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ナイン・テイルズ

仮面の子

作者: 穹向 水透

初めての投稿作品です。好きな世界を書かせていただきました。

  1


 視界は果てしなく広かった。同じ色で統一された世界で、彼は行く宛もないまま彷徨っている。

「はぁ、はぁ……」

 呼吸は銀色。吸い込めば肺が凍てついて、苦しくなってしまう。吐き出せば、確かに熱を帯びて刹那の安らぎを味わえる。しかし、それが確実にエネルギーを消費していることはわかっていた。

 現在の彼の状況は誰が見ても同じ言葉を浮かべることが出来るだろう。しかし、悲しいことに、その言葉を囁いてくれる誰かさえ出会うことが出来ないのだ。こんな場所に人がいるわけがない。

「はぁ……」

 彼は立ち止まった。歩くことより、止まっている方がエネルギーの消費が大きいとわかっている上で、深い呼吸をした。きっと、心の何処かで、もうどうなってもいい、なんて堕落した究極の感情が勢力を増しているのだろう。彼は座りたい気分だったが、恐らく、座ると立ち上がることに多大なエネルギーの消費が予想されるので、立ったままを維持した。

 ああ、このまま死ぬんだろうな。

 白い世界の中心で。

 ここはフィンランドの辺境。細かい地名なんて憶えていない。風景を説明するなら、サンタが住んでそう、と表現すればわかりやすいだろうか。深すぎる雪が地平線まで続く冷凍庫の中のような場所だ。「神曲」のコキュートスって場所は、これより寒いのだろうか。それは確かに地獄だな。僕はスキーをしに来ただけなのに。ひとり旅が悪かったのか、予習もせずに来た僕が悪いのか、こんな土地が悪いのか……。スキー板は邪魔だったので捨ててきたが、今更ながら後悔している。板を装備していれば、雪の深さなんて眼を瞑ってもいいレベルだっただろう。そう、寒さより何より、この積もった雪が鬱陶しい。何しろ僕の腰くらいまで積もっているのだ。歩きにくいったらありはしない。

「どうしたもんかなぁ」

 独り言。希望を懸けて大きな声の独り言。しかし、ここは雪原。天然の防音室だ。今は雪が降っておらず、昼なのでまだ動けるが、夜になって剰え雪が降り始めたなんて状況は、絶望に他ならない。

 彼は再び歩くことにした。歩いた方がエネルギーの消費は減らせるし、熱の発生も期待できる。一歩一歩、踏み出す度に足が勢いよく沈む。

「くっそぉ……」

 彼は歯を鳴らしながら声を漏らす。限界の悲痛な声は、雪原の虚空に吸い込まれて帰っては来ない。

 何時間歩いただろうか。歩いても歩いても、景色は殆ど変わらない。多少、木の配置が変わっているが、ただの木には違いないし、変わっていたからといって希望があるわけでもない。

 彼はいつの間にか雪原を抜け、森林地帯に入っていた。どうやら、いくらか雪が浅いようで、雪原よりも歩きやすかった。ここも大概、同じような景色が広がっていて、高校生の頃に生物の授業で習った針葉樹が独占していた。同時にツンドラとかタイガなんて名称が浮いてきたが、ここがどちらかを判別できるほどには憶えていなかった。

 更に歩くと、前方に見慣れないものが見えてきた。彼の視力は1.0を大きく下回っていて、普段はコンタクトレンズを使用していたが、この長い道のりで紛失したようだった。眼鏡はリュックサックの中だったが、重いリュックを降ろして、中を漁って、また背負うなんて力は残っていないので諦めた。結果として、近付いた方が遥かに早いと判断した。

 近付いてみると、それは小屋だった。ログハウスと言われて思い出せるような典型的なタイプで、何とも表現し難い温もりがあった。誰かいるのかもわからなかったが、取り敢えずは身体を暖めないと死んでしまうと思い、ドアに手を伸ばそうとした。その瞬間だった。身体が前に倒れていく。そう、遂に彼の身体に限界が訪れたのだ。彼は朦朧とした意識の中、走馬灯紛いの雑多なイメージが何度も再生されているのがわかった。


  2


 視界はぼんやりとしていた。それに色彩が増えて、狭いように感じられた。

  彼は自分が柔らかなものの上に寝ていることを確認した。触ってみれば雪などの類いではなく、襤褸ではあるが、温もりのある布だった。ひとまず、彼はリュックから眼鏡を取り出した。

