雪中花 - 5
一旦崩れ始めると、落ちていくのは早かった。
あの日こそが皮切りであったように、あいつはみるみる弱っていく。
オレは一日も欠かさずに住処を訪れては、あいつと言葉を交わし、錆び付いた記憶を懸命に掘り返しながら、薬になりそうな物を探して山を這い回った。事は、薬でどうにかなる問題じゃないのは承知している。だが全くの無駄という事はないだろう。無駄という事はないと、あるいは信じたかったのかもしれない。
座して終わりを待つだなんて、できなかった。
それらの試みは、大抵は空振りになった。冬という季節のせいだ。気付くのがもっと早ければ、効く効かないは別として、探すのだけは容易だった筈だ。
あとはせめて、精の付きそうな食い物を。
干した食料だけでも冬は越せる。だが新鮮な肉の方が良い。特にはらわたは、生で食えというのは無茶だとしても、焼いて食わせれば力になるだろう。
が、これもまた簡単には見付からない。当たり前だ、真冬に堂々と山をうろつく獣は少ない。とうとうオレは、オレのような立場の存在からしたら禁じ手ともいえる、冬籠りをしていて抵抗のできない獣に手を出し、あいつに窘められる始末だった。
お前は生きたくないのか。
ほとんど非難する調子でオレが言えば。
生きたいけど、こういうのはだめだよ。
あいつは、迷わずそう答えた。
狩られた獣の亡骸よりも、それを運んできたオレを見る瞳があまりに悲しそうで、それきり、オレはそういう真似はやめた。
眠るようにして過ごす時間が増えていく。
咳は、段々と聞かれなくなっていた。代わりに、目に見えて手足の力が落ちている。たびたびオレの胴や尾に手を伸ばしてくるが、もう、前のように抗議を無視して持ち上げる事はできない。
それでも、こいつは気丈に振る舞う。恨み言のひとつも零さずに。
もともと、恨むという発想がないのかもしれない。それが、尚更見ていられなかった。憎まれるのが怖いと怯えて、不安で一杯であっただろうこいつから一度逃げてまでいながら、実際憎まれも恨まれもせずにいると、いっそ憎しみをぶつけてくれた方がどんなに楽になれたかと思う。
「苦しいのは、なくなってるよ。ただ……だるい、かなあ?」
合間にそんな事を漏らす。
それが良い傾向なのか悪い傾向なのかは、考えるまでもなかった。
物が食えなくなってきて、水しか口にしない日も増えていた。だが、食わなくてもそう簡単に死にはしない。こいつの体には、いまや山の精気が隅々まで巡っているからだ。
こいつを殺そうとしているものが、同時にこいつの命を繋いでいる。
どうしてだ。
どうして、こんな。
嘆きはガキの運命へ向くのと同時に、自分にも向かっていた。
どうしてオレがこんな目に遭わなければ、こんな気持ちを味わわなければならないんだと。
その答えもまた、判っている。
これは、きっと罰だ。
人でないものが、人を求めてはいけなかったんだ。
どんなに近い心を持っていようと。
どんなに人の心に憧れていようと。
交わりようのない線同士が交わろうとすれば、歪みにより生じる世界のずれは、いつか必ず跳ね返ってくる。交わってはならない線同士を交えようとした、その者達を目掛けて。
どうすればいい。
オレには、何ができる。
何をしてやれるんだ。
オレはただ生きてきた。
失態を犯し、姉に敗れてからは、周囲から目を背けて漠然と生き続けてきた。
けれども、あいつはどうだった。オレがこの力で、暮らしの片鱗を覗き見たあいつは。
いつだって、生きる事に必死で。
いつだって、辛さを飲み込んで。
懸命に、そこに立っていた。
オレが丸くなって昼寝をしていた時、あいつは爪を割りながら土を耕していた。
オレが物を食う気も失くしていた時、あいつは食いたくても食えなかった。
オレが生き流してきた長さの、ほんの一摘みにさえ満たない時間を、あいつはそうして生きてきたんだ。
この先、オレが変わる事はあるだろうか。
あるとは思えない。オレはそんな出来た奴じゃない。
だったら。
だったら、オレがここにいる意味は一体どこにある。
「さて、今宵は何用かの」
尾を太い枝に巻き付かせ、姉がばさりと巨翼を広げた。
月光に照らされた姿は、どこまでも美しい。
身を切る冬の空気が、光り輝く純白をより引き立たせているようだった。
オレは前置きなしで話を切り出す。
「あいつを助ける手段を知りたい」
「無い。何度同じ事を言わせる気じゃ?
