雪中花 - 6
こいつの生まれた意味は何だったのか。
こいつがここに来た意味は何だったのか。
散々に考えて考えて考え尽くして、考えるだけ時間を失うだけだと痛感した末に、オレはもう、そういった事を考えないようにしていた。
そこまでが数日。いや、もっと。
相変わらず、オレはガキの住処に居着いている。薬になりそうな物を求めて山を彷徨う事も、しなくなっていた。それよりガキが傍にいて欲しがったからだ。
柔らかくこしらえた寝床で、ガキはほとんど一日目を閉じて過ごす。
洞穴の中は暑い程だった。しかし触れたガキの指先は、恐ろしく冷えている。
たまに次の息を吸うまでに間があると、そのまま止まってしまったんじゃないかと焦る。
長くないのは明らかだった。
既に、先が長くないという段階を通り越して、死への足踏みが聞こえている。
幾許もない命が、目の前で容赦なく磨り減っていく。
こいつがただの人間であれば、とうの昔に死んでいた程の衰弱をして尚、山が繋ぎ止めている為に死ねない。まだ生きているという喜ぶべき事が、途端にひどく残酷な仕打ちと化したように思えた。
数日中。
そう踏む。
急に、オレは大声で笑い出したくなった。
瀕死の子供一人を前に、死ぬなと願いながら、早く死んでいた方が良かったのかと思い、そしてあと数日で死ぬと冷静に判断を下している自分がいる。一切合切がばらばらで、まるでオレという存在が三ついるようだった。
所詮、何を言おうとオレも化け物だという事か。
くく、と、おかしくて喉が鳴る。
少し前、オレは、こいつに永遠の恐ろしさについて説いた。何もしなくていいという事が、どんなに怖いか。どんなに辛いか。いつか身を以て理解する日が来るぞ、と。まったくお笑い種だった。訳知り顔をしたオレの前で、こいつは少しずつ死んでいっていた。
殺してやりたい、あの時のオレを。
死んでほしくない、お前に。
何もする事がなくなったって、生きていて欲しい。理由が必要なら、オレが考えて作ってやるから。
閉じていたガキの瞼が、薄く持ち上がった。
そのまま顔がゆっくり横へと傾き、オレを見る。
聞き咎められたか。何を笑っているんだと、怒るんなら怒れ。まだそれだけの気力が残っているのを見せてもらえたら、オレだって猶予は数日間なんて考えなくて済む。
ごめんな。
もう、本当に手詰まりなんだ。
「……へびさん」
「どうした。なんか欲しい物でもあるか」
「……あのね……おはなし……」
「話か。もうお前に話せる事は全部話しちまったよ」
「そうじゃなくて……ほら、前に、へびさんがしてくれたお話。
へびさんの、昔のこと。
へびさんと、ゆいねえさまが生まれた時、他の卵はかえらなかったってお話、してくれたでしょ」
「ああ……したな」
虫の息のこいつから持ち出されるには愉快じゃない話だったが、ここで中断させる気にもなれなかった。今のこいつが伝えようとしている事なら、オレの気分がどうであれ吐き出させるべきだった。
そうは思いながら、どうして今その話なんだと若干の腹立たしさがなくもない。つくづくオレは救えない。こんな時にまで、どこかで自分の事を考えるのを捨てられずにいる。
「あれね、おんなじことがあったの」
「……お前にもか?
へえ、おかしな奴だとは初めっから思っちゃいたが、卵から出てきたってのは初耳だな。暫くは盛り上がれそうな話題じゃねえか」
「ふふ……そうだね」
ガキは律儀にオレの話に乗ってきた。
一時の、虚しい笑いだった。
「生まれる、前に、死んじゃった子もいたし、生まれてから死んじゃった子もいたみたい、なんだ。
会ったことない、にいちゃがいたって、話してたの、聞いた。
うちだけじゃないよ。どのうちでも、珍しくなんかない話だったんだって」
「そうだな。あの暮らしぶりじゃあ、そうもなるだろうさ」
だから良く減るぶん、お前達は勝手に良く殖える。
前にそんな事を考えたか。今となっては何ひとつ示すもののない言葉だ。
いくら数が増えようと、一度減った奴はもうそこにはいない。
代わりの利かないものを、代わりとして比べようとしていた。
「いっぺんだけ、見たよ。
とっても小さくって、ね。手足ちぢめて、丸くなってて、かわいそうだった。でも、ようく眠ってるみたいにも見えてね。そう言ったら、吉じいが、そうだ、寝てるのさ、って……」
「……なあ、何が言いたいんだよ」
「だから、ね、こういうのは、そんなに珍しいことじゃないんだって、知ってるよ。どこでだって当たり前に起きてることで、これからも起こることで……」
「――どこでだって起こってる事だろうと、それで喪われる奴はひとりしかいねぇんだよ!」
「うん。それが分かってるなら、だいじょうぶ、だね。
へびさんがそこにいてくれれば、怖くなんてないよ」
「馬鹿……野郎。お前に心配される程まで落ちぶれちゃいねえよ……」
「……ねえ、へびさん」
「………………」
「お話、聞いてくれたお返し。……何か、欲しい物とか、ある……?」
なんだってお前はそう、底抜けのお人好しなんだ。
姉の事は、結局こいつには話せずじまいだった。それでもオレが明らかに語るのを避けているとなれば、己の状態に姉が一枚噛んでいると見当はつくだろう。
恨み言のひとつふたつ零して然るべきだってところを、こいつは笑う。
ああそうだ、お前は最初に出会った時だって、山の夜の不安に震え、涙を零しはしても、自分を置き去りにした姉への恨みは口にしなかった。次にオレが山へ招いた後だって、自分を殺そうとした家族への憎悪を聞いた覚えがない。
