sideB
蒸し暑い教室に残っているのは私と彼の二人だけだった。私は課題として出された水彩画の仕上げをしていたけれど、本当はもっと別のものが描きたくてたまらなかった。
「ねぇ、その本面白い?」
「それなりに」
彼に話しかけたのは、彼の姿勢が綺麗だったからだ。いままでこっそりスケッチしたこともあった。だけどどうしても、私は彼の形をとらえることができなかった。
「どんな話?」
「えっと、――」
彼の言葉に、私は圧倒された。流れる水のように、よくできたピアノの演奏のように、彼に導かれとめどなくあふれてくるイメージ。今まで一枚の絵の中に彼を閉じ込めようと考えていたことが、どれだけ愚かだったのか思い知った。彼の声も、言葉も、描き出すことは不可能だ。出来ないとわかっていても、それでもまだ描きたい衝動が私を急き立てた。
「何色が好き?」
どうにかして彼の一端を掴み取りたくて、そんな質問をした。彼は少し迷って、レモンの色、と言った。あ、掴み損ねた。たぶん彼は特別好きな色なんてなかったのだろう。
「私も、好き。レモンイエロー」
「どうして?」
「絵の具の中で、これだけ果物の名前がついてるから。レモンの香りがしそう」
私がそう言うと、彼は私の絵の具箱からレモンイエローのチューブを取って匂いをかいだ。
「本当だ、レモンの匂いがする」
彼はそういって、笑った。
『始まり』をテーマにした小説を書いてほしいといわれたとき、あの時の彼の顔を思い出した。
絵筆を握らなくなってもう何年もたつというのに、私はまだ彼を描きたかったのだ。
原稿を読んだ編集さんには『可愛らしい恋の話ですね』と言われてしまった。私と彼の間にそんなものがあったとは微塵も思わないけれど、まあ、わざわざ説明するのも無粋だろう。私の持論としては、テキストを改変しない限りにおいて解釈は読者の自由だ。初恋はレモンの味、だなんて言うから、余計に恋愛の話に読めたのかもしれない。
少女時代を過ごした懐かしい街を歩く。
あの頃から変わったものも、変わらないものも、全ていつか私を通り抜けてしまうだろう。本当に失われないものは限られている。だからどうにかして、形だけでもとどめようとしていた。
私が高校生の時、商店街は高校への近道だった。今の彼らにとってもそうだろう。歩いて行くと、文房具屋のカートが目についた。
夏休み前だからだろうか、四つ切の画用紙とばら売りの水彩絵の具のチューブ、400字詰め原稿用紙、模造紙などが並んでいる。
プラスチックの棚に整然と並んだ水彩絵の具。赤、朱、ピンク、黄、白、黄緑、ビリジアン、スカイブルー、青、茶色、黒、それから、レモンイエロー。
本当はレモンの香りなんてしないことを承知で、レモンイエローのチューブを一つ買った。
家に帰って窓を開けると夕方の温い風が吹いてくる。まだまだ夏は終わりそうにない。
グラスに氷を入れて、冷蔵庫からとりだしたアイスティーを注ぐ。それを飲み乾すと、やっと人心地着いた。
レモンイエロー。昔使っていたのと同じメーカーのものだが、色がまったく同じかどうかまでは判らない。チューブの封を切ると、懐かしい油と顔料の匂いがした。
それから、記憶の引き出しからレモンの匂い。レモン汁ではなくて、丸のままの檸檬の、あの苦味のある香りだ。
ふと思いついたままに本棚を荒らして、最近は開くことの減った画集をテーブルに積み上げる。そしてその一番上にチューブを置いた。
今も私は、あの夏の香りを忘れないままでいる。