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雪中花  作者: 田鰻
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向こう側 - 3

不鮮明な視界の中を、オレの意識は不器用に泳ぎ回っていた。

姉の千里眼ならともかく、今のオレじゃせいぜい山の周囲を、うすボケた目で覗き見するのが関の山だ。極端に力が落ちたせいで、調節と操作がままならない。前は出来ていた事が出来なくなると、一気にまともに動けなくなるもんで、しかもこんな真似をするの自体が本当に久し振りだから、尚更悪戦苦闘する羽目になった。


村は、オレの記憶にある最後の眺めと変わらなかった。

どの家も貧しく、疲れていた。だってのに、屋根の下で暮らす数だけは多かった。人間は幾らでも殖えるが、そのぶん案外ころっと簡単に死ぬ。養い切る事をハナっから考えなきゃ、数がいた方が仕事をやらせるには都合がいい。概ね、そんなところだろう。


似たような格好と汚れ具合のガキどもに混じって、あのガキはいた。

日に焼けた手足は、記憶にあるのより伸びていた。

オレは、最初に供えられた粟の団子を思い出した。あんな飯しか食えなくても、時間があれば成長はするんだな。

痩せているからそう見えるんだろうが、ひょろりとした胴体についた手足は不恰好に長い。枯れかけの倒木、それがオレの受けた印象だった。

久々に見た姿はみすぼらしさと惨めさの塊で、足の間と爪には、泥と垢がこびりついて層になって固まっていた。

陽の光が、土を赤々と照らしている。

畑の上を、前屈みになった人間どもが、一列に並んで歩いていた。

先頭の人間が掘った穴に、続く人間が種を一粒落とす。ガキは急いでそれに土をかけ、柄杓で掬った水を注いだ。申し訳程度の水は、黒い染みを作ったかと思うや、たちまち乾き切った土に飲み込まれてしまう。

ごくりと、ガキの喉が鳴ったのが判った。

そういえば、今は暑い時期だ。ましてや外で働き詰めなら、喉はカラカラだろう。

けれどもガキは柄杓の水を口に運ぼうとはせずに、黙って列の後に続いて、再び水を撒き始めた。

夕暮れ近くになるまで、最後を歩くガキに休みは与えられないままだった。


夜は夜で仕事がある。だが飯の間くらいは、休む事ができる。

くたくただろう手足を労るのも忘れて、ガキは与えられた一杯の粟飯を食っていた。

欠けた器に盛られた粟には、細かく切った藁が混ざっている。

カサを増す為か、他に食うものがないのか。いずれにせよ、あるだけでもマシといった感じで、親兄弟が食っているのも似たようなものだった。

ただ、ガキ一人が皆から外れた、隅の場所に座らされていた。

飯の量も明らかに少ない。一見、多く盛られているように見えたのは、単に藁の量が多かったからだった。

ガキに比べてまだまともな扱いを受けているのは、全員が男だった。

確かに、畑仕事の労働力として考えたら女より優秀だろう。跡継ぎになりそうな奴と、万一の場合の替えを優先して育てるのは、どこでも変わりゃしない。


短い休憩とその後の仕事が終わり、長かった一日も終わる。

麻を編んだ敷物の上で横になる家族から離れ、ガキは身体を丸めて、固い土の床に寝ていた。

ああ、だからこいつは、あの時あんなにすんなりと眠ったのか。

こいつにとっては、家も山も変わらなかったのだ。


その辺りで、オレは観察を打ち切った。


だからどうした。


慣れない力を使った反動か、視界をこちら側に戻す一瞬、軽く頭の奥を小突かれたような衝撃が走る。右に左に揺れる意識を立て直しながら、オレは再度冷めた心で思った。だからどうした、と。

地獄とさして変わらず、しかもそれが当たり前という暮らしの中で、せめてもの救いを、山で過ごした一時に求めたというのか。甘い、甘いとむさぼっていたアケビの実の色を、今になってオレは思い出す。


バカバカしい、知ってどうなる。


貧しい暮らしの中では、生き残る為に重視する順序ってのがある。

そいつはどこにだってある事で、幾度も繰り返されてきた事で、今後も繰り返されていく人の世の習いだ。自分が見ていない所で散々起こっている現実の、そのうちひとつを見たからといって、オレが思うべき事も考えるべき事もやるべき事もない。そもそも、見ようとした事がまず間違ってる。あと、見せようとしつこく接してきたあいつもな。


