7.黒
3月は、焼酎蔵元にとって、焼酎造り以外で忙しい時期だ。焼酎を造っている期間は、寝ることができない忙しさだけれど、3月は今村商店としての業務で忙しい時期だ。
と、いうのも、焼酎の主材料となるサツマイモの仕入れの契約をしなければならない時期にきている。
サツマイモも、勝手に地面から生えるわけではない。夏に収穫され、気温15度、湿度85%の暗室で保管された種芋に水をやり、芽生えさせ、苗を造り、そして畑に植えなければならない。
焼酎に使われているサツマイモの品種は、黄金千貫である。収穫の時期に、どれくらいの焼酎を仕込むか。それによって、黄金千貫を仕入れる量が変わる。
農家さんに対して、どれくらいの量を注文します、という打診をしなければならない。
そして、蔵元から注文を受けた農家が、暗く涼しい暗室で保管していた芋を取り出して、種芋を造り、苗床を造り、苗を植えるのだ。
サツマイモの苗が畑に植えられると、私は春の到来を感じる。サツマイモの苗を植えるのに最適な気候は、平均気温が18度以上とされる。だが、15度以上からでも苗の植え付けはかのうである。伊佐市の3月の月間平均気温は9度程度であるが、4月の月間平均気温は15度となる。
冬の間は寂しかった伊佐の畑が、4月を境にして賑やかになる。サツマイモを育てるために被覆温床のビニールが建ち並び始める。
伊佐市に春が来て、そしてまた、焼酎造りの第一歩が始まる。
鹿児島の気候では、育苗期は、3月下旬である。伊佐市は、苗を植える時期だ。春が来た。
「今年も、20キロリットルを出荷する予定で黄金千貫を仕入れようと思います」と私は今村商店の会議の場で発表をする。杜氏として、また、今村商店の経営者として、方針を決めなければならない。
仕込みの量を増やす、という決断をすることを私は出来なかった。強気な仕込みをできないのは、私が杜氏として自信がないからかも知れない。
そして、減らす、という決断はできない。これ以上仕込みの量を減らしたら、売り切っても赤字となってしまう。
「何か、他に話し合うべき事などありますでしょうか」と私が会議の最後に言うと、一人の蔵人が「杜氏は誰がするのでしょうか」と質問をした。
私は答えるのを躊躇ったが、「私が務めるつもりです」と言った。
部屋にいる人達が幽かに動揺しているように私は感じた。
「反対するつもりはありませんが、川畑さんはどう思いますか?」という声もあがる。表立って、私ではなく、川畑さんに杜氏をして欲しいということなのだろう。
川畑さんは、黙って腕を組み、目をつぶっていた。
私も含めて、会議の場にいる全員が川畑さんの言葉を待っていた。3代目杜氏である父が入院してから、川畑さんは今村商店を支えてくれている。精神的な支柱なのだろう。私だって川畑さんを頼りにしている。
全員が川畑さんの言葉を待っていた。長い沈黙のあと、川畑さんが口を開いた。
「4代目が造っても、俺が造っても、『今村黒麹』は造れる。どっちが杜氏をやるかの問題じゃない。ここにいる全員が、一致協力して焼酎を造れるかだ」と川畑さんが言った。
私の杜氏としての能力を、川畑さんが自分と同等と評してくれたのは素直に嬉しかった。
だがもちろん、私が杜氏を務めることに不満がある蔵人もいることは知っている。私は、杜氏としての経験が浅い。酒造の世界で言うなら、ひよっこである。
それに、今村商店の人達は口には決して出さないが、私が女である、ということも不満の一つなのだろう。
蔵に女が入ったら穢れる、などという時代錯誤で非科学的ななことはあり得ない。だが……私の味覚と嗅覚は月経の影響を受けるのは事実だ。私の利き酒には、月の引力で海に満ち引きがあるのと同じように、波が存在している。生理中とそれ以外では、焼酎の印象にブレがあるのだ。それは私も自覚している。だから、焼酎を仕込んでいる間は、私はピルを飲んでいる。
女が杜氏をするなんて、というようなことを大っぴらに言う人はいないが、陰口としていう人は未だに多い。
「ただ……、これは4代目が煮詰まっていたら話そうと思っていたのだが……先代の話で言えば、先代は3代目杜氏を継ぐ前に、つまり、『今村黒麹』を開発するために、少量仕込みをずっとやっていた。4代目が、新しい焼酎を造りたいっていうなら、その間……といっても、この老体が持つまでですが、杜氏代理をやってもいい」