この話はとうに済んだと思うておったが」
「本気であんたが済んだと思ってたら、こうやってオレの前に姿なんか見せないだろ」
「ほほ、そのとおりじゃ。
我が弟が次には如何なる手を用いて訴えてくるのかと、待ち遠しくもあったのう」
訴えてくる時のオレの憔悴した様子が、だろうが。
そう怒鳴って食って掛かりたいのを、オレは必死に堪える。
殺し合いをしに来たんじゃない。挑んだとして勝負にもならないが、それで前のように負かされれば、また暫く倒れて動けなくなる。判り切った結末に、無駄に費やす時間は残されてない。
懇願する側は、普通は下手に出る。だが相手が姉では、謙ったからといって聞いてくれる保証はない。強気に出る、弱気に出る、どちらの態度も面白がって、ますます調子に乗る可能性が等しく存在する。つまり、こいつ相手に有効な交渉の手段なんて存在しない。ただその気分に従うまで。それでもオレは、何もしてやらずにいる訳にはいかなかった。
「死など見慣れておろうに。
早いか遅いかの違いじゃ、それは我らにとっても変わらぬ事。
飽き飽きした真理に、何故今になって惑う?」
「死について意識した事がなかったからだ」
「お主にとって、あの童女がそれであると?」
「ああ、そうだ」
「先を述べよ」
「話す事も求める事も変わらない、あいつの命を救ってくれ。
対価は出す、オレの命をくれてやってもいい」
「何を言う」
「どうせ、これまでずっと土と葉に埋もれて、怠惰に生きてきただけの身だ。あいつの方が余程、有意義に生とやらを全うできるさ」
「お主、それでは対価にすらなっておらぬよ。
何が悲しゅうて、血を分けた弟と道端の石ころを比べねばならん」
あの日と同じ例えを持ち出され、オレの中で何かが切れた。
あらゆる打算も計算も一発で頭から吹き飛び、オレは激高していた。
あらん限りの声を張り上げる。無駄だと判っていても。
「あいつは生きてる!!
ここに来てからまだ半年だ――まだ半年も経っちゃいねえんだぞ!!
何となく生を消化してきたオレなんかより、よっぽど生きてきた!! よっぽど苦しんできた!!
それなのに、なんでここで死ななきゃならない!!」
「ほう、もうそんなに経つのか。
ここで死ぬなら良かったではないか、あの場で鶏のように締められ草と一緒に煮られるよりは、最後の半年を心穏やかに暮らせたのじゃ。感謝されこそすれ、恨まれる覚えはないの」
「お前、は……!」
「なんじゃ? それともお主は、あの場で殺されておった方が、あの娘はしあわせであったと申すか?」
姉が少しだけ首を傾げる。嫌でも、誰かの仕草を思い出させた。
頭が焼け付くようだった。
そんな事を言ってるんじゃない。
そんな事を言いたいんじゃないんだよ。
オレが、言いたいのは。
「どうしてだよ――」
ああ、きっと。
オレの言いたい事を、きっとここに人間がいたら分かってくれたんだろう――。
「どうして、そんな……。
どうして、わかってくれないんだ……」
「その言葉をそのまま返そうか、我が愛しき弟よ。
いや、お主とて理解はしておるのじゃろう?」
オレは項垂れる。
姉がこれから告げようとする事は、あの日にも告げられたばかりだったから。
「魔性としての異端は、己であると……」
姉は、亀裂のような赤い口を覗かせて哂った。
異端を愉しむ為には、正道を識らなければならない。
だから姉は、人やオレがどう考えどう感じどう行動するかを知っている。だが理解はしていない。永劫にする事はない。何故なら、姉は根っからの、何ひとつ間違ったところのない魔物だからだ。
「ふふ……だからこそ弟よ、私はお主が大切でならぬ。
ここの所、随分と身を粉にして働いておったようではないか、娘の体に効く物を求めての」
「見てたのか……」
呟くまでもなく、それもオレは知っていた。
あいつの為に、必死になるオレを姉は面白がっていた。これまでと何も変わらずに。
オレが真剣に駆けずり回れば回っただけ、どこかから眺めている姉を喜ばせるだけだと分かっていても、何もせずに平然と腰を落ち着かせているなんて出来なかった。誰より憎みたいであろう相手に、自覚しつつ歓びを提供してやらなければならない。その乖離が、その乖離がオレにもたらす苦痛が、こいつにとっては何よりの肴なんだから。
「助けてくれ、姉上」
「諦めよ」
「たったひとりの弟の願いだ。二度と聞いてくれなくたっていい、そんなに大事なら、どうか今度だけでも」
「大切な者の為に命を賭してまで道を探すとは、まこと美しきものよの」
姉の眼がオレの眼を見る。
愉悦でも、怒りでも、からかいでも、面倒臭さでもいい、その炎に例え僅かでも感情の揺らぎがあれば、あるいは姉の考えを覆す余地は残されていたのかもしれない。
燃えるような紅色は、過ぎ去った秋の日差しのように、ただ静かに凪いでいた。
「だが私は、そこに何ら価値を見出さぬ」
問答はそれで終わった。
同時にすべてが終わった事を、オレははっきりと理解した。