そんなもんは、最初っから分かり切った事だった。


疲れた。

まんまと姉の口車に乗せられてしまった自分が惨めだった。

くだらない時間を過ごしたという後悔で、今から場所を移す気にもなれず、オレはその場にとぐろを巻いた。丁度良くそこにあった小石に、顎を乗せた。空気は暑いのに、石は妙にひんやりとしている。


だからどうした。


だからどうした、糞が。






また、幾つもの季節が過ぎた。

相変わらずガキは山に来ているらしい。という事は、どうやらまだ死んでもいないようだった。

オレはオレで変わらず、そんなガキの気配をごくたまに意識の端っこに感じながら、半分朽ちたみたいに、落ち葉や樹の根元に埋もれていた。


そんな中、ちょっとばかり変わった事があった。

少し前から、あのガキが参拝の真似事のあとに、たびたび山の中をうろつくようになっていた。初めはまたあのロクデナシの仕業かと思ったが、どうもそういう訳でもなさそうだ。

かといって、奴がちょっかいを掛けている他に理由も思い付かなかった。

あの境遇じゃあ、ガキに無駄に使える時間なんかない筈で、起きてる時間の大半を労働に費やさなきゃならない。たまの休みや、人目を盗んで祠まで来る程度の時間は捻り出せても、それ以上の無駄使いは難しいだろう。子供は重要な労働力であり、大人の所有物に過ぎん。そんな自分の立場くらい、あのガキでも判っている筈だった。

そして、山を人間にズカズカ歩き回られるのも問題といえば問題だ。

山を荒らされると殺気立つ連中ってのが少なからずいて、あんまりこういうのが続くと一悶着起きる。が、これはオレにとっては限りなくどうでもいい事だった。山を乱す者を裁くとしたら、そいつは姉の役目だからな。


そう思って、オレは知らぬ存ぜぬを決め込んでいた。

鬱陶しさに感情が強めに動く事もあったが、それ以上の面倒臭さが塗り潰してくれた。

たまに来やがる姉の煩わしさを除いて、オレはこの状況にも慣れつつあった。

慣れてさえしまえば、どうって事もない。少々変化が起こる前と同じ、寝て起きて、寝る、そんな毎日に戻るだけだ。


そんな毎日に、戻るだけ。


「……おい、そこのガキ」


我ながら苦々しい声だったね。

こっちの姿を見せたくもないし、あっちの姿を見たくもなかったので、離れた梢に身を隠したまま、枝と葉をうまいこと伝わせて、声だけをガキの所に送った。この程度の芸当は、オレでもできる。逆に言えば、この程度の真似しかできねえって事なんだが。

樹の上では、まだ鳥どもが騒いでいた。

うるせえ。今日だってお前らが喚かなきゃ、オレはこんな所にいなかったんだ。


「へびさん!」


ガキの声もまた、同じように近くの葉と枝を伝ってオレの位置まで届いてくる。

幾らか変わった――か。

件の祠の前で立ち上がって、きょろきょろ声の出所を探しているらしいガキに、オレはますます気配を潜めた。オレの声、憶えてやがったこいつ。というかだな、ここまで機嫌の悪さが出まくってる声を聞かされて、なんだってこう全面的に喜べるのかが理解できねえ。バカなのか。


「叫ぶんじゃねえ、うるさい。

あとな、いい加減にお参りごっこに飽きろよお前も。くだらん勘違いでオレを拝むのはやめろ」

「へびさんは、神さまなんでしょ?」

「違う。オレは神なんかじゃねえ、ただの白蛇だ」

「でも、吉じいが、それはお山の神さまだって……」

「違う」


やや強めに言ってやると、ガキは黙った。

オレは声に方向性を持たせて、さっきまでガキが屈み込んでいた辺りを示す。


「特にそれだ、それをやめろ」

「これ、おそなえ」

「いらん。蛇に粟が食えるか少しは考えろ」


供え物として置かれているのは、粟の団子だった。ちゃんとした、粟だけの団子だった。

だがオレは、こいつが日頃食っているものを既に見ていた、知っている。

あそこから、粟だけを選んで握ってきたのだ、神様へのお供えの為に。 ――だったらこいつは、何を食った?

