sideA
暇潰しに本屋に寄った午後、平台に置かれていた中からその本を選んだのは、どこか懐かしいような気がしたからだった。
薄いレモンイエローの表紙。題名はそのまま、「レモンイエロー」。著者の名前に心当たりはなかったが、近影を見て知った人物だと気づく。そうすると、内容もなんとなく見当がついてしまった。レモンイエローについて、印象深い記憶が僕と彼女の間にはあった。なんとなくいけないことをしている気になりながら、その本を買って店を出た。
栞を2枚、メモ帳と鉛筆、紙の辞書と付箋。これは学生時代から変わらない僕の読書スタイルだ。それから、紅茶を一杯。
「レモンイエロー」。彼女の秘密をこっそり覗き見ているような気になりながら、ページをめくっていく。だけどすぐにそんなやましさは忘れた。あの時と同じだった。行間から想いが溢れ、零れ落ちていく。
鮮明に刻み付けられた記憶。懐かしい場所。セーラー服の少女たち、学ランを着崩した少年たち。いつも猫のいるブロック塀、放課後に寄るファミレスやコンビニ。またあの通学路を歩いているような気さえした。登場人物は誰も僕の知らない人たちで、知っている人のような気もした。
ただ、彼だけはよく知っていた。それは僕だからだ。
あるページで手を止める。
”「レモンの匂いがする」
そう言って、彼は笑った。
何の含みもない、ただ透明な笑みだった。彼はどんな色にも染まらない。”
確かに、そうだった。僕は彼女とこんな会話をしたことがあった。
夏休みの登校日、誰もいなくなった教室。クーラーは切られて、仕方なく窓を開け放して、生ぬるい風を浴びた。教室は自習用に開放されていたけれど、いつまでも残っているのは僕ら二人だけだった。
僕は図書館に返す本を読んでいて、彼女は課題の水彩を描いていた。時折ちゃぷちゃぷと筆バケツの中の水が揺れる音がした。
無言の時間が続いていた。僕が本を閉じた時、話しかけてきたのは彼女の方だった。
彼女がなんといって僕に話しかけたのか、もう覚えていなかった。暑いね、とか、本が好きなの、とか、そんなことだったのだろうか。それから、好きな色を尋ねられた。僕は少し迷って、レモンの色だと答えた。本当は特別好きなわけじゃなかった。ただ記憶の端に引っかかっていただけだ。レモンの爆弾。
彼女は自分もレモンイエローが好きだ、レモンの香りがしそうだから、と言った。彼女がそういったから、その色は特別になった。
その後、彼女の絵を見せて貰った。いいのか、と聞くと、どうせ夏休みが明けたらみんなに見られるから、と彼女は返した。
どんな絵だったかは今でも覚えているけど、それを語る必要はない。僕が惹きつけられたのは――。
まぶしさに目を閉じて、あの色を思い出す。
最近は油彩ばかりやっていた。久しぶりに水彩の箱を開けると、やはり最初に目につくのはレモンイエローだった。
その色を見つめながら、不思議な物だと思う。僕も彼女も、あの頃の望みとは全く違う道を歩いて来たのに、僕は今とても穏やかな気持ちでいる。
――あの日僕は書きたい、という衝動に突き動かされるまま彼女についてシャーペンを走らせた。どんな言葉で表現しても足りない気がした。それは今も完成しないままだけど、それでいいと今は思っている。言葉だけが記憶を留める方法ではないのだ。
あの時の彼女の絵の中に、僕の留めておきたい世界があった。そして今はこの場所にも。
僕は絵筆をとって描きかけの絵に向かう。思い出すのは、夏の風とレモンの香り。
願わくは君の元にも、この風が吹くように。