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雪中花  作者: 田鰻
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雪中花 - 8

風が吹いて、大きく揺れた真上の葉が、オレの鱗を撫でていった。

浅い刺激に、体が勝手に身動ぎする。沈みかけていた意識が逆戻りして、オレは深く息を吸い込んだ。のっぺりした白さの胴体が、ぶわりと太く膨らんで、息を吐くのと同時にまた萎む。ついでに口を半開きにして欠伸を漏らせば、一昨日に降った雨の名残を、まだ舌に感じる事ができた。

半分寝ている間に少しずつ解けてしまい、下にずり落ちそうになっていた体を丸め直す。

幹から生える箇所が、育つ途中で傷でも負った影響なのか、ちょうど台座のように太く平たくなっているここは、この木の中でも、特にオレの長い体を横たえやすくて気に入っていた。


緑の匂いに包まれて、初夏の陽気に夢見心地でいたオレは、とある気配を感じて頭を上げた。間もなくその気配の通りに、枝や葉を打つ力強い羽音が辺りに響くのを聞く。相変わらず遠慮がない。あれじゃあ小さい獣は驚いて逃げてしまう。それは山の主としてどうなんだ。

姉はこの木じゃなく、やや離れた、ひとつ手前の木に留まったようだ。

姉は決して、オレのいるこの木に留まろうとはしない。

今しがたの騒々しい到着を聞けば分かるように、あいつがオレに気を遣ってなんている筈がないから、ただ単に、これが話をしやすい位置取りという事なんだろう。

あとは、オレを見下ろすのが好きだからか。


オレは幹をするする降りて、根本に丸まった。

ひょいと鼻先を向けた場所に、姉の白い姿がある。オレもつくづく下から見るのが好きなもんだが、こうして見上げる姿勢が自然に思えるんだから仕方がない。

見下ろす姉と見上げるオレ、分相応ってやつだな。

結局オレは死ぬまで地を這い続けて、この目線で生きる事しかできやしない。

それでいい。


「息災なようじゃ」

「程々にな。……ん、これ、最後に会ってからどのくらいになる?」

「ざっと三年ぶりの顔見せといったところかの。

しかしお主もよくやる。長きに渡ってひとところに留まるなど、退屈で私には無理じゃな」

「ああ、都落ちもいいところさ。

しかしそう聞くと長かったんだな。これまでで最長じゃないか」

「なにせ我が弟がすっかりと落ち着いてしもうて、頻繁に見ても面白うなくなったからの」


声を荒げたりもせず、淡々と、穏やかにオレと姉は会話をかわす。

今に始まった事じゃなかった。もう結構な長い間、オレと姉とはこんな調子だ。


「いつまで、そこにおるつもりじゃ?」

「さあ、他に気が向くまでかな」

「そう言い続けて、何十年が経ったと思うておる。百に届こうという頃じゃ。

三年が長いどころの話ではないな。お主が幾ら留まろうとて、あの娘はそこにはおらぬぞ」

「分かってるよ」


木。

あいつの遺した木。

あいつの腕より細かった木は、いまや大樹と呼べるまでに成長を遂げた。

分かっているというオレの返しは、姉には負け惜しみのように聞こえたのかもしれない。それでは何故、と、更に尋ねてくる。


「これが丁度いいと、気付いたからな」

「ほう?」

「オレは、ろくな力も持たない白蛇だ。

白蛇天狗とは違って、山なんぞとてもじゃないが手に余る。

そんな弱っちい妖のオレには、せいぜい木の一本が相応しいって事さ」


オレは、自らの身を預ける幹を、根本から見上げた。

そう、分相応。たかが少しばかり立派なだけの木の一本。落ちぶれた白蛇には、お似合いの縄張りだ。

暫くしてから返ってきた姉の声は、あまり機嫌が良くなさそうに聞こえた。ま、無理もない。


「小生意気な事よ、まったく面白みのない事よ」

「つまらん弟で悪かったな」

「いっそその木、この場で根ごと切り払ってくれようか」

「……できればそいつは止めて欲しいんだが、本気で切りに来られたら、オレに防ぐ力はねぇな。

ただ、あんたはそういう真似はしないだろ?」

「何故そう思うかや?」

「だってあんた、直に相手を痛めつけるよりも、なるべく遠巻きにいたぶるのが好きな奴だから」


言い切ると、くく、と姉が翼を震わせて笑った。

今の言葉の何がどう作用したのか知らねえが、機嫌は戻ったらしい。

それにしても、相変わらず癪に障る笑い方をしてくる奴だ。

オレは苦笑する。


「一度ぬくもりを知った者が、それを忘れるのは難しい」


ふと笑うのを止めて、姉が言う。


「忘れようとは思っちゃいないよ」

「ならば、如何にする? 未来永劫そうして木に巻き付いて暮らす気かえ?」

