3.黒と白
池田虎白は、Barの中に入ると、カウンターに座った。今村玄穂の隣に座ろうかと虎白は逡巡したが、二つ椅子が離れた場所に座った。玄穂が飲んでいるのは焼酎であるということは見れば分かった。
「彼女と同じのを」と虎白はバーテンダーに注文をした。
今村玄穂は、その声の主が誰なのか分かった。笑いと歓声の響く利き酒会場でも虎白の声は不思議と玄穂の耳にまで届いていた。
「虎白……」
「奇遇だな」と虎白は言った。薄暗いBarの証明でも、玄穂の横顔は、虎白を歓迎していなかった。
今村玄穂は、虎白を一瞥し、その視線を再びBarのカウンターに戻した。玄穂の視線の中心は、グラスの中に揺らめく焼酎であった。
Barに流れていた音楽は、ベートーベンの交響曲第6番『田園』であったがその演奏が終わった。そして、第5番の『運命』が流れ始めた。Barの契約しているクラシックの有線であろうか。ベートーベンの交響曲を流すにしても、第6番の後、第5番を流すというセレクトは、控えめに言って滅多無いセレクトであった。
『運命』の有名な交響曲のテーマ、『ジャジャジャジャーン』が鳴り響くなか、バーテンダーは銘柄を言うこともなく、静かに虎白の前にグラスを追いた。Barのぶ厚い屋久杉の一枚板を使ったカウンターと、グラスが、コツンとぶつかった。虎白の前に差し出された焼酎も水面が揺れていた。運命が焼酎を揺らしているようだった。
虎白は、玄穂に乾杯を促そうと思ってグラスを持ち上げたが、玄穂にはその気がないようで、玄穂はずっとカウンターを見つめていた。屋久杉の木目を延々と数えているようであった。
虎白は諦めて、グラスに注がれた焼酎の匂いを嗅いだ。ハッとした。この焼酎の匂いが分からなければ杜氏失格である。
飲まなくても分かる。だが、虎白は飲んだ。グラスを一気にカラにした。そして、「次は今村黒鞠をお湯割りで」とバーテンダーに注文したが、「大変申し訳ありません。その銘柄は当店ではご用意が無く」とバーテンダーが言った。
静かにBarに流れる音楽が時を刻んでいった。
「マスター。同じの」と虎白は言った。そして、「玄穂がうちの酒、飲んでくれていたとはな」と言った。
虎白は、嬉しさと誇らしさを出来るだけ押さえながら言った。
「利き酒で飲めなかったから」と玄穂はカウンターに向かって言った。すでに玄穂のグラスは空になっていた。
「『今村黒鞠』、飲んだよ。旨かった」
「え? いつ?」と玄穂は驚き、カウンターから顔をあげて虎白の顔を覗き込んだ。相変わらず、高校の時から変わらないがっちりとした肩幅が変わらない虎白だと、玄穂は思った。
「利き酒の時にだよ。うちの営業部長の有村さんが川畑さんから貰ってきたのを飲んだんだ。本当に旨かった」
虎白は池田酒造の杜氏として『伊佐鶴』の利き酒の場から離れるわけにはいかなかった。だから、有村が気を利かせて、今村酒店の酒をグラスで貰ってきたのだ。
「そう……川畑さんが」と玄穂は言った。
「同じ伊佐市の酒なんだ。気になるだろう?」と虎白は言った。おそらく、玄穂が作る酒なら、ウィスキーであろうが、ワインであろうが、ビールであろうが飲んでみたいという衝動が虎白自身をかきたてるであろうが、それを虎白は言わない。
「川畑さんが気を利かせてくれたのね」と玄穂は言った。川畑さんが、『池田酒造の、貰ってきましょうか?』と言ってくれたのを玄穂は固辞していた。
玄穂は、グラスに残っていた酒を一気に飲み干した。
「マスター。お愛想お願いします」と玄穂は言った。色々と口惜しかった。この場にいたくなかった。
「玄穂……。今日って俺達が初めて二人で酒を飲んだって日だよな?」と新たにバーテンダーが注いだ『伊佐鶴』を見つめながら虎白は言った。
「憶えていたの?」と、ハンドバックから財布を取り出そうとしていた玄穂はその手を止めた。
「あぁ。きっと、約束はしてないけど、その日が今日なのだろうな」と虎白は言った。
今村玄穂と池田虎白には約束があった。いつか、成人したら焼酎を二人で朝まで飲み明かそうという約束だった。そして、それは二人が27歳になった今でも果たされていない約束であった。
