表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

sideB

 蒸し暑い教室に残っているのは私と彼の二人だけだった。私は課題として出された水彩画の仕上げをしていたけれど、本当はもっと別のものが描きたくてたまらなかった。

「ねぇ、その本面白い?」

「それなりに」

 彼に話しかけたのは、彼の姿勢が綺麗だったからだ。いままでこっそりスケッチしたこともあった。だけどどうしても、私は彼の形をとらえることができなかった。

「どんな話?」

「えっと、――」

 彼の言葉に、私は圧倒された。流れる水のように、よくできたピアノの演奏のように、彼に導かれとめどなくあふれてくるイメージ。今まで一枚の絵の中に彼を閉じ込めようと考えていたことが、どれだけ愚かだったのか思い知った。彼の声も、言葉も、描き出すことは不可能だ。出来ないとわかっていても、それでもまだ描きたい衝動が私を急き立てた。

「何色が好き?」

 どうにかして彼の一端を掴み取りたくて、そんな質問をした。彼は少し迷って、レモンの色、と言った。あ、掴み損ねた。たぶん彼は特別好きな色なんてなかったのだろう。

「私も、好き。レモンイエロー」

「どうして?」

「絵の具の中で、これだけ果物の名前がついてるから。レモンの香りがしそう」

 私がそう言うと、彼は私の絵の具箱からレモンイエローのチューブを取って匂いをかいだ。

「本当だ、レモンの匂いがする」

 彼はそういって、笑った。


『始まり』をテーマにした小説を書いてほしいといわれたとき、あの時の彼の顔を思い出した。

 絵筆を握らなくなってもう何年もたつというのに、私はまだ彼を描きたかったのだ。

 原稿を読んだ編集さんには『可愛らしい恋の話ですね』と言われてしまった。私と彼の間にそんなものがあったとは微塵も思わないけれど、まあ、わざわざ説明するのも無粋だろう。私の持論としては、テキストを改変しない限りにおいて解釈は読者の自由だ。初恋はレモンの味、だなんて言うから、余計に恋愛の話に読めたのかもしれない。


 少女時代を過ごした懐かしい街を歩く。

 あの頃から変わったものも、変わらないものも、全ていつか私を通り抜けてしまうだろう。本当に失われないものは限られている。だからどうにかして、形だけでもとどめようとしていた。

 私が高校生の時、商店街は高校への近道だった。今の彼らにとってもそうだろう。歩いて行くと、文房具屋のカートが目についた。

 夏休み前だからだろうか、四つ切の画用紙とばら売りの水彩絵の具のチューブ、400字詰め原稿用紙、模造紙などが並んでいる。

 プラスチックの棚に整然と並んだ水彩絵の具。赤、朱、ピンク、黄、白、黄緑、ビリジアン、スカイブルー、青、茶色、黒、それから、レモンイエロー。

 本当はレモンの香りなんてしないことを承知で、レモンイエローのチューブを一つ買った。


 家に帰って窓を開けると夕方の温い風が吹いてくる。まだまだ夏は終わりそうにない。

 グラスに氷を入れて、冷蔵庫からとりだしたアイスティーを注ぐ。それを飲み乾すと、やっと人心地着いた。


 レモンイエロー。昔使っていたのと同じメーカーのものだが、色がまったく同じかどうかまでは判らない。チューブの封を切ると、懐かしい油と顔料の匂いがした。

 それから、記憶の引き出しからレモンの匂い。レモン汁ではなくて、丸のままの檸檬の、あの苦味のある香りだ。


 ふと思いついたままに本棚を荒らして、最近は開くことの減った画集をテーブルに積み上げる。そしてその一番上にチューブを置いた。


 今も私は、あの夏の香りを忘れないままでいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