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黒と白  作者: 池田瑛
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6.黒と白

 玄穂が郡山八幡神社の石段に座って考え事をしていた。懐中電灯に照らされた玄穂の吐く息は白かった。高熊山から吹き下ろしてくる風は、冷たかった。神社の石段はまるで、氷のように冷たかった。参道の木々を揺らす風も冷たい。防寒着を着た玄穂の体温を少しずつ奪っていく。だが、それとは逆に、玄穂の内側は熱を帯びていた。


 自分が造るべき焼酎とはなんなのか。考えれば考えるほど体が熱くなっていく。臓腑に染み渡った焼酎が、熱を発し続ける。

 

 今村黒麹は、玄穂の父が作った焼酎だ。それも、玄穂が生まれる前にできた焼酎だ。今村酒造の2代目が造った焼酎は、当然ながら現存しない。

 

 2代目の焼酎と、父が、3代目が造った焼酎がどう違うのか、何が新しいのか。どんな特徴があるのか。実際に焼酎を飲んで、比べてみるということは不可能である。


 新しい焼酎を造る。


 それはどんなことなのか。玄穂には想像がつかない。


 現状の「今村黒麹」を改善する、ということなのだろうか。だが、改善点など思い付かない。焼酎は一種の芸術品なのだ。香り、コク、辛みなど、焼酎にはそれぞれ特徴がある。

香りが弱いから、香りを強くすれば良いということではない。香りが弱いということが必ずしも欠点となるということではない。それに、焼酎として未完成であるということでもない。

画竜点睛ではないということである。竜の目が描かれていないからと言って、その竜の目を描けば完成する、というようなことではない。何かを足せば、焼酎が焼酎として完成するということはない。


 玄穂がそんなことを考えていると、突然、玄穂の顔に光が当てられた。まぶしさのあまり、玄穂は目を閉じ、両手でその手を遮った。虎白が、持っていた懐中電灯で玄穂の顔を照らしたのだ。


「玄穂?」


 そんな戸惑いと驚きの虎白の声が、静かに郡山八幡神社に響き、その声は石段の中へと染みこんでいった。



 玄穂はまぶしさを感じなくなると、ゆっくりと目を開けた。地面には懐中電灯の光で円ができていた。空に浮かんでいる満月と同じであった。ちょうど今日が、満ちて真円となった夜だった。


「虎白? びっくりした」と顔を上げた玄穂は言った。


「すまない。賽銭泥棒だと思った。こんな夜中に、どうした?」と虎白は言った。


「考え事をしていたの」と玄穂は言った。虎白は、玄穂が落ち込んでいるだろうと思った。悲しいことがあると、悩み事があると玄穂は決まって、郡山八幡神社の境内に行くのだ。玄穂が母を亡くしてからしばらくは、玄穂が神社の参道に座って泣いていたのを虎白は知っていた。


だから虎白は、「何かあったのか?」と尋ねるのだった。


「別に何もないわ。それより、虎白こそ、どうしたの?」


 玄穂は話さなかった。逆に問い返された虎白は答えに窮した。母親から見せられたお見合い相手の写真。母親は図星をついていた。虎白も、写真を一瞥しただけだが、そのお見合い相手の写真が玄穂であることを期待したし、結局別人であったが、玄穂と目元が似ていた。くっきりとした二重であるというのも同じだ。


 そして、母親の見合い話から逃げてきた、などと玄穂に言えるはずもなかった。見合いの話を再び思い出し、虎白の顔面が熱くなった。参道の両脇の木々が満月の光を遮っていることに感謝した。月の光に直接照らされたなら、虎白の顔が紅潮していることが玄穂にも分かったはずだ。


「俺はただの散歩」と虎白は答えた。そしてそれは嘘だった。


「そっか。じゃあ、本当に賽銭泥棒が出る前に帰ろうかな」と玄穂は石段から立ち上がり、右手でお尻付近の埃を払った。


このまま玄穂は家に帰るつもりなのだろう。「お参りはしたのか?」と虎白は言った。


「してない」


「参道を使わせてもらって、お参りしないなんて、焼酎を振る舞わない誰かさんみたいだな。ちゃんと、仁王様も見ているぞ」と虎白は冗談を言った。玄穂を引き留めたいだけだった。


「じゃあ、していこうかな」


「俺もせっかくだからしていくわ」


 虎白と玄穂は懐中電灯で石畳の参道を照らしながらゆっくりと歩く。参道の両脇の赤い灯籠は灯っていない。


 玄穂、そして虎白の順に本殿でお参りをした。二人とも、投げる賽銭を持ってきていなかった。


「じゃあ、私は帰るね」


「送っていくよ」


「いいよ、近くだから」


「どうせ同じ方向だろう」と虎白は言った。虎白が散歩に出かけた理由など、すでにどこかに吹き飛んでいた。このまま散歩をしても、もっとも靄が大きくなるだけだと思った。


 満月と星空の田んぼ道を二人は歩く。会話はない。玄穂は、新しい焼酎について考えていた。虎白に、新しい焼酎を造る、ということを尋ねたかった。だが、玄穂は聞くきになれなかった。虎白なら、簡単に自分が考えても分からない新しい焼酎のことを答えてしまいそうだ。