「……ここは?」

 彼は自身の手を見た。軽い凍傷の痕が見られるが、問題なく動く。しかし、動かしていないのに震えてしまうのは厄介で、恐らく今回の件に由来するものだと思った。足も動くが、まだあまり感覚がない。氷が解け始めているような、春先のまだ冷たい朝の感覚だ。

 彼は立ってみることにした。しかし、いざ立ってみると、どうにも足が覚束ない。歩こうとしているのに、足が前へ進まない。不思議な感覚だ。何故か苛立ちなどの感情は湧かなかった。

「Onko se kunnossa ?」

 聞き慣れない言葉が聞こえてきた。恐らくフィンランド語だと思われるが、意味はわからない。

「すまない、こちらの言葉はわからないんだ」

 ダメ元で英語を使ってみる。英語ならば大学である程度は習ったので使えた。

「ああ、そうなんですね」

 どうやら、英語が話せるらしい。これは助かった、と彼は思ったが、声の主の風貌を見て、ぬか喜びだったかもしれないと思った。

「あなたは家の前で倒れていたんです。ダメかもしれないと思ったけど、ひとまず運び入れました。よかった、生きてたみたいですね」

「ああ、ありがとう。見ての通り生きてたみたいだ。僕も死んだものだと思ってたよ。いや、もしかして、僕は死んでるんじゃないか? ここは天国か何かだろう」

 声の主は笑う。声は高く澄んでいた。何となくクリスマスの聖歌隊を思い出した。

「面白いですね。残念ながら、まだここは天国じゃありません。でも、天国に近いとは思いますよ」

 声の主はカップをふたつ持ってきた。これまた襤褸のカップだったが、中を見ると、紅茶らしきものが淹れられていた。

「ありがとう」

 彼は軽く礼を言ってから啜った。紅茶だとは思うが、飲んだことのない独特な風味だった。不味くはなかったが、別段、美味しくもなかった。彼が飲んでいる間、声の主はじっと彼を見ていた。見知らぬ土地の表情がわからない人物の不気味さは計り知れないものがある。

 彼は紅茶を飲み干してから訊ねた。

「ふぅ、ひとまずはありがとう。えーと、君は?」

「僕はミール。この小屋の主です」

 ミールは澄んだ声で答えたが、彼にはそのギャップも不気味でならなかった。ミールは東南アジアの土産物店で売られていそうな仮面を着けていた。極彩色とまではいかないが、赤や青のラインがいくつも入った派手な仮面だった。あとの風貌は普通の子と変わらなかった。身長は百五十センチ程度。着ている服は、仮面とは対照的に質素な襤褸の布。そして、裸足。いくら部屋の中で、そして、部屋の隅で暖炉が赤く灯っているとはいえ、彼には肌寒く感じられたので、ミールの裸足は違和感でしかなかった。そもそも、こちらは土足の文化の筈だ。現に、この小屋に靴脱ぎ場のようなスペースは見られないし、僕の靴もベッドだと思われる布の側に置かれていた。

「ミール。僕は遭難者なんだ。ここから帰る方法はあるかい?」

 ミールは暫く考えてから答えた。

「僕は知りませんが、ロマノフお爺さんなら知ってる筈です」

「ロマノフお爺さん?」

「はい。この小屋の近くに住んでるのですが、お爺さんは街へ物を売りに行っています。だから、今はいません。一週間に一度くらいしか帰って来ないから、それまでは無理かと・・・」

  なるほど、活路はあったようだ。ここで、このミールという子供と少しの間だけ時間を潰せばいいのだ。長時間、銀世界を歩いた苦労が報われるってものだ。

「じゃ、すまないけど、お世話になるよ、ミール」

「はい」

 この時のミールの仮面の下の顔は、恐らく笑顔だったと思われる。


  3


 彼は小屋の中を彷徨いている。部屋の隅には小型の暖炉があり、この部屋の快適さは暖炉が八割を担っている。先程まで彼が寝かされていた襤褸布の側には、古びた本があった。表紙には見慣れない文字があり、中はフィンランド語と思われる言語がびっしりと書かれていた。台所らしき場所には簡素な木製の台が設置されており、そこに野菜や肉が置いてある。この寒さでは食材の傷みもかなり緩やかなようだ。暖炉の熱も、台所までは届いていない。台に置いてあった包丁がやけにピカピカしているのが気になった。恐らく念入りに研がれているのだろう。まるで鏡のようだった。水はどうしているのか、と彼は探したが見つからなかった。その都度、汲んでくるのだろうと考えたが、近くに使える水源があっただろうか。

