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雪中花  作者: 田鰻
22/25

雪中花 - 5

一旦崩れ始めると、落ちていくのは早かった。

あの日こそが皮切りであったように、あいつはみるみる弱っていく。


オレは一日も欠かさずに住処を訪れては、あいつと言葉を交わし、錆び付いた記憶を懸命に掘り返しながら、薬になりそうな物を探して山を這い回った。事は、薬でどうにかなる問題じゃないのは承知している。だが全くの無駄という事はないだろう。無駄という事はないと、あるいは信じたかったのかもしれない。

座して終わりを待つだなんて、できなかった。

それらの試みは、大抵は空振りになった。冬という季節のせいだ。気付くのがもっと早ければ、効く効かないは別として、探すのだけは容易だった筈だ。


あとはせめて、精の付きそうな食い物を。

干した食料だけでも冬は越せる。だが新鮮な肉の方が良い。特にはらわたは、生で食えというのは無茶だとしても、焼いて食わせれば力になるだろう。

が、これもまた簡単には見付からない。当たり前だ、真冬に堂々と山をうろつく獣は少ない。とうとうオレは、オレのような立場の存在からしたら禁じ手ともいえる、冬籠りをしていて抵抗のできない獣に手を出し、あいつに窘められる始末だった。

お前は生きたくないのか。

ほとんど非難する調子でオレが言えば。

生きたいけど、こういうのはだめだよ。

あいつは、迷わずそう答えた。

狩られた獣の亡骸よりも、それを運んできたオレを見る瞳があまりに悲しそうで、それきり、オレはそういう真似はやめた。


眠るようにして過ごす時間が増えていく。

咳は、段々と聞かれなくなっていた。代わりに、目に見えて手足の力が落ちている。たびたびオレの胴や尾に手を伸ばしてくるが、もう、前のように抗議を無視して持ち上げる事はできない。

それでも、こいつは気丈に振る舞う。恨み言のひとつも零さずに。

もともと、恨むという発想がないのかもしれない。それが、尚更見ていられなかった。憎まれるのが怖いと怯えて、不安で一杯であっただろうこいつから一度逃げてまでいながら、実際憎まれも恨まれもせずにいると、いっそ憎しみをぶつけてくれた方がどんなに楽になれたかと思う。


「苦しいのは、なくなってるよ。ただ……だるい、かなあ?」


合間にそんな事を漏らす。

それが良い傾向なのか悪い傾向なのかは、考えるまでもなかった。

物が食えなくなってきて、水しか口にしない日も増えていた。だが、食わなくてもそう簡単に死にはしない。こいつの体には、いまや山の精気が隅々まで巡っているからだ。

こいつを殺そうとしているものが、同時にこいつの命を繋いでいる。


どうしてだ。

どうして、こんな。


嘆きはガキの運命へ向くのと同時に、自分にも向かっていた。

どうしてオレがこんな目に遭わなければ、こんな気持ちを味わわなければならないんだと。

その答えもまた、判っている。

これは、きっと罰だ。


人でないものが、人を求めてはいけなかったんだ。


どんなに近い心を持っていようと。

どんなに人の心に憧れていようと。


交わりようのない線同士が交わろうとすれば、歪みにより生じる世界のずれは、いつか必ず跳ね返ってくる。交わってはならない線同士を交えようとした、その者達を目掛けて。






どうすればいい。

オレには、何ができる。

何をしてやれるんだ。


オレはただ生きてきた。

失態を犯し、姉に敗れてからは、周囲から目を背けて漠然と生き続けてきた。

けれども、あいつはどうだった。オレがこの力で、暮らしの片鱗を覗き見たあいつは。

いつだって、生きる事に必死で。

いつだって、辛さを飲み込んで。

懸命に、そこに立っていた。

オレが丸くなって昼寝をしていた時、あいつは爪を割りながら土を耕していた。

オレが物を食う気も失くしていた時、あいつは食いたくても食えなかった。

オレが生き流してきた長さの、ほんの一摘みにさえ満たない時間を、あいつはそうして生きてきたんだ。


この先、オレが変わる事はあるだろうか。

あるとは思えない。オレはそんな出来た奴じゃない。

だったら。


だったら、オレがここにいる意味は一体どこにある。






「さて、今宵は何用かの」


尾を太い枝に巻き付かせ、姉がばさりと巨翼を広げた。

月光に照らされた姿は、どこまでも美しい。

身を切る冬の空気が、光り輝く純白をより引き立たせているようだった。

オレは前置きなしで話を切り出す。


「あいつを助ける手段を知りたい」

「無い。何度同じ事を言わせる気じゃ?