「マスター。黒伊佐錦のお湯割りを」と、取り出した財布を再びハンドバックにしまい、玄穂はオーダーを出した。
「同じのを」と虎白もグラスを飲み干して言った。
「憶えていたのね」と玄穂は呟き、「なんとなくだけどな」と虎白は嘘を言った。
その約束は、二人が高校三年生の時に芋畑で交わした約束であった。
<済>
・
鹿児島の土壌といえば、桜島の火山灰が堆積したシラス台地は水はけが良く、稲作に向く土壌が少ないというイメージが定着している。それに鹿児島は九州の南に位置し、温暖な気候ということも、稲作には向かない土地であるというイメージに拍車をかけているかもしれない。だが、例外というものはどこにでも存在するものである。
伊佐盆地、という例外が存在する。
地質学的に説明すれば、伊佐盆地は、堆積した火山灰を、長い年月をかけて川内川の水流が削り流して、盆地となったのである。その盆地の広さは140平方キロメートルと、鹿児島県内で最も広い盆地であることを考えれば、まず、稲作に欠かすことのできない水が豊富に存在していると言える。もちろん、火山灰が流れた後に残った土壌が豊かな土壌のはずもなく、その土地を長い時間をかけて稲作に適した土壌に変えてきたという伊佐の人々の努力もあって、伊佐米は存在している。
そして、盆地であるということも多大に、伊佐で稲作が盛んなことと関係がある。盆地は、夏は暑く、冬は寒い気候である。伊佐市が『鹿児島の北海道』と呼ばれる由縁でもある。九州の南に位置しながら、伊佐盆地の冬は、京都盆地よりも寒い。2016年の1月には、最低気温マイナス15℃を記録するほどの寒さである。稲の収穫の時期において、昼夜で20℃の気温差が生まれることもあるほどである。
そして、その伊佐盆地は、昼夜の温暖差も激しい土地である。山梨県の甲府盆地で、寒暖差の激しい気候により、糖度の高いブドウや桃の収穫が可能なように、伊佐盆地でも、旨い米が収穫できるのである。
また、統計的に伊佐盆地を論ずるのであれば、伊佐市の水田面積率は、76.4%に達する。全国平均の54.4%を遙かにしのぎ、また、鹿児島県全体の平均が31.9%ということを考えれば、伊佐市で稲作が盛んであることがわかるだろう。
そして、米というのは、焼酎の製麹の主材料となるのである。
だが、伊佐市は米だけが植えられているという訳ではない。サツマイモも畑に植えられている。
伊佐市の5月。
麦わら帽子にモンペ姿の今村玄穂は、郡山八幡神社の境内で池田虎白を待っていた。神社の中は高い木がしげり、太陽の光を遮っている。境内には涼しい風が吹いていた。
今村玄穂と池田虎白のこの時期の待ち合わせ場所は、いつも郡山八幡神社である。二人が中学生のときから待ち合わせ場所は変更されていない。
今村玄穂が、神社の境内を待ち合わせ場所に指定したのは、日陰で待つことができるということもあるが、万が一、同級生に自分が農作業着を着ているのを見られるのを避けるためだ。
今村玄穂は今村商店の一人娘。池田虎白は、池田酒造の長男である。二人とも、伊佐市の蔵元の子息子女である。
そして、その蔵元の子供である以上、5月中旬のこの時期には避けては通れることのできない仕事があった。
それはサツマイモ畑の雑草抜きである。伊佐市では4月の下旬に畑にサツマイモが植え付けされる。そして、サツマイモは匍匐性であり、地面を覆うように茎と葉を伸ばす。大体地面をサツマイモの茎と葉が覆うのは、植え付けから1ヶ月後である。
1ヶ月経てば、サツマイモが雑草に負けることはないが、逆に言えば、植え付けしてから1ヶ月は、除草をする必要があるのである。
そして、焼酎を造る蔵元の子供として、強制的に芋畑の雑草取りを今村玄穂と池田虎白は、5月の土曜日と日曜日はさせられるのである。
「玄穂、お待たせ」と、野球着姿の池田虎白が約束の時間から20分経ってやってきた。虎白が野球着姿であるのは、野球部の練習が終わったあとに、そのままやって来たからである。グランドの土で汚れた野球着が畑仕事でさらに土まみれになったとしてもさほど影響はない。今年こそ、鹿児島実業を倒して夏の甲子園に行く。