「いい部屋だね」

 彼は壁のタペストリーを前に言った。タペストリーは色彩豊かで、この土地の伝承に由来すると思われる寓意的なものだった。

「ありがとうございます。これでも、誰がいつ来ても大丈夫と言えるように、部屋だけは綺麗にしてあるんです」

「特に台所が整頓されていたね。やっぱり、こっちだと食べ物は腐らないんだろう?」

 ミールは驚いた顔をして答えた。

「食べ物って腐るんですね。初耳です」

 なるほど。その概念さえないらしい。彼も驚いた。

「包丁も綺麗だったね。よく研がれているようだ。まるで、鏡みたいに見えたよ」

「ああ、それはそうです。包丁はロマノフお爺さんが持ってきてくれる大切な品なんです。しっかり研いで使わないといけないんです」

「食べ物は何処から調達してるんだ?」

「ロマノフお爺さんが持ってきてくれます。時々、クッキーやバターもくれるんです」

「水はどうしてるんだ?」

「近くに川があるんです。小さな川ですけど、よく澄んでいるんです。今の時期だと、川面にまで雪が積もっているので、よく探さないと見つかりません」

 彼はもうひとつ質問をするか悩んだ。当然ながら、ミールの風貌に関する質問だった。素性がわからない状態だと、どんなに饗してくれたとしても信用はできない。仕方がないのでゴーサインを出す。ここでミールについて知らないと後々が面倒になりそうな予感がした。

「なぁ、ミール」

「はい?」

「君のその仮面って何なの?」

 ミールの表情はまったくとしてわからないままだが、敵意を向けられた感覚はなかった。

「これはですね、ロマノフお爺さんが外国へ行った時のお土産なんです。もう五年くらい前だったと思いますが、ロマノフお爺さんは街で何かの景品として海外旅行券を貰ったようで、二週間ほど海外に行っていました。僕は行けないので留守番でしたけど」

「そうなのか。ちなみに、それを外すってのは無理なのか?」

「はい。それはダメです。お爺さんと約束しました。如何なることがあっても、仮面を外してはならない、と。この約束だけは破れません」

 なるほど。ミールに自ら仮面を外させるのは不可能なようだ。さて、どうするか。彼は考えた。

「この後、夕飯を作りたいのですが、少しばかり手を貸してもらえませんか?」

 ミールが手を合わせて言った。

「いいよ。何を作る?」

「シチューにしましょう」


  4


 シチューは美味かった。簡素な具材で、調味料も満足になかったが、それでも今までの人生で十本の指に入るレベルで美味だと感じた。単純に、彼が遭難のために、実際の時間よりも長い間、食にありつけていないと感じていたのが原因だろう。ミールのシチューは一見、沸騰した水に根菜や肉が適当に入れられた雑なものだったが、何故か味付けがされていた。この小屋を見た限りでは、胡椒などの香辛料もない。彼が、何処からこの旨味が出てくるのか、と訊ねると、ミールは微笑んだまま、この地域の伝統の料理なので、と答えた。つまり、ミール自身も原理は理解していないようだ。入っていた謎の根菜に原因があると、彼は推測していた。カブかと思って噛んだら、それはカブとは違う、粘り気のあるものだった。

「美味かったよ、ごちそうさま」

「こちらこそ、お手伝い感謝します」

 ミールが頭を下げる。赤に近い長めの髪がふわふわと揺れていた。何故か花火を連想した。

「そうだ、この辺をちょっと歩いてみたいんだけど、案内してくれないか?」

「勿論。雪に隠れた穴や小川がたくさんあるので、危ないですからね」

 ミールは台所の方へ向かうと、褪せた色のブーツらしきものを持ってきた。藁のような素材だと思われた。

「これを履くと雪なんてへっちゃらですよ」

「ありがとう」

 ミールに渡されたブーツはとても軽く、歩くことの邪魔にはならないと思われた。早速履いてみると確かに暖かい。

「なかなかだね」

「いいでしょう? あなたの生まれた国にはないんですか?」

「そうだなぁ。あるところはあるんだろうけど、僕の生まれ育った地域はそこまで雪が降らないからな。前に一度だけ馬鹿みたいに降った年があったけど、それ以来、積もってるところなんて見たこともないよ」

