雪中花 - 7
なるべく障害物の少ない、なだらかな地形を選んで進む。
草はあらかた枯れてしまった後とあって、邪魔は少ない。それでも時折進路を塞ぐ物は、オレが払った。胴を途中で折り曲げて台のようにし、そこにガキ一人を乗せても、オレの体にはまだそんな事をする余裕がある。
こうしていると、初めて会った日の事を思い出す。あの時とは、何もかもが違ってしまったが。
「寒いか」
「寒いね、でも大丈夫だよ」
「そうか。もうちょっとで着くからな」
お互い欠片も信じていないやり取りを、信じているように交わした。
自分からはまるで喋ろうとしない、背中のガキに声をかけながら、山を降りていく。
お前の生まれた地へ行こう、一緒に。
たとえ死ぬにしたって、こんな場所で死なせてたまるか。
オレもこいつも、おとなしくあいつのオモチャにされているばかりじゃない。
人ではなくなった存在が、二度と人の世界に戻れないとしても、その場所へ帰る事だったらできる。
だから、帰してやるんだ。
オレは、こいつは、お前を楽しませる為の物じゃない!
心の中で呟き続けていた声が、止まった。オレの動きも止まる。
確かに山を降りているのに、今、オレの前に広がる景色は、つい先程通り過ぎたのと同じものだった。
「ふざけるな!!」
オレは叫んだ。
ただ叫び続ける。姿さえ見えない相手に、あらん限りの呪詛を込めて。
助けてくれなかったくせに、何もしてくれなかったくせに、最後の尊厳までオレ達から奪おうとするのか。
そうだ。
こうして繰り返される景色も、オレ達があの日に見たものだった。
はらり。
目の前を、白い粒が落ちていく。
はらり、はらり。
綿毛のように頼りないそれが、見る間に数を増していく。
ひとつが、オレの上に落ちた。冷たい。
雪だ。
山に、雪が降り始めていた。
これはあいつの仕業じゃない。空が勝手にやっている事だ。よりによって、こんな時に。何も今でなくたっていいじゃないか。どうして今なんだよ。
何もかもが、オレ達の邪魔をする。
何もかもが、こいつを殺そうとする。
それは、一時の衝動に任せて瀕死のこいつを連れ出した、オレもだ。
ざざざざ、と、オレの内側で多数の虫が這い回るような音が聴こえた。
「……へびさん、怒ったらだめ……!」
胴に触れた手に力が込められ、オレははっとした。
虫達のさざめき声も、途端に波が引くように消えていく。
魔性のものの怒りは、時に取り返しがつかない。オレのような中庸が荒魂に傾けば、戻る術はないだろう。
もっとも、そうなっていた方が楽だったかもしれないが。
「へびさん、ここで降ろして」
「お前……。
何を言うんだよ、オレはまだ諦めてねぇぞ。絶対に……お前を、こんな山から出して」
また手が触れて、オレは黙る。
「こんな山なんて、言わないで。……ここ、好きだよ。
……お願い、降ろして。やりたいこと、あるの」
声は弱々しいのに、ひどく力強かった。
それ以上拒む気にもなれず、オレはガキの下に敷いていた体を解いていく。
ガキが地面に横たわった。両手を付いて体を起こし、膝を曲げ、ぎこちなく足を組んで座る。
こいつがこうやって普通に座っている姿さえ、随分久しぶりに見た気がする。
……いや、普通じゃない。これは。
この座り方は。
やっと思い出したオレが止める間もなく、ガキが土に両手をかざした。どこにそんな力が残っていたのか。生命の死に絶えた冬山に、激しい精気が渦を巻き始める。
「おい――おい、やめろ!!」
この状態でそんな真似をしたら、どうなるかは明白だった。
飛びかかってでも中断させようとして、ガキの目に制止させられる。
声と同じく、強い眼差しだった。