「遅い」と言って、神社の石段で英単語帳を読んでいた玄穂は立ち上がった。
この時期に、二人で畑の雑草を抜くのは、二人にとって恒例行事である。虎白が遅れてくるのもいつものことであった。夕日が沈むまでに、今日作業する予定の畑の雑草抜きを終わらせればよいのだ。
「さて、はじめるか」と野球帽をかぶり直した。虎白は野球部らしく坊主であった。頭の形も悪くなく、また彼の素朴で誠実な性格に坊主頭がよく似合っていた。野球部のエースで、二枚目であり、人気のある男子の一人でもある。
二人は、芋畑の畝を挟むようして雑草を抜いていく。畝の端から中腰で移動しながら雑草を抜き、反対側に行き着くと、横の畝に移動し、また端から端まで雑草を抜いていく。
雑草を抜いていくペースは、玄穂と虎白は同じだった。畝を挟んで顔を上げればお互いの顔があった。
雑草を抜きながら、玄穂と虎白の間には、自然に会話が生まれる。会話はだいたい、取り留めのない話ばかりだ。玄穂が学校の勉強をしながら聞くラジオ番組の話になることがいつものことだった。
玄穂は、丁寧に雑草を根っこから抜いては、あぜ道へと雑草を置いていく虎白に話しかける。
「なんか昨日の夜にやっていたラジオはね、遠距離恋愛の相談だったよ。その人の彼氏って、フランス料理人なんだって。付き合って4年経っていて、そろそろ結婚を、と考えて待っていたらしいんだけど、彼氏が突然、フランスに料理の修行に3年間行くことになったんだって。料理の腕が認められて、フランスに修行に行けるのは凄いことで、応援したい気持ちもあるけど、フランスに一緒について行く訳にも行かない。どうしたら良いのでしょう」と玄穂が昨日のラジオのリスナーからの悩み相談の内容を要約して虎白に伝える。
虎白が自分なりの感想を言い、そして玄穂がラジオパーソナリティーの回答を言ったあと、玄穂自身の感想を述べるというのが、玄穂が勉強をしながらラジオを聞くという習慣ができた中学生からの二人の間でのパターンであった。
虎白は、腰を上げずに右足と左足を半歩分動かして、次の芋の苗に移動した。
「どうしましょうって、行くなとも言えないだろうし、結婚しても離ればなれってことだろ。それに、その彼女よりもフランス料理を選んだ、とも考えられなくもない。料理って、場所を選ばないからわざわざフランスに修行に行かなくてもいい気もするしなぁ。二人で将来のことをじっくり話し合うしかないんじゃないかな。場合によっては結婚するか、別れたりかな。それか、フランスから帰ってくるのを待つのかな」と虎白は感想を述べる。
遠距離恋愛、というものが虎白には分からなかった。ひどく他人事のように思えたのだ。自分は、池田酒造の跡取りで、やがては杜氏になり焼酎を造っていく。焼酎を造るには蔵が必要だし、それは簡単に移したりできるようなものではない。それに、麹となる良い米や、サツマイモ、良い地下水が必要である。
明日からフランスで焼酎を造ってください、なんて言われることなんてないだろう。同じように、焼酎造りをフランスで学んできてください、というようなことはあり得ない。一人前の杜氏になるために修行に出るとしても、南九州に限定されるであろう。修行に出るとして、黒瀬杜氏のところだろうか。
「パーソナリティーも、二人でじっくり話し合ってみるべきだ、と言っていたよ。彼氏の将来のことを思うのも、愛を感じて素敵なことなんだけど、彼の将来だけでなく、二人の将来を考えて話し合ったら、だって。良いこと言うよね」と玄穂は立ち上がって麦わら帽子を右手で取って、手拭いで額の汗を拭った。
「まぁ、俺達には関係無い世界なんだろうけどな。焼酎は何処でも造れるってわけじゃないしな」と虎白は言った。虎白も玄穂も、伊佐市の蔵元の子どもだ。伊佐市で生まれ、育ち、そして伊佐市で毎年焼酎を造り続けて一生を終えるのだ。
「虎白は、池田酒造を継ぐんだね」と玄穂は言った。
「え? 玄穂は継がないのか?」と虎白は驚き、畝から顔を上げて玄穂の顔を見つめた。確認をする必要のない当たり前のことだと虎白は思っていたのだ。
麦わら帽子のツバで、玄穂の顔は良く見えなかった。
「継ぐよ……もちろん」