「いいですね。外国なんて行ったこともないので憧れです。外国では僕の常識なんて通じないんでしょう?」

「そりゃ、お互い様だよ。僕の常識だって、ここじゃ無意味なんだから。僕たちの常識なら、生物は冷蔵庫に入れるんだ」

「冷蔵庫?」

「この国を閉じ込めたみたいな箱だよ」

「それはいいですね」

 ミールが左右に小刻みに揺れている。見たことのない異国の文化を想像しているのだろう。

「取り敢えず今日は遅いし、寝ようか」

「そうですね。では、おやすみなさい」

 ミールが襤褸布に寝る権利を譲ってくれた。彼は、ミールが何処に寝るのか疑問に思ったので訊ねると、「藁があります」と答えた。少し申し訳なく思ったが、好意なので受け取らない理由がない。襤褸布は雪より遥かに快適だった。


  5


 朝を迎えた時、ミールは台所で何かを作っていた。

「おはよう、ミール」

「おはようございます。朝食ならすぐできるので待ってて下さい」

 ミールは例の包丁で何かの肉を切っていたが、切れ味が余程いいのか、気持ちいいくらいにスムーズだった。

「これは何の肉なんだ?」

「鹿だったと思います。ロマノフお爺さんが仕留めたんです」

「鹿肉か。僕の国でも食べるところは食べるんだろうな」

「鹿肉、美味しいですよ」

 ミールは台所の隅に置いてあるマッチを取り出して、慣れた手つきで火を点けた。マッチもロマノフお爺さんが提供しているのだろう。残りは僅かだったので、次の帰還時まで節約しないといけない。そんなことを考えている内に、朝食の仕度ができたようだった。

「ミルクもありますよ」

「ありがとう、貰うよ」

 彼は鹿肉を噛みながら答えた。あまり食べない種類の肉だったが、食べてみると案外、美味しいものであった。胡椒などはないようだが、軽くニンニクの風味がした。

 朝食を終えると、ミールが彼に声を掛けた。

「では、外へ行きましょう。今日はよく晴れていますよ」

「いいね、行こうか」

  彼とミールは小屋の外へ出て、取り敢えずは直線に進んだ。

「そこ気を付けてください。雪で隠れてますけど、深い窪みがあって危ないです」

 ミールは付近の地形を憶えているようで、進む度に彼に危険を教えてくれた。彼がミールを誉めると、決まって「ロマノフお爺さんのお陰ですよ」と言う。ロマノフという人物がミールにとって、重要な拠り所であることはわかったが、実際にはどんな人物なのだろう、とあれこれ考えていたのだが、唐突に彼の視界が暗転する。

「うわっ」

 穴だろうか。彼は転げ落ちたようだ。

「大丈夫ですか? 穴あるって言ったじゃないですか」

「ごめんごめん、ちょっと、気が散ってた」

「危ないですよ。深めの川なんか落ちたら死んでしまいますよ」

 ミールの声は笑っていなかった。このような雪国ならではの危険は、ミールの中で法律のようにしっかりと判断しなければならないもののようだった。

 彼はミールの手を借りて、穴から脱出した。なるほど、雪が隠している危険がわかった。以降、彼は極力ゆっくり、地面を見て歩いていた。

 小一時間ほど歩いてわかったことは、風景の違いのなさと、ミールの歩くスピードが異常に速いことだった。この国の人々はみんなこのスピードで歩けるのか、単純に自分が遅いだけなのか、と考えた。考えていると、自然と歩みが遅くなるので、なるべく頭を空にして足を進めた。

 針葉樹の代わり映えのない景色を進んだ先にあったのは、半分凍ったような建物だった。先程の小屋と外見はほぼ同じだが、扉が両開きという点で異なっていた。

「ここは倉庫です」

「何を貯蔵するんだ?」

「食べ物や藁です。流石に、あの家には置いておけないので」

 入ると、冷凍庫のように冷たい。外の方がまだ快適に思えた。中にはミールの言った通り、食べ物の貯蔵や夏場に収穫したと思われる藁の山が重なっていた。奥の方に樽があって近付くと、「それはロマノフお爺さんのお酒です」と説明された。確かにアルコールの匂いがする。

 彼とミールは外に出た後、いくつかの場所を訪れた。完全に凍って流れを止めた滝や、地獄のように深い谷を見せてくれた。小屋に帰ったのは約四時間後のことであった。その後は、ミールと談笑したり、料理を作ったりしてから就寝した。風呂などはないので、襤褸布を水に浸してから身体を拭くだけだった。

