9.黒と白
伊佐市の5月。
麦わら帽子にモンペ姿の今村玄穂は、郡山八幡神社の境内で池田虎白を待っていた。神社の中は高い木がしげり、太陽の光を遮っている。境内には涼しい風が吹いていた。
今村玄穂と池田虎白のこの時期の待ち合わせ場所は、いつも郡山八幡神社である。二人が中学生のときから待ち合わせ場所は変更されていない。
今村玄穂が、神社の境内を待ち合わせ場所に指定したのは、池田酒造の工場建設予定地が近くだからである。
今村玄穂は今村商店の一人娘。池田虎白は、池田酒造の長男である。二人とも、伊佐市の蔵元の子息子女である。今村商店は黒麹を使った焼酎を造り、池田酒造は白麹で焼酎を造っている。
池田酒造の工業建設は延期になり、その土地に、玄穂と虎白は、サツマイモを植えたのだ。新しい焼酎を造るために、玄穂と虎白は協力をしていた。
そして、5月中旬のこの時期には避けては通れることのできない仕事があった。
それはサツマイモ畑の雑草抜きである。伊佐市では4月の下旬に畑にサツマイモが植え付けされる。そして、サツマイモは匍匐性であり、地面を覆うように茎と葉を伸ばす。大体地面をサツマイモの茎と葉が覆うのは、植え付けから1ヶ月後である。
1ヶ月経てば、サツマイモが雑草に負けることはないが、逆に言えば、植え付けしてから1ヶ月は、除草をする必要があるのである。
そして、今村玄穂と池田虎白は、お互いの仕事の合間に待ち合わせをして、畑の雑草抜きをやっているのだ。
「玄穂、お待たせ」と、スーツ姿の池田虎白が言った。約束の時間から20分経ってやってきた。背広を脱ぎ、ネクタイを外した。広告代理店との打ち合わせが長引いてしまったのだ。池田酒造の看板銘柄『伊佐鶴』は首都圏で好評であるということだった。ブランドとしての定着を狙って、広告代理店からキャッチ・コピーの提案を受けていた。
「遅い」と言いながら自分のノートにメモ書きをした。玄穂が大事そうに膝の上に置いているのは、父が残したノートであった。3代目が残したノートを丹念に読み込みながら、農林58号という芋の品種で焼酎を造ったら、香り豊かな焼酎になるかを、頭の中でその工程を考えていたのだ。
この時期に、二人で畑の雑草を抜くのは、二人にとって久しぶりであった。最後に二人がサツマイモ畑で雑草を抜いたのは、二人が高校3年生の時であった。7年ぶりに、二人で雑草を抜く。
高校生の時は、虎白は野球部の練習後で、いつも遅れてきていた。7年ぶりに再会されたというのに、虎白は遅れてきた。
玄穂は、虎白は遅れてくるだろう、と思っていた。だから、高校生のときは英単語帳を持ってきて、時間が潰せるようにしていた。
今は、新しい焼酎を造る方法を考えて時間を過ごせるようにノートを持ってきていた。
伊佐市の長閑な、田んぼに植えられた稲と、そして、伊佐市を貫く川内川の水の流れが変わらないのと同じように、二人もまた変わっていないようだ。
「さて、はじめるか」と、気の木陰でスーツから作業着に着替えた虎白が言った。日よけとしてかぶっている帽子は、野球帽であった。
二人は、芋畑の畝を挟むようして雑草を抜いていく。畝の端から中腰で移動しながら雑草を抜き、反対側に行き着くと、横の畝に移動し、また端から端まで雑草を抜いていく。
雑草を抜いていくペースは、玄穂と虎白は同じだった。畝を挟んで顔を上げればお互いの顔があった。
雑草を抜きながら、玄穂と虎白の間には、自然に会話が生まれる。二人の間で話されるのは、焼酎の話である。
二人の会話が尽きることはない。