苦しむという感情は持っているし、泣きもするが、恨みはしない。
いつだって、ありがとう、だった。
過ぎ去った苦痛に憎しみをぶつけず、それに対し手を差し伸べてくれた、今そこにいる者へ、感謝を捧げる。生き残る為に身に付けた技術だとは思えない。多分、こいつの性は根本からこうなんだろう。
万の徒労を恨まずに、一の報いを感謝する。
こういう奴は、決して本人が幸福にはなれないと、前に思った。
そして、事実その通りになった。
気紛れのままに弄ばれて、気紛れのままに殺されていく。
唐突にひとつの思い付きが浮かび、それは瞬く間に決意へ、そして言葉へと変わる。
「おい、聞こえてるかクソガキ」
「聞こえてるよ思いっきり。なにかな?」
「急にこんな話をして何だが、ちょいと今から山を降りてみねえか?」
「ふえっ?」
「なァに、そういやオレは、お前の故郷ってのをきっちり訪れた事がなかったなと思ってよ。いつかいつかと思ってるうちに、こんなに寒くなっちまった。
その、お前だけこの山を隅から隅まで見てて、オレは見てないってのは、なんかこう不公平じゃねえか」
「………………」
「だから……今だったら、ほれ、時間もあるし、里を見に行きたくなってな。
ああ、ちゃんとお前も連れてってやるから心配すんな。だいたいお前、オレが先に立たなけりゃ山を降りられねえだろ。また、あん時みたいに迷うのがおちだ」
我ながら悪い冗談にしか聞こえない内容だったが、オレは本気で言っていた。
そしてこいつも、オレの申し出が冗談なんかじゃない事も、そんな真似をすれば二度と戻ってこられない事も、ここでおとなしく寝ているより余程辛い目に遭う事も、すべて分かっているだろう。
ガキが黙ったままオレを見ている。非難も哀願も、何ひとつ訴えるものの無いその目に負けそうになりながら、オレは湧き上がり続ける衝動を、片っ端から吐き出していった。
「外はとんでもなく冷え込んでるし、下りだろうと山道は辛い。その体にゃ相当堪えるだろう。ぬくくしてあるここで寝てた方が、ずっと楽だ。
――でも、だからってよ!」
「へびさん……」
「……こんな場所で、お前を死なせねえよ。
死ぬにしたって、こんな場所でだけは絶対に死なせるものか!」
箱に閉じ込められて、流されるままに箱の中で死ぬ。
こいつはオレに影響を及ぼし、オレはそれに反応し、姉を大いに愉しませ続けた。
そしてその愉しみも乏しくなりつつある頃に、都合良く死んでいこうとしている。
何から何まで、奴の思い通りになるよりは、せめて最後に抵抗のひとつでも、あいつに。
子供じみた無意味な意地だった。オレはオレの意地で、死に瀕しているこいつを巻き添えにしようとしている。
自分の価値観にこいつを巻き込んで、振り回そうとしている。
それがこいつにとって、最後の旅路になると承知の上でだ。
オレがこうまで明白に、姉への嫌悪を露わにするのは、こいつが病んでから初めてだった。オレが嫌悪を口にすれば、それはそのまま、こいつに自分の状態を気付かせる事になるのだからと避けていた。
もう、その心配も要らない。
だが、こんな申し出が受け入れられる訳がない。
最後の最後でつい求めてしまったのは、間違いなく断られるとオレ自身が確信していたからだろう。
当然だ。苦しい体を押して外を歩き、厳しい寒さの中で死ねと言われたも同然だ。
受け入れられる訳がない筈だった。断られる筈だった。
なのにこいつの出した答えは、いつもと同じく、オレの予想と期待を無視したものだった。
「うん。それ、いいね」
「……そうだろ。いいよな」
「行こうよ、これから。へびさんと、いっしょに行くよ」
笑った顔は、不思議ととても嬉しそうだった。
何が嬉しいんだろう。なあ、お前の胸に去来するものは何なんだ、教えてくれ。
こんな結末、考えもしていなかっただろうに。
いや、もしかすると。
こいつの事だから、オレがああ言い出すのを半ば予期していて、欲しい物はあるかと言ったのかもしれない。
本当にいいのかと、繰り返し尋ねはしなかった。オレの無茶苦茶な要求に、こいつは行くと言った、来てくれると言った。なら、それをそのままに受け入れる。
「立てるか?」
「少しなら」
「ゆっくりでいい」
どうにか体を起こしたものの、数歩で膝をつく。
「……あー……どおやら、無理みたい、です」
「はは、いいさ、オレが運んでやる。ガキの重み程度どうってこたねぇよ」
オレは横になったガキの下に、体を平たく潰すようにしながら潜り込んだ。
ぐ、と胴を膨らませれば、運べそうは運べそうだった。
こんな時だけ、自分がただの蛇とは体の大きさも力も違う、霊格を備えた白蛇である事を感謝する。
「オレに手か腕があれば良かったんだがなぁ。
乗り心地が悪いのは勘弁してくれ」
「ううん、平気だよ。
相変わらず器用だよねえ、へびさんって……」
辛うじて聞き取れる程度の声は、もはや喋るのも辛そうだった。
躊躇いを消して、オレ達は洞穴から這い出る。
住処という結界から出た途端、一気に凄まじい寒さが襲ってきた。
こんなに厳しかったのか。こいつに付きっ切りで、穴から出るのさえ久し振りだったオレには、立ち止まっている間にも一層冬は進んでいくという、決まり切った事さえ頭になかった。
オレじゃ、こいつを運ぶ事はできても、寒さを防いでやる事はできない。
戸惑っている暇はない、急がないと。




