。海上よりは余程いい。
「必ず、助けるから」
グッと、厚い体を抱きしめた。
疲れた。
はあ、と大きく息を吐く。自分よりも重くて大きな体を抱えながら、全速力で泳いだのは初めてだ。最後の力を振り絞って、なんとか陸地へと押し上げる。
「あれ…?」
触れた感触の違和感に、横たえた体を見つめる。鱗の感触がしなかった様な気がする。尾ひれがある筈のそこには、太い腕みたいなものが二本生えている。
「もしかして、これ、人魚じゃなくて」
ごほ、と水を吐き出したその生き物は。
「人間…?」
幼い頃から焦がれ続けた存在が、目の前に転がっていた。
ーー
ごり、ごり、すりこぎがすり鉢に擦れて音を立てる。
一尾分のタラに水、塩のみを加えてすりおろしていく。彼女のーー人喰い人魚の為の食事の準備である。
彼女は現在、喉を怪我している。とは言うものの、人魚は治癒力が高い為ほぼ傷が開く心配はない。しかし一応大事をとって、魚はそのままではなくすり身にすること。与えられたマニュアルの中に書かれていた注意事項の一つだった。
本来であれば、人魚は魚類程度の骨など問題なく噛み砕く。人より丈夫な歯は、海老や、時に蟹の甲羅さえも噛み砕いてしまうのだから恐ろしい。
人間の骨なんて、彼女にとっては訳もなかっただろう。
ごり、ごり。タラの身が、すりこぎに押し潰されていった。
「ご飯だよ」
水槽の上から声をかけると、水音と共に人魚が顔を出す。
あどけない笑みを浮かべる彼女は、何かを訴える様にはくはくと口を動かした。空腹だったのだろうか。すり身を丸め、柔らかめの団子のようにしたそれを差し出す。しなやかな指がそれを掴み、口へと運ぶ。チラリ覗いた牙は鋭く、白く尖っていた。
「美味しい?」
訊ねれば、こくりと頷き、頭を下げる様な動作をした。お礼のつもりだろうか。
人魚は知能が高く、人語を解するとされている。この様な行動も、その表れだろうか。次の団子を差し出しながら、彼女の行動を観察する。
「ん?足りなかった?」
ふと、じっとこちらを見つめていることに気づく。足りなかったのだろうか。規定通りの量のはずだが、勝手に増やしていいのだろうか。しかし、空腹だと襲いかかってくる可能性もある。
しかし、彼女は首を横に振っている。どうやら違うらしい。先程と同じように、また何やら口を動かしている。何か伝えたいのだろうか、とは思うが分からない。
「ごめんね、分からないよ」
そうはっきり伝えると、酷く悲しそうな顔をした。
ーーー
人魚についてのレポート 二日目
タラのすり身4匹相当を完食。食事中、苦痛を訴える事も無かった為問題ないと思われる。
時折、口の開閉を繰り返す、目的なく見つめる等の不可解な行動を取る。発声できない状況へのストレスが高まっている可能性がある。人肉を欲する様な行動は見られないが、注意は怠らないようにする。