そういって川畑さんは私を見た。川畑さんと目があった。川畑さんの目は、私を真っ直ぐに見つめて、私の決断を待っているようだった。
私が、父の「今村黒麹」を造り続けるのか。
私が、自分の、新しい、今後の今村商店を支え続ける焼酎を造るのか。いや、造ろうとして造れるわけではないから、造ろうと挑戦する気持ちがあるのかということだろう。
私が、父の「今村黒麹」を造り続けるということを、父は、二番煎じと呼ぶのだろう。川畑さんも、私に新しい焼酎を造って欲しいのだろう。父も、2代目からそう言われて、「今村黒麹」を造ったのだろう。
「川畑さん、杜氏代理をお願いできますか」と私は言った。
私が造る、新しい焼酎。新しい焼酎に対しての、イメージもアイデアもあるわけではない。だが、私はそれをやらなければならないのだろう。
私は、4代目なのだ。いや、もしかしたら、新しい焼酎を造って初めて、4代目になるのかもしれない。
・
私が新しい焼酎を造る、ということが決まってから、3日が経った。小仕込み用の設備は、もともと今村商店には開発室があり、設備は整っている。しばらく使われていなかったから、私はそれを徹底敵に洗浄をした。
そして、隣の資料室を見て、私は驚いた。実は、3代目は、定期的に新しい焼酎を造ろうとしていたようだ。私が卒業して今村商店に戻ってくるまで、つまり昨年まで、新しい焼酎の開発は、今村商店で行われていたのだ。
父が入院して、開発室が使われなくなったということなのだろう。
父の残した膨大な資料を読み返すことから私は初めた。だが、それを読み込んでいくうちに、私は、新しい焼酎を造る、ということの大変さを知ることになる。
蒸し具合、発酵具合、熟成期間など、条件を少しずつ変えながら焼酎を造っていた。そして、それらの酒を利いた結果まで、詳細に資料には書いてあった。
つまり、総当たり作戦、ローラー作戦とでもいうべき、最適な条件を父は模索し続けていたということだ。
そして、総当たり作戦は私がやろうとしていたことでもあった。数学に喩えるなら、ある数字、たとえば「11」という数字が素数かどうかを調べる為に、愚直に11を、2で割、3で割り、5で割、7で割り、ということを順々に試していくということに似ている。しかもその素数の桁は焼酎造りに限って言えば、膨大な桁である。
父がまだ試していない条件を試してみたらよいのだろうか? いや……難しい。
どうしたら良いのか。私は、新しい焼酎を造るには、まず何をしたら良いのかも分からなかった。
そんなとき、私のスマートフォンが鳴った。ソーシャルネットワークだった。
『はる〜元気? うちで造った清酒送ったからね〜』
醸造学科で一緒だった秋子からだった。秋子とは、大学で出会ってから修士を卒業するまでの6年間、同じ学科・同じ研究室だった。それに、秋子も山形の日本酒を造っている蔵元の子供だった。
日本酒と焼酎ということで、酒類は異なるが、私と秋子の境遇は似ていた。大学1年生のころに知り合い、私達はすぐに意気投合した。良く一緒に遊びに行ったし、成人してからは一緒にお酒も飲みに行った。もちろん、私は焼酎を飲むし、秋子は日本酒を飲む。私と秋子は飲むお酒は違ったが、将来の夢と、そして負っている責任が似ていた。
私はすぐに秋子に電話をした。私は私の悩みを秋子に相談したし、秋子も秋子の悩みを私に相談していた。
秋子の近況を聞くと、秋子は卒業後、専務になったらしい。一族経営であるし、秋子の両親は健在らしいので、専務への就任ということなのだろう。楽しそうに近況を報告するのは、純粋に秋子が日本酒を造るのを楽しんでいるからかも知れない。
大学から修士まで付き合っていた彼氏と別れず、蔵を継がず、東京に残るかを悩んでいた秋子はふっきれたみたいだ。
「送ったのは、うちの新商品だからね。女性をターゲットにしたフルーティーな香りの清酒。その名も、『マスカットな日本酒』。ハルも、飲んだら是非、感想を聞かせてね」
「日本酒でフルーティー? 付け香?」
香りを豊かにする目的で、香りの強い日本酒を混ぜることもあると聞く。
「女性をターゲットにして試しに製造してみたの。リナロールを主成分として着香して、日本酒の匂いが嫌いな人、とくに女性でも飲める清酒ってコンセプト。味も、辛みより甘み重視。こんど東京のデパートで物産展あるから、そこでアピールするつもり」と秋子は答えた。