この話はとうに済んだと思うておったが」

「本気であんたが済んだと思ってたら、こうやってオレの前に姿なんか見せないだろ」

「ほほ、そのとおりじゃ。

我が弟が次には如何なる手を用いて訴えてくるのかと、待ち遠しくもあったのう」


訴えてくる時のオレの憔悴した様子が、だろうが。

そう怒鳴って食って掛かりたいのを、オレは必死に堪える。

殺し合いをしに来たんじゃない。挑んだとして勝負にもならないが、それで前のように負かされれば、また暫く倒れて動けなくなる。判り切った結末に、無駄に費やす時間は残されてない。

懇願する側は、普通は下手に出る。だが相手が姉では、謙ったからといって聞いてくれる保証はない。強気に出る、弱気に出る、どちらの態度も面白がって、ますます調子に乗る可能性が等しく存在する。つまり、こいつ相手に有効な交渉の手段なんて存在しない。ただその気分に従うまで。それでもオレは、何もしてやらずにいる訳にはいかなかった。


「死など見慣れておろうに。

早いか遅いかの違いじゃ、それは我らにとっても変わらぬ事。

飽き飽きした真理に、何故今になって惑う?」

「死について意識した事がなかったからだ」

「お主にとって、あの童女がそれであると?」

「ああ、そうだ」

「先を述べよ」

「話す事も求める事も変わらない、あいつの命を救ってくれ。

対価は出す、オレの命をくれてやってもいい」

「何を言う」

「どうせ、これまでずっと土と葉に埋もれて、怠惰に生きてきただけの身だ。あいつの方が余程、有意義に生とやらを全うできるさ」

「お主、それでは対価にすらなっておらぬよ。

何が悲しゅうて、血を分けた弟と道端の石ころを比べねばならん」


あの日と同じ例えを持ち出され、オレの中で何かが切れた。

あらゆる打算も計算も一発で頭から吹き飛び、オレは激高していた。

あらん限りの声を張り上げる。無駄だと判っていても。


「あいつは生きてる!!

ここに来てからまだ半年だ――まだ半年も経っちゃいねえんだぞ!!

何となく生を消化してきたオレなんかより、よっぽど生きてきた!! よっぽど苦しんできた!!

それなのに、なんでここで死ななきゃならない!!」

「ほう、もうそんなに経つのか。

ここで死ぬなら良かったではないか、あの場で鶏のように締められ草と一緒に煮られるよりは、最後の半年を心穏やかに暮らせたのじゃ。感謝されこそすれ、恨まれる覚えはないの」

「お前、は……!」

「なんじゃ? それともお主は、あの場で殺されておった方が、あの娘はしあわせであったと申すか?」


姉が少しだけ首を傾げる。嫌でも、誰かの仕草を思い出させた。

頭が焼け付くようだった。

そんな事を言ってるんじゃない。

そんな事を言いたいんじゃないんだよ。

オレが、言いたいのは。


「どうしてだよ――」


ああ、きっと。

オレの言いたい事を、きっとここに人間がいたら分かってくれたんだろう――。


「どうして、そんな……。

どうして、わかってくれないんだ……」

「その言葉をそのまま返そうか、我が愛しき弟よ。

いや、お主とて理解はしておるのじゃろう?」


オレは項垂れる。

姉がこれから告げようとする事は、あの日にも告げられたばかりだったから。


「魔性としての異端は、己であると……」


姉は、亀裂のような赤い口を覗かせて哂った。

異端を愉しむ為には、正道を識らなければならない。

だから姉は、人やオレがどう考えどう感じどう行動するかを知っている。だが理解はしていない。永劫にする事はない。何故なら、姉は根っからの、何ひとつ間違ったところのない魔物だからだ。


「ふふ……だからこそ弟よ、私はお主が大切でならぬ。

ここの所、随分と身を粉にして働いておったようではないか、娘の体に効く物を求めての」

「見てたのか……」


呟くまでもなく、それもオレは知っていた。

あいつの為に、必死になるオレを姉は面白がっていた。これまでと何も変わらずに。

オレが真剣に駆けずり回れば回っただけ、どこかから眺めている姉を喜ばせるだけだと分かっていても、何もせずに平然と腰を落ち着かせているなんて出来なかった。誰より憎みたいであろう相手に、自覚しつつ歓びを提供してやらなければならない。その乖離が、その乖離がオレにもたらす苦痛が、こいつにとっては何よりの肴なんだから。


「助けてくれ、姉上」

「諦めよ」

「たったひとりの弟の願いだ。二度と聞いてくれなくたっていい、そんなに大事なら、どうか今度だけでも」

「大切な者の為に命を賭してまで道を探すとは、まこと美しきものよの」


姉の眼がオレの眼を見る。

愉悦でも、怒りでも、からかいでも、面倒臭さでもいい、その炎に例え僅かでも感情の揺らぎがあれば、あるいは姉の考えを覆す余地は残されていたのかもしれない。

燃えるような紅色は、過ぎ去った秋の日差しのように、ただ静かに凪いでいた。


「だが私は、そこに何ら価値を見出さぬ」


問答はそれで終わった。

同時にすべてが終わった事を、オレははっきりと理解した。


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