 それは、焼酎造りのライバル、杜氏として悔しかった。


 虎白は、肩を落として元気なさそうに歩いている玄穂を横目で見ながら、歩いていた。融資が受けられず、悔しいし、落ち込む。だが、不思議と自分は落ち込んでいられないと思えてきた。


「ここでいいよ、送ってくれてありがとう」と今村商店の蔵の門の前で、玄穂を言った。


「おう、じゃあお休み」と虎白が言って立ち去ろうとしたら、「あっ。ちょっと上がっていく」と玄穂が言った。

 虎白にとっては予想外だった。


「今日、今村商店の慰労会をやって、食べ物と焼酎が少し残っているから」


 虎白は、玄穂の家の居間に通された。玄穂はキッチンでお湯を沸かしている。虎白は宴会で残った鉄火巻きを醤油につけて口に運ぶ、ということを淡々と繰り返していた。

 玄穂の家にあがったのは久しぶりだった。玄穂の父親は長く入院しているから、玄穂はこの屋敷に一人で住んでいる。


 蔵元の屋敷。今村家が造り酒屋だけでなく、このあたりの土地の大地主であったことを名残として示す大きな屋敷だ。そして、一人で住むには大きすぎる昔ながらの戦火を逃れた屋敷だった。今村商店の、焼酎蔵や蔵人たちが寝泊まりする家屋などの広大な敷地は、農地ではなかったので、農地改革で手放さなくてすんだのであろう。


 焼酎を造らない時期、広大な敷地に、一人住むというのは、玄穂は、寂しくないのだろうか。玄穂が誰かとここに住むという場合には、玄穂が結婚するということなのだろう。その場合は、玄穂は今村家の一人娘であるし、婿養子をとることになるのが自然であろう。だが、池田家の一人息子である自分が今村家に養子に行くなんてことは考えられない。そんなことを虎白は考えていた。いや、昔から何度も考えたことだった。


「今朝潰した鶏だって。お隣からおっそわけ(お裾分け)をいただいたの」と玄穂はキッチンから現れて、鳥刺しと甘醤油と醤油皿を置き、「生姜も擦ってくるね」と言った。

玄穂がエプロン姿であったのに、虎白は気恥ずかしくなった。


 さらに、つけ揚げ(薩摩揚げ)がテーブルに並んだ。


「残り物とあり合わせでごめんね」と言いながら、玄穂は虎白の向かいに座った。そして、コップ二つにお湯と焼酎を注ぎ始めた。黒陶のコップと白い陶製のコップであった。同じデザインで、色違いであった。

虎白には、ペアコップなのか、それとも他にもキッチンの棚に同じようなコップがあるのか、分からなかった。


 虎白は恐縮しながら受け取り、二人はコップを合わせた。

 

「二日連続で俺たち、一緒に飲んでるな」


 昨日の夜は、鹿児島市内の城山で飲み、今日は玄穂の家で飲んでいた。


 二人が約束をした訳でもなく、偶然あったから飲んでいるに過ぎない。一緒に焼酎を飲むということに抵抗がないのは、二人とも伊佐市の若い杜氏であるからであろう。


 肴を食べながら、焼酎を飲んでいく。二人とも杜氏だ。そして、旨い肴に旨い焼酎があれば、その酒量は進んでいく。


「旨いな。やっぱり」と虎白は、今村黒麹の感想を言う。昨日利き酒会で飲んだ今村黒麹よりも旨く感じたのは、玄穂が注いだからかもしれないと思いながら、虎白は言った。


「ありがとう」と玄穂は小声でお礼を言って、視線をテーブルに向けた。玄穂は尋ねるべきか迷った。だが、玄穂は尋ねた。


「ねぇ、虎白は、自分だけしか作れない焼酎ってどんなのだろう? 私、父さんに言われちゃった。私の造った焼酎は、父の二番煎じの焼酎だって。私にしか造れない焼酎って何だろう」


 玄穂はそのことを虎白に告げると悲しくなった。杜氏としての未熟さをライベルに告白するようなものであった。


虎白は、目を閉じて、今村黒麹を味わった。「自分だけしか造れない焼酎なんて思い上がりだと俺は思うな。俺の親父も言ってたよ、お天道様に合わせて焼酎を造るって。だけど、今は、一年中焼酎は造れる。温度や湿度も管理できる。誰が造っても同じ品質の、同じ味の焼酎を造れる。それが新しい焼酎造りだと俺は思う」


 焼酎造りのマニュアル化。だからこその工場建設だ。玄穂の問いが、虎白を苛立たせた。やぱり、今村商店は、親子揃って、頑固で旧態依然だ、と玄穂に言い放ってやりたいと思った。


「虎白は、焼酎を電化製品か何かだと思っているみたいね」


「実際そうだろ。杜氏の経験や直感は、数値化されてマニュアル化される時代だ。だからこそ、杜氏の数はどんどん減っている。逆に言えば、それだけマニュアル化されて、適切な数値に設定できれば、あとは誰だって造れる」