リナロールとは、モノテルペンアルコールと呼ばれる香気作用のある成分である。マスカットワインなどに多く含まれ、果実の香り、などと表現される。逆に、ワインで土臭い匂いがするのは、モノテルペンアルコールのα―テルビネオールが作用している。
「モノテルペンアルコール系は、焼酎では『芋臭い』って評価になるかな。蒸留してもアルコール系は揮発するから、取り除くことは難しいし」と私は言う。
「分かる。私が焼酎飲めないのって、ジアセチルの匂いがどうも駄目なんだよね。つわり臭というか、乳酸菌とかの細菌が異常増殖して、酵母の働きを阻害しているときの香りだもん。清酒でジアセチル臭があるって、一時仕込みの失敗だしね。だから焼酎飲むときにそれが香るって、どうもね~」
日本酒と焼酎は、お酒造りの共通点も多い。たとえば、米を麹の材料にしていることなど、日本酒と焼酎は共通している。
「仕込む芋によっては、ジアセチルの値は高くなるし、焼酎でもそうなると評価は低くなるよ。焼酎では、芋イタミ臭って言われていて、鑑評会に出したら、杜氏のメンツが丸つぶれって感じかな。黄金千貫ではあまりジアセチルは出ないけど、紫色の芋では結構出る」と私も言う。
「分かる。酒造好適米ってあるよね。うちの蔵の酒米は、山田錦一択だったけど、特徴を出すために五百万石っていう米でも仕込み始めたよ」
「特徴というか、オリジナリティーを出すのって苦労するよね。私も、新しい焼酎を開発しようとしてるんだけど、何から手をつけていいか分からないって感じ」
「ハルは今、新酒の開発かぁ。大変そうだね。お父さんもこの前、米を80%磨いた焼酎作って試飲会を開いてアンケートを取っていたけど、磨き50と80の違いが分からないってお客様が大半で、落ち込んでいたよ」と言いながら秋子は電話の向こうで笑った。
「『マスカットな日本酒』、デパートでの物産展、成功するといいね」と私は言う。
「そうだといいけど、お客様に受け入れられるかは分からないかな。マスカットワインの香りの清酒って、逆に言ってしまえば、それならわざわざ清酒飲まなくても、ワイン飲んだ方がいいって思われるかもしれないし」
「難しいよね。私が焼酎で同じことをしたら、鑑評会で叩かれちゃうかな」と私は自嘲気味に笑う。そうでなくても、入賞できなかった。
「それ、分かる。清酒の鑑評会では絶対出せないかな。ふざけているのかって言われちゃいそう。一時仕込みを失敗したような酒を出すんじゃねーって。だけど、人によっては飲みやすいって言ってくれる人もいるし、お客様の好みって分からないものだよ。これぞ、松尾様のみぞ知る」とまた秋子は笑う。
秋子は笑っていたが、私はハッとさせられた。私は、お客様の好みという基準で考えたことがあっただろうか?
鑑評会に入賞する焼酎を目指していた。それが、お客様の好みの焼酎であると思っていた。
「ねぇ、秋子、鑑評会で入賞するお酒が、お客様の好みのお酒ではないのかな?」と私は聞いた。
鑑評会が焼酎を飲むのではない。お客様が、焼酎を飲むのだ。
「う~ん。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。優秀賞をとったら、その酒は良い酒なんだって、手に取ってくれるお客様も増えるし、実際に良い酒も多いし。だけど、私は今まで日本酒を敬遠していて人、特に女性に飲んでもらえたらと思ってるし、それは鑑評会とは違う基準。女が造る、女性のための日本酒舐めんなよ、男ども~って感じ」
秋子はどうやら『マスカットな日本酒』に思い入れがあるようだ。それに、秋子も女である、ということに苦労しているのだろう。女性蔑視がまだまだ残る業界だ。
「私も、造ってみようかな、マスカットな焼酎」と言って笑った。
焼酎で使われる芋の品種によって、香りは変わる。マスカットの香りは、モノテルペンアルコールの中で、リナロールが重要な役割を果たしている。また、好まれない匂いであるジアセチルは、アントシアンを多く含む芋を醸造した際に発生する。
女性にも飲みやすい、フルーティーな焼酎。それは、理論上は可能だ、と私は思った。
「秋子、電話してくれてありがとう。なんだか、すっきりした。お互い頑張ろうね」と電話を終える。
私は、父が造った「今村黒麹」とは真逆の焼酎を造ろうとしている。だが、まずはやってみよう。そう私は思った。