もういい、もう沢山だ、こういうのは。


「持って帰れ」

「でも、神さまの……」

「いらねえって言ってるだろ、あと神様じゃねえ。ちったあ話を聞けよ。

とにかくな、ここに置いといたってそいつは干乾びるか腐るだけなんだ。ただの無駄だからお前が食え」

「あう……うー……。

んー、んー、……じゃあ、はんぶんこ!」

「はあ!?」


半分こって、だからなんでそういう発想になるんだよ。持って帰れというオレの話と、供え物をしたいという願望と、ガキなりに両立を考えた結果なんだろうが。


「よくね、兄ちゃとはんぶんこしてもらうんだ。

はんぶんずつな、って。そうすると、うんまくなった感じがするの。だから、へびさんとも」


たどたどしく言って、ガキは最後に少し笑った。

バカか。

お前がしてもらってるのは、半分こなんて微笑ましいもんじゃないんだよ。

お前には、半分しか与えられてないだけなんだ。半分こと半分は違うんだよ。

状況が容易に推測できた。半分ことやらをされるのは、特に食わせるものが乏しい時だろう。こいつの取り分を、他の兄弟に上乗せする。働き手として、血筋として、より重要な子供に。全て取り上げないのは、まだ幾許かの親心なのか。馬鹿が、そんな残りカスの慈悲に何の意味があるってんだ。


オレは黙る。ガキも何も言わなかった。

言われた通りに、粟の団子を食ってるんだろう。狂った半分この知識を疑いもせずに。

団子一個なんて、どんなに小さな口でも二口か三口で終わる。あんなもんで腹が膨れたとも思えないのに、次に聞こえた声には少しだけ張りが出ていた。


「さよなら、へびさん。

ええと、これからもどうか、お山を守ってください」

「オレには守れない」


何も、守れやしない。


「いいか、もう一度言ってやる。お前のしている事は、全部無駄なんだよ」

「でも、お参りしたら出てきてくれた」

「今の今まで出てこなかっただろうが。お前、今まで何度この山に来た?」

「でも、いま出てきてくれた。……ありがとう、へびさん」


万の徒労を恨まずに、一の報いを感謝するか。

オレは蛇だから、人間の事はわからない。だが言える。こういう奴は、決して本人が幸福にはなれない。

遠ざかっていくガキの気配に、オレは一言も声を掛けなかった。


頭上に、ばさりと大きな羽音が響く。

緩慢に首を持ち上げれば、横に張り出した枝に尾を絡めて、姉がこちらを見下ろしていた。ちろちろと盛んに出し入れしている真紅の舌が、炎のように揺れて見える。


「訳も無く山で遊んでいるのではない、あれがあの娘の役目なのよ」


何の用だよと、そんな短い言葉を発するのも億劫だったが、オレが何か言う前に姉の方から喋り始めた。


「飢饉よ。日が短く、水が減り、土は痩せ、作物の実りが見込めぬらしい。

もともと痩せた土地じゃ、余裕は無い。人々は草を掘り、その根を煮、木の皮を剥いで食べ、鼠を獲っておる。あの娘もまた、食えるものを探せと命じられておるのじゃろうて」


あれ以来、一度も目を向けていなかった里の状況を聞かされて、やっと納得がいった。知らん間に、下ではそんな事になってたのか。

だが、山ったってそうそう簡単に食い物が手に入る訳じゃない。食える物と食えない物を見分けるにも、そいつらを採るにも獲るにも、相応の知識と技がいる。

それに、姉に言われて初めて考えてみれば、そういえば山の実りも些か悪いようだった。だったら尚更、本来の住民どもが先を争い奪っていった飯を、年端もいかない人間のガキが得るのは難しいだろう。

なんでそんな難しい役目を子供なんかに、といえば、これまた考えるまでもなかった。ここが、天狗がいると恐れられている山だからだ。つまりは、消えても支障のない奴が送り込まれた。


「時が過ぎ行く程、飢えは更に厳しくなろうな。

その時真っ先に除かれるのは、生かす必要のない、弱い、役に立たぬ者からじゃ」


そうかよ、とオレは呟いた。

弱い奴から死んでいく。強い奴だけが生き延びて、血を繋ぐ。人に限った話じゃない、この山の決まりでもある。それと何も変わりゃしないじゃないかと言うと、そうじゃな、と姉は素直に言った。


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