「そんなことはないわ。誰にでもできる訳じゃ無い」と玄穂は言った。


「できるさ。なら聞くが、麹を造るのに最適な米の蒸し上がりは?」


「それこそ、杜氏の経験で……」


玄穂が言い終わらないうちに、虎白は「違う」と言い切った。


「蒸し上がりで水分36%が理想だ。そのためには、精米歩合90%にしたら、米の吸水率と浸水時間から逆算できる。製麹だってそうだ。白麹なら、種付けして、36度から12時間かけてゆっくり温度を38度まで品温を上げる。そして、そこから37.5度で18時間だ。昔は、これは杜氏が経験則で知っていて、温度計も酸性度も、通風製麹装置が無かった時代だ。今は、機械でそれを設定してしまえば、後は自動でできあがる。誰にだってできるさ。そうすれば、もっとたくさん焼酎を造って、もっとたくさん売れるんだ」


 虎白は、焼酎を造る場所を工場と呼ぶ。玄穂は、蔵と呼ぶ。単純な呼称の違いであるが、すでにそれが、二人の焼酎造りに対するスタンスの違いを明確に示していた。


「虎白、なんだか怖いわ。そんな怒っているような口調で言わないで。酔っている?」と玄穂は言った。


「ご、ごめん……」と虎白は自分が一人で熱くなっていることに気づいた。


「それに、今村黒麹は、蓋と箱を使った手作り麹よ。電動の回転ドラムなどは導入していないわ。誰でも製麹できるってわけじゃない」


「手作りでまだ麹を造っているのは、最新の設備を買う資金がないからだろ? 設備を導入したら、誰でもできる」


 玄穂は虎白の言葉に言い返すことができなかった。そもそも導入するつもりもないが、導入する資金がないというのもまた事実であった。


それに、東京農業大学では、酒類生産科学研究室が有していた設備では、製麹している三角棚の温度は、遠隔操作されたパソコンで計測することができた。製麹をしている2日の間、蔵で温度計と徹夜で睨めっこしている必要などない。樽の中の発酵状況を、スマートフォンで観測して、遠隔操作すらできてしまう。経験のない大学生でも、数値の判断だけで、一時仕込みはできてしまっていた。

 

 だけど、それは違う。玄穂はそう思った。


「大学の3年生の時に必修で、5人一組で日本酒などを実際に自分たちで少仕込みをする酒類生産学実験というのをやったの。少仕込みで、蒸すところから種付けも、手作業よ。当然、学生と、蔵人や杜氏などの専門家では、同じ仕込みと言っても、その技量に天と地ほどの差があるから、できあがったお酒も、同じ材料で造ったとは思えないほどの違いがあったわ。誰でも造れるというわけじゃない」と玄穂は反論をした。

 

「それは、手作業でやったからだろ?」と虎白は言って、コップの中の焼酎を一気に飲んだ。

 玄穂は黙って、虎白の空になったコップにお湯を注ぎ、そして焼酎を注いだ。


「虎白は変わったね」と玄穂は言った。


「変わったのは時代だよ。地元向けだけに造っていたら、いつから蔵は潰れるぞ。実際、厳しいんだろ?」


「……」


 玄穂は答えなかった。だが、虎白の指摘は当たっていた。


「もし、玄穂にその気があるなら、池田酒蔵に合流するか?」


「それは、父が断ったはずよ」


「俺は、4代目に聞いている。3代目と4代目の判断は違っていいはずだ。当然、合流するとなったら、今村黒麹ではなく、伊佐鶴を造ってもらう」


「そんなの無理だよね。だって、伊佐鶴は白麹じゃない。麹を変えたら、焼酎造りそのものが、全部変わってしまうわ」


「まずは、蔵の中を残らず洗浄することから初めてもらうかな」


「馬鹿にしないで!」と玄穂はテーブルを両手で叩いた。そして、玄穂の両目には涙が貯まっていた。


 それを見た虎白の酔いはすっと冷めた。


「ごめん、言い過ぎた」と虎白は頭を下げた。幼なじみではあるとはいえ、玄穂が造っている焼酎の麹を馬鹿にするようなことは、失礼過ぎる発言であった。


今村商店は、黒麹を使った焼酎造りをしている。それに対して、池田酒蔵は、白麹を使っている。白麹は黒麹から生まれた変異種ではあるが、現在では焼酎造りの主流の麹となっている。


 黒麹と白麹では、出麹の時の着生のタイミングも違う。黒麹の方が旺盛で、黒麹そのものを扱う作業をする際には、防塵マスクで胞子の体内への侵入を防がなければならない。それに対して白は扱いやすい。


 黒麹と白麹では、発芽後の生育速度も違う。白麹の方が早い。


 黒麹と白麹では、できあがった焼酎の香りも味も違う。黒麹は重厚で鋭く、白麹では柔らかい。


 電子顕微鏡で覗いたら黒麹も白麹も共に赤血球のような形をしている。だが、違う。


 黒麹菌は玄色である。


 白麹菌は虎の毛のような茶色をしている。


 玄穂は黒麹で焼酎を造り、虎白は白麹で焼酎を造る。


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