玄穂は、丁寧に雑草を根っこから抜いては、あぜ道へと雑草を置いていく虎白に話しかける。
「玄穂、どうして宮大工は、落書きを残したと思う」と虎白は玄穂に尋ねた。
宮大工の落書きとは、郡山八幡神社で発見された日本最古の『焼酎』という文字が書かれた木片のことである。1559年当時にすでに、今の焼酎とは異なるかもしれないが、『焼酎』と呼ばれる酒があったのだ。木片には、『工事の時、施主が大変けちだったので一度も焼酎を振る舞ってくれなかった、なんとも迷惑なことかな』という意味の文章が書かれていた。
「ん? 当時の施工主の僧侶さんが焼酎を振る舞わなかったからでしょ?」と玄穂は言った。
「それはそうなんだけど、それは結果だよ。落書きを柱に打ち付けたのかっていう動機さ」
「動機? なんだか推理小説みたいね。そんなこと考えたことなかった。でも、やっぱり、焼酎を振る舞わなかったことに対する恨みなのじゃないかしら。せめてもの復讐?」と玄穂は、畑の雑草を抜きながら答えた。
「いや、俺は違うと思うんだ。あの木片を残した、作次郎さんと靏田助太郎さんは、宮大工の棟梁とかだったんだと思う。『迷惑なこと』って、戸惑うってことだろ?」
「古語ではそういう意味ね」と玄穂も答える。
「つまり、大工の棟梁として、その働いている部下たちに焼酎を振る舞ってやりたいけれど、僧侶は焼酎を振る舞うつもりがない。だけど、僧侶に対して、面と向かって、焼酎を振る舞ってください、とも言えない」
「板挟みにあったってことね。でもそれならやっぱり、動機は恨み、ということじゃないのかな? その落書きが、歴史的な大発見になるなんて当人たちも想像していなかったでしょうけど」
虎白は、深呼吸をした。そして、生き抜いたばかりの雑草をビニール袋の中に入れた。
「俺は、後悔なんじゃないかなって思う。神社の修理だって、一日や二日じゃないだろう。大工の棟梁として、部下に仕事終わりに焼酎を飲ませてやりたい。だけど、僧侶に焼酎を振る舞ってくださいよと文句を言うか、言わないか。ずっと悩んだのだと思う。それこそ、修理の期間中ずっと。それで、結局、言うことができなかった。だから、木片に残した」
「後悔を、木片に残したってことね。面白い考えだけど、歴史的に証明するのは無理かな」
「まぁ、俺は考古学者ではないからそれを証明したりする気はないさ。ただ、あの木片を残した人は、言えば良かったって後悔したんじゃないかと思うんだ」
「その後悔が、日本最古の『焼酎』の文字を残した……観光客受けはあまりよくなさそうなストーリーね」と玄穂は笑った。
「まあな。それで……俺は後悔をこれ以上したくない。新しい焼酎を造る。だから、言うぞ」と虎白は言った。
高校3年生の時に言おうとして言えなかった言葉が、虎白にはあった。
「玄穂!」と虎白は大声を出した。玄穂は、畝から顔を上げて、虎白を見つめた。
「これからも、一生、俺と一緒に焼酎を造ってくれないか? いや……一緒に焼酎を造ってください。新しい焼酎を一緒に造っていこう」
「はい。喜んで。虎白となら、きっと造れる気がする」と玄穂はすぐに答えた。
「ありがとう」
「うん。それで……この芋が収穫できたあと、黒麹と白麹、どっちで仕込むかまだ決めてないよね?」と玄穂は言う。
「それはこれから、ゆっくりと二人で決めていこう」と虎白が言った。「それもそうだね」と玄穂も頷いた。
黒麹は玄色である。白麹は虎の毛のような茶色をしている。玄穂は黒麹で焼酎を造り、虎白は白麹で焼酎を造っていた。これから二人がどんな焼酎を造っていくのか。それは、誰にも分からない。
了。