輝くような山の精気が、小さな体に満ちていく。振り絞られる最後の力が全身を巡る。それは神子として操る力だけじゃなく、自身に残された命すべてを注ぎ込んでいるかのようだった。
やがて、固く凍った土がぼこりと持ち上がる。
冬景色にはまるで似つかわしくない、青々とした新芽だった。
オレの見ている前で、小指ほどの太さの幹がぐんぐん育っていく。いつの間にこんなに上達していたんだろう。オレは、それさえも良く知らないままだった。
「もういい、やめるんだ!!」
無理に止めさせる事もできないまま、叫ぶ声が掠れていく。
「やめてくれ――」
最後は泣き声に近くなっていた。
光が消えるように、掲げられた手から、力の放出が止む。
「……ごめんね……もう……終わった、から……」
声が途切れる。
ふらりと体が傾ぐ。咄嗟に下に胴体を滑り込ませたところで、倒れた。
笑えるくらいに軽くなった重みをオレは受け止め、芽吹いたばかりの若木を見る。激しさを増していくこの雪の中を、場違いに瑞々しい葉を茂らせて、小さな木は確かにそこに立っていた。
「どうしてお前はこう……お前は! こう! バカなんだよ!」
「へへへ」
倒れたまま、手がオレの顔に伸びてくる。
袖から少し覗いた腕の細さは、ちょうどそこの木とそっくり同じくらいだった。
撫でられて、オレは反射的にしゅっと舌を伸ばす。
こいつの熱と匂いを感じた。どちらもほとんど物言わぬ氷のようだが、それでも、まだそこにいる証だ。
「すごいでしょ」
「ああ、すごいよ。お前は本当に凄い。オレじゃあ、もう敵わないな」
「……形のあるものをね、残したかったの」
「馬鹿だな……形なんか無くたって、オレは……」
無茶をしたせいで、残り少なかった命が急速に失われようとしている。
こんな真似をしなければ、まだあともう少しは持ったろうに。
だが、こいつの表情に後悔はなかった。逆に、まっすぐにオレを見る様は、かつてない程に満ち足りて見える。
今のオレには、どうしてもそれが理解できなかった。
どうしていいのか分からず、触れたままの手に、そっと身を寄せた。冷たい。小さい。蛇であるオレの体よりも。
「……いなくなっても、いっしょにいたってことまで消える訳じゃないんだよ。
でもね、へびさんは寂しがりさんだから」
「オレなんかの心配してる場合じゃないだろ、お前は。ガキなんてのは、てめぇの事だけ考えてりゃいいんだ」
「考えさせてくれる?」
「ああ、これからは幾らでも好きに考えろ。
その度に振り回されてとんでもねぇ迷惑すんのもどうせオレなんだろうが、言った以上甘んじて受けてやるさ」
髪の上に薄く積もっていく雪を、そっと払った。
「名前、とうとう聞きだせないままだったね。
負けちゃった……かあ……」
雪は、払っても払ってもしつこく積もってくる。
「そうだ、お前の負けだ。誰が教えてやるかクソガキ。
死ぬまで教えてやらねえよ、だからお前に教える日は来ない。
名前も覚えない。お前なんざガキで充分だ。それが悔しいってのなら、覚えさせてみろよ」
「あはは。そうだね、へびさんはへびさん、だね」
オレは笑った。
笑えていたかは知らない。
ガキは笑っていた。
「本当……に、いっつも強がりばっかり…………なんだ……から…………」
その言葉を最後に、ガキは動かなくなった。
オレは泣きも喚きもせずに、何もせずに、ただそこに居続けた。
横になったままのガキを、いつまでもずっと見ていた。
雪が降る。
動かないオレの上に、動けないガキの上に、芽生えたばかりの若木の上に、雪は深々と降り積もっていく。
山肌を覆い尽くす一面の白雪に、血のような真紅の装束が、ぽつんと浮かんでいる。まるでそこにだけ、秋に見た、炎の如きあの真っ赤な花が咲いたかのように。
降り止まぬ雪の中、それを見るオレもまた、同じ色をしていた。