 彼はミールに会ってからずっと気になっていることがある。当然のことだが、それはミールの素顔である。談笑している途中に彼は何気なくミールの仮面に手を伸ばしたのだが、激しく抵抗された。表情こそわからないが、ミールは警戒し、こちらを威嚇しているように思えた。彼は「ごめんよ、悪気はない」と言って、その場を乗り切ったが、気になるものは気になる。残り五日の間に仮面の下を見ようと決意した。


  6


 朝、視界は冷たさで鮮明に広がっていた。手で髪をかき上げて、水に浸した襤褸布で顔を拭いた。鮮明だった視界が更に鮮やかになる。暖炉に近付いて身体を暖める。いくらミールが譲ってくれた襤褸布スペースが快適な温度だとしても、火の安心感には敵わないものがあった。暖炉には、昨日の鹿肉の残りと思われるものが吊るしてあった。焦げそうに見えるが、その辺は巧く調節されているようだ。

 彼はミールの姿を探すが、何処にも見当たらない。台所は静寂に包まれていた。外へ出ると、すぐにわかった。何かが割れる小気味良い音がした。裏へ回ると、ミールが薪を割っていた。使っている斧は、台所の包丁に比べると、かなり見劣りしている。彼は薪を割るミールを見て、思っていたより力があるものだ、と感心した。正直なところ、彼は斧を何度も振るう力があるとは思っていなかった。

「あ、おはようございます」

 彼に気付いたミールが、先に挨拶をする。

「やぁ、おはよう。薪割りだね。僕はやったことないけど、本とかで見るよ」

「やってみます?」

「遠慮するよ。肩が壊れそうだ」

 彼が断ると、ミールは引き続き、同じテンポで薪を割り始めた。割られた薪がいくつも雪の上に転がっている。

「少し寒いから中に入るよ」

「わかりました。朝食は台所にありますよ」

 彼は礼を言ってから、中に入って、真っ直ぐ台所へ向かう。台所の端に欠けた皿が置いてあって、その上にパンと鮭らしき魚を使った料理が盛られていた。パンを食べると、素材の強い味がした。これは恐らく、ロマノフお爺さんが持ってきたものだろう。次に魚料理を口に入れる。所々が生焼けだが、それでも美味しかった。もしかしたら、生焼けが正規の調理法なのかもしれない。

「はぁ、終わった、終わった」

 ミールが入ってきて、彼の前に座った。

「今日はどうします?」

 ミールは楽しそうだった。

「そうだなぁ。昨日でこの付近は探索しちゃったしな。君が普段やってることを僕もしてみようかな」

「普段やってること……、何でしょうね」

 ミールは顔を傾ける。

「わかりません。僕は普段、何をやってるんでしょう?」

「さぁね。僕にもわからない」

 彼は仮面が気になって仕方がない。実のところ、会話は全て上の空で、仮面の剥がし方ばかりを考えていた。

「やっぱり、気になるなぁ」

「何がですか?」

「その仮面だよ。少し外して見せてくれないかな?」

「すいません、それだけは出来ません」

「何故?」

「何故……ですか。何だっていいじゃないですか。誰しも抱えているものは色々あるんですから」

「君はその仮面で隠したいことがあるんだろう? そうに違いない」

「さぁ、どうでしょうね」

 ミールは仮面について訊ねられると、不機嫌になる傾向にある。何か隠していることがあるに違いない、と彼は勝手に判断した。残り四日と半分。さぁ、どうしようか。


  7


 何も出来ないまま夜が更け、朝を迎えた。相変わらずの襤褸布スペースで、仮面外しの手段をいくつか考えたが、どれもこれも手間がかかり、現実性が低い。そして、最大の問題に気付く。もし、ミールの仮面の下を見て、ミールが怒って、ロマノフお爺さんまで機嫌を損ねたらどうなるか。国に帰れないじゃないか、と彼は気付いたのだ。要は、外してもミールが怒らない方法を用いないといけないわけだ。

「事故に見せ掛ける……くらいか」

 ミールを転ばせる、外さざるを得ない状況に陥らせる、などと考える。こちらの方がどちらかというと実現できる可能性はあった。早速、実行に移そうと彼は外へ出た。

 外では、昨日同様にミールが薪を割っていた。積んである薪を見るに、すぐに終わりそうだ。彼は最後の一本が割られた時点で、ミールの側へ行き、「持ってくんだろ? 手伝うよ」などと言って、薪の半分を受け取った。そうして、少し歩いたところで、彼は実行した。