「だ、だよな。俺も継ぐつもりだ。将来、どっちが伊佐で一番旨い焼酎を造れるか、俺達ライバルってことだな」と虎白は冗談交じりに言った。玄穂はどこもいかない。ずっと自分の近くにいる。少なくとも伊佐市にはずっといる。同業者であるし、酒造組合の寄り合いとかで頻繁に顔を合わせるだろう。
虎白が玄穂と出会ったのも、酒造組合の寄り合いだった。小学生のときが虎白の記憶にある最初だった。
おかっぱ頭の玄穂と引き合わされた。『大人はこれから酒盛りだ。子ども同士、そとで遊んでおいで。ただし、蔵には入るなよ』と言われ、たんぼ道を二人で散歩したものだ。夏だったと思う。田んぼに蛍が飛んでいた。ぐずる玄穂の手を引きながら田んぼの畦道を歩き、蛍が舞っているのを見た。虎白と玄穂は満天の星空に舞う地上の蛍を堪能した。虎白の初恋の記憶だ。
「だからね、私、東京農業大学を受験しようと思うの……」
「東京農業大学? 東京に行くってことか?」
「うん。東京。受験して受かったらだけど」
玄穂は成績が良かった。良かった、というようなレベルではない。虎白と玄穂の通っている高校は、商業高校で、大学進学というようなことを視野に入れて勉強している学生は少ない。
「そういえばこの前も、鹿児島市に行って、模試とか受けてくるって言ってたな」と虎白は思い出した。てっきり、玄穂は勉強が好きで、テストも好きなだけかと思っていた。虎白にとって高校の授業というのは、野球部の朝練の疲れを癒やす良き睡眠の場であることが多かった。
「うん。一応A判定」
虎白にはA判定というものが何か分からなかった。だが、玄穂はなんとなく東京に行きそうだと思った。いや、虎白にはそんな確信めいた暗い予感があった。
「そっか。東京行くのか」
「あっ、飛行雲だ。いつのまに……」
夕陽で紅く染まった飛行機雲が、空に一本あった。まるで空を割っているかのようだった。国分の飛行場から飛びだった飛行機であろう。
だが、飛行機の姿はどこにも見えなかった。飛行機の機体はすでに遠くの空へと飛び去っていったようだ。
「4年間か?」
「修士までは最低行くつもり……」
「何年ってことだ?」と虎白は尋ねた。
「6年間かな。短くて」
「そっか。東京は水が不味そうだな」と虎白は言った。虎白は自分で何を言っているのだ、と自分を責めた。
「うん。うちの井戸水ほど美味しくは無いと思う」
「それはそうだろうな」と虎白は答えた。
その後、二人の会話はなく、ひたすら雑草を抜いた。作業に没頭した。虎白は、自分が玄穂に伝えたいことがあった。
虎白は交際を申し込まれることが良くあった。だが全て、断っていた。おそらく、自分がその申込をすべて断っていた理由は、自分の目の前で黙々と雑草を抜いている玄穂だ。
虎白は、今を逃したら、玄穂に伝えたいことを伝えられない気がした。このまま玄穂は東京に行ってしまいそうだ。
「なぁ、玄穂。東京に行って、戻って来ないとかはないんだよな?」
「当たり前だよ。そしたら今村商店はどうするのよ」と玄穂は顔をあげて笑った。
虎白は、その玄穂の笑顔に魅了されながら、野球のことを考えた。
鹿児島実業の4番バッター相手に敬遠をしている自分の姿が浮かんが。監督の指示でもなく、キャッチャーの指示でも無い。ホームランを打たれそうな気がして、故意四球をしている。夏の大会の予知夢であろうか。ストレートを投げれる気がしなかった。投げたら、ボールが場外まで勢いよく飛ぶようなホームランになってしまいそうだった。
「虎白、そろそろ今日は終わろうか。残りは明日かな」と玄穂が言った。
「そうだな。明日だな」と虎白は自分に言い聞かせるように言った。
だが、その「明日」は、大雨で芋畑の雑草取りは中止となった。再開されたのは明後日だった。虎白にとっての「明日」は来ないまま、5月の雑草取りは終わった。時間は流れるのが早かった。
虎白の野球の夏の大会も終わった。玄穂は夏の模試で、ラ・サールや鶴丸の学生を抑えて、県内トップの成績を打ち出した。伊佐米が黄金色に染まる秋が来て、新しい年が来た。そして、玄穂は順当に東京農業大学に合格をした。
玄穂と虎白の高校時代は、虎白の「明日」が来ないままに終わった。