雪中花 - 4
翌朝、陽が昇り切るのを待たずに、オレはガキの元へと向かった。
昨日あんなに留まるのを渋ったのが嘘のように、早く早くと急いている自分がいる。なぜ帰ってしまったのかと、酷い後悔ばかりが止めどなく押し寄せてくる。
けどそんな自問をしたところで、あの時はああするより他に何も出来なかったんだ。
眠れる訳もないまま一晩経って、幾らかは、本当に幾らかだが、動揺も収まった。それは程度の差こそあれ、あいつも同じ筈だ。だったらどうする。見捨てるように逃げたオレに怒るか、憎むか、それとも失望しているのだろうか。
「おはようでございます」
わざわざ住処の前で出迎えてくれたガキに、昨日までと比べて特に変わったところは見当たらなかった。笑顔まで含めて、あまりにも、あんまりにも普通だったから、オレもつい昨日までの挨拶を交わしそうになる。本当はそうするのが一番良かったんだろうが、そんな簡単な言葉ひとつ出てこなくて、黙ってしまった。
オレを見下ろしたまま、ガキがぽりぽりと頬を掻く。やってしまった、そんな感じだった。そうじゃない。お前が場違いな事をやらかしたんじゃなくて、単にオレが出遅れているだけなんだ。
「まだ本調子じゃないみたいだねぇ、へびさん」
「……歳を取ると打たれ弱くてな。
夜は悪かった。あの後、ちゃんと寝れたか?」
「うん。ゆっくり眠ってね、ごはんも食べたよ。
昨日の残りのをあっため直したやつね」
「そうか、良く火は通せよ。
……あいつは来たか?」
あの白い姿を思い浮かべるのさえ嫌だったが、聞かなきゃならなかった。わざわざここを訪れて、真実を告げていった可能性があったからだ。無論それがオレに及ぼす影響を愉しむ為に。
改めて、どんなに苦痛だろうと、やはり昨晩は残るべきだったと悔やむ。
ガキは首を横に振ったので、ひとまず最悪の事態にはなっていないようだが、既にして最悪のところに、更に細かい格付けをする事に一体何の意味があるっていうんだ。それに、度重なるオレの不審すぎる態度から、姉に告げられるまでもなく、己の状態など悟っている筈。
「でー、そろそろ聞かせて欲しいんですけど。
なにをお話してきたんですか?」
求められれば、どんなに踏み込みたくなくても、踏み込まない訳にはいかない。
「……体がな、ちょいとばかり悪い、らしい」
「へびさんの?」
「オレじゃなくてお前だよ! ……いや、分かっててそういうのはやめてくれって」
「えらいごめんなさい」
「お前……まあいい。でもな、絶対に治らないって訳じゃないぞ」
「うーん、夜が明けてもへびさんは嘘がへたです」
「嘘じゃない……!」
そりゃあ、どんな事だって全部の否定要素を潰しちまわない限り、絶対なんて断言できない。そしてそんな事は滅多にできるもんじゃないんだから、これはガキの言うように小手先の誤魔化しだった。
かといって、もう手の施しようがないだなんて、どうして言える。誤魔化しだろうと何だろうと、口にする事で縋る形を作り出せるなら、それで構わない。
オレは繰り返し強調した。どちらかといえば、自分に言い聞かせているようだった。
「いいか、絶対じゃないからな」
「でも、とっても難しい、でしょ」
「…………それは……そうだけどよ、お前は山の神子だろうが。
そこらのひ弱な子供とは違うんだ。特別だ。そう簡単に参っちまったりしねえよ」
「……体ね、けっこう前からおかしかったって言ったよね。
気にしてなかったわけじゃ、ないんだ。咳は……たまぁにだったけど、一日ぼうっとする時もあったし、そんな日は、寝てるとそのまんま土に溶けていっちゃいそうだったよ」
「お前、どうしてそれを――」
言わなかったんだと叫びかけて、オレは口を噤んだ。
理由は様々だろう。しかし、そのひとつに、初めの頃のオレの態度があったのは間違いない。可能な限り接触を避けていたオレの事を気遣って、余計な心配を掛けたくなかったんだ、こいつは。
オレのせいだ。
「里でも、疲れすぎて動けなかったり、体がおかしくなったことは、何遍もあったの。
御山に入って、ゆいねえさまに力の使いかたを教わって……そういうね、新しいことを始めたのもあったから……。
体、そのせいだと思ってた。ごめんね。
なんにも知らないのに、勝手にそうだって決めちゃって、そのせいで今、へびさんにも迷惑かけて」
「そうじゃない。……そうじゃねえよ、そんな事は思ってない。バカを言うな」
「心配させちゃってるよね、ごめんね」
「そうじゃない……」
そうじゃない。
お前のせいなんかじゃない。
姉がオレを唆し、オレがお前を誘い、お前が境界線を乗り越えたあの瞬間に、お前は手遅れになったんだ。お前が体の不調を訴えるのが、早かろうと遅かろうと、どのみちお前は手遅れだったんだよ。
オレは何も知らなかった。ひょっとしたら成功して、立派な神子になれたかもしれなかった。だが、そんなのが現実に今死へ向かいつつあるこいつにとって、何の慰めになる。試しにやらせてみたけど駄目だっただなんて、どうしてそんな残酷な事を告げられる。
しかし告げなければ、こいつは自分の身に起きた事を、黙っていた不手際のせいだとこのまま信じてしまう。
どちらを選んでも、こいつを苦しませる。
選べない。今はまだ、どちらも。
選べる日が来るのかも判らない。
「――ごほっ!」
「おい!」
ガキがまた咳をした。気持ち、前よりも勢いが強い。
咳は何度も続く。そうだ、これまでにもオレはこいつのこんな姿を見ていた。
そして何をやってやがると呆れ、時には笑ってきた。
苦しげに丸めた背中を、さすってやれる手をオレは持っていない。あってもきっとその資格はない。慰めになるのかどうか自信がなくても、ただ横にくっ付いていてやる事しかできなかった。