「おっと、危ないっ」

 雪で滑った振りをして、ミールに激突する作戦だ。作戦は遂行され、彼はミールにぶつかって、ミールは前のめりに崩れた。

「すまない、大丈夫か?」

 すぐさま、ミールの正面に回って顔を確認した。

「大丈夫です。そちらこそ大丈夫ですか?」

 ミールは顔を上げた。しかし、そこには仮面があった。彼はこっそり舌打ちをしながらミールの手を取った。仮面は随分と頑丈な作りのようで、少しもずれていなかった。もう少し、策を練る必要があるな、と彼は思った。

 昼は鹿肉のステーキと見たことのない葉の野菜のサラダを食べた。ステーキには僅かなニンニクの風味、サラダはチーズのような風味がした。美味しいのだが、何か物足りなかった。

「僕はこれから倉庫へ行くのですが、どうしますか?」

 皿を洗っていたミールが言った。彼としては、倉庫までの道のりで仮面を外そうとしたが、二回目は怪しまれそうだと判断し、残って策を練ることにした。

「そういえば、明日はロマノフお爺さんが帰って来ますよ」

「えっ」

 彼は驚いた。予想外のことであった。ミールが一週間と言っていたので、そのままの通りで考えていたが、彼が助けられる数日前にロマノフお爺さんは出発していたようだ。

「やっと、帰れますね。寂しくなるけど、いい思い出になります」

「ああ、そうだね。やっぱり、僕も倉庫へ行くよ」

 彼は立ち上がって、例のブーツを履いた。彼には咄嗟の閃きがあった。それを実行するためには倉庫に行くことが必要不可欠であった。

 再び小一時間掛けて倉庫まで辿り着いた。前に比べ、彼の足取りも慣れたもので、時間も短縮されたように思えた。

「僕は肉を切り出してきますね」

「じゃあ、僕は中でも見てるよ」

 そう言うと彼は、真っ先に奥へ向かって、樽の前で足を止めた。リュックの中にあった水筒を懐から取り出して、素早く蓋を開けて、酒を汲んだ。かなり強い酒のようだ。

「終わりましたよ」

 ミールの声が聞こえて、彼も「じゃあ、帰ろうか」と呆けて言った。また雪の積もった道を歩いたが、彼には苦ではなかった。興奮が鎮まらない彼には、悪路など何でもなかった。小屋に帰ると、ミールは夕飯の仕度を始める。何でも、ロマノフお爺さんの好物を作るようだ。ミールは彼に砥石で包丁を研ぐように言った。彼は言われた通りにやった。

 夕飯の準備が終わった時点で、彼は「水を持ってくるよ」などと言って、襤褸のカップふたつを持って部屋の隅へ。そして、片方に酒を注ぐ。

「それじゃあ、食べましょう」

 ミールはそう言うと、まず酒を飲んだ。仮面が邪魔で匂いがわからないのだろう。そして、次第にミールを眠気が襲った。彼はミールを襤褸布に運ぶと、早速、仮面に手を伸ばした。しかし、無意識下のミールがそれを拒む。どんな方向から伸ばしても、執拗く抵抗する。

「何でだ……!」

 遂に彼は最後の手に出る。台所から例の包丁を持ち出して、ミールの心臓目掛けて振り下ろした。ミールが呻き声を上げる。彼は胸に刺した包丁を、そのまま腹の方へ動かした。赤い液体と中身が零れ出た。そして、彼は仮面に手を伸ばして、遂に外すことに成功した。

「……」

 彼はミールの素顔を見て、がっかりした。特に異常は見られない普通の顔だったのだ。今度は隠す必要のないその顔に包丁を突き立てる。噴水のようだった。

「……」

 その時だった。入り口の扉が開いて、見知らぬ老人が入ってきた。そして、襤褸布に横たわるミールと返り血に濡れた男を見て全てを察したのだろう。老人はライフルを彼に向けた。

「この悪魔野郎が!」

 老人の怒号に対し、彼は無反応だった。

「……」

 そして、一言、彼は言った。

「さよならだ」

 老人のライフルが火を吹く。

 一瞬の高熱を感じて、彼の世界は永遠に暗転した。

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