「わからねえよ、先の事なんて。ただ……」

「ただ?」

「あの日に、あの声を追った事を、オレは後悔していない」


姉に捨てられる子供など珍しくもなかった、うんざりするばかりだった迷い子達の叫びの中で、どうしてオレは、あの日あの泣き声を追ったのか。

理由はどれも推測にしかならない。でも意味はあった、確かに。

オレが今こうしてここにいる時点で。オレがそれを、忘れずにいる時点で。

”今”を作っている時点で、間違いなくあの出会いは、意味を持っていたんだ。


「お主は、いずれまた同じ事を繰り返しかねんのう。

その時に今度こそ安寧を得るのか、今度こそ立ち直れない傷を負うのか……」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だからな、先の事なんて誰にも判らねえんだよ。

あんただって、死ぬと判っていて、あいつを神子として召し上げた訳じゃないんだろ」


かつての自分なら判っていても絶対に認めようとしなかったであろう事を、オレはこうして自ら口にできた。


「あんたは、別にあいつが憎かった訳じゃなかった」

「そうとも」

「殺そうなんて思っちゃいなかった」

「然り」

「単にその場の思い付きしか頭になかったのと、面白いのが好きだっただけだ。あんたにとってのな」

「それでは、まるで私が考えなしに遊び呆けて生きていると言われておるようじゃな」

「実際その通りだろうが」


あいつは、山の宿す力に負けてしまった。

けれど、もしも何かが僅か、違っていれば、あいつは今でも忙しく、山の中を駆け回っていたかもしれない。相変わらず振り回されっぱなしのオレと、若干の退屈さを抱えた姉に見守られて。

ああなった者の成長が人と同じかは分からないが、それでも少しは伸びたに違いない背丈と足で。これだけは多分変わらない、快活な声でオレを呼びながら。


「だから、オレはもうあんたを恨んじゃいないよ。

違う後悔は山程あるけどな……もっと早くに気付けていれば、救えなかったとしても、沢山の時間を一緒に過ごしてやれた筈だ。それだけは死ぬまで忘れられないし、その事で自分を責めるのも死ぬまで止められないだろう」

「それは、それは――」

「最後はああなっちまったが、あんたがしつこく勧めてこなけりゃ、あんたが手を貸してくれなきゃ、オレが、あいつと一緒に過ごした時間は無かった。あの短すぎる時間が、それでも無かった方が良かったとは何十回何百回考えても思えない。

そういう意味じゃ、オレはあんたに感謝もしている」


ありがとうよ、と、これだけは口に出す気には死んでもなれないし、その義理も一切無いと思うが。


「第一、あいつはあんたの事が好きだった。

……たぶん、オレの事もな。

好きな者同士がいつまでいがみ合ってりゃ、あいつの性格からして悲しむ」

「そういう、想いが鬱陶しい所は治らんのう」

「いいさ、治らなくて」


間違っているのは姉ではなくオレだし、どうかしているのもオレだ。

それは、言い訳をせずに認めるしかない。


「……いいのさ、治らなくて。

妖として狂っていようと、オレはこういう生き方しかできないんだろう」


だが、それを認めるのは敗北ではないと思う。


「やれやれ……すっかり悟りきってしまいよって。まっこと、からかい甲斐のない事よ。当面はそのままであろうな、ますます会いに来る面白みが減るのう」

「充分だろ、オレ達みたいなのには」

「違いない」


そっけなく告げたオレに、短く姉が応じる。

互いに顔を見合わせて、少し笑った。


「また、いずれ」


そう別れの言葉を残し、姉は風と共に飛び去った。

また、いずれ。あっという間に視界から消えた姉に、オレは同じ言葉を返す。

届いていただろうか。きっと届いていただろう。

幹を登って枝に戻ろうとはせずに、オレは暫くその場でじっと丸くなっていた。

次に姉と会うのはいつになるか。明日か、数年後か、あるいは二度と、その機会は訪れないかもしれない。先の事なんて、判らない事だらけだから。オレだって、今日の夕暮れにいきなり死んでたって不思議はないんだ。

そう考えれば、根本へと差し込む陽溜まりの中で、こうして気分良くうつらうつらしているのは、割合と、有意義な過ごし方だという気がしてきた。

いつしかオレは、再び眠り始めた。昔と変わらず、怠惰に長い日々を過ごす。

今日という日に至るまでに得てきたもの全てを、手放さないよう、大切に抱えて。


「……お前は楽しかったか、十和」


答えは、思い出そうとしてもこればかりしか浮かんでこない、あいつの笑顔の中にある。


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