雪中花 - 3
眠っていたのか、意識を失っていたのか、次に見た世界は夜だった。
暫くオレはぼんやり土を眺めていたが、あまり期待せずに、首に力を入れてみる。
ぴくり。動いた。
波が広がるように、全身に力が戻っていく。胴を折り曲げ、頭を地面と並行にし、腹で地面を押す。たったそれだけの事に、大変な努力を要した。考えるまでもない動作が、考えなければ行えなくなっている。目が覚めたのが忌々しい。あのまま朽ちて土にでもなっていれば、二度と何も考えなくて済んだのに。
だが、目覚めてしまったものを疎んでも、目覚める前に起きた出来事を覚えているのを嘆いても仕方がない。自分がこうしている間にも、時は刻々と過ぎていく。
行かなければならない、あいつの元へ。どんなに会いたくなかったとしても。
あの性格を考えれば、このままオレが失踪したら、真夜中だろうと探しに山中へ繰り出しかねないからだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
オレは、いちいち自分の体に言い聞かせながら山を下った。
親鳥が、巣立とうとする雛へ飛び方を教えてるみたいだった。
その場所に近付くにつれて、動きが鈍る。心が軋む。
洞穴の前にあった火が消えて、辺りが静まり返っているのを見た時は、むしろほっとした程だった。ああ、とりあえず今日は顔を合わせなくて済みそうだ、と。
だがすぐに、オレは気配を感じて止まる。
ほとんど同時に、ガキが洞穴から顔を覗かせた。走ってきたという感じじゃない、起きて待っていたらしい。ガキの顔に安堵が広がるのが、この暗闇の中でも判る。小走りにこちらへ駆けてくる姿から、オレは悲鳴をあげて逃げ出したくなった。踏み留まりはしたものの、実際、幾らか体が下がりはしたと思う。
「おかえり、へびさん」
「ここはオレの棲家じゃない、お帰りは変だろ」
声を聞いた瞬間ビクついたオレに気付いたのか気付かなかったのか、少なくとも一見しただけでは、ガキの言動には何の変哲もなかった。オレの無愛想さに気を悪くした様子もなく、無事に出迎えられた事を喜んでいる。
喜ぶ事なんて、オレは何ひとつ持ち帰れなかったのに。
「いきなり飛び出していっちゃうから、心配したんだよ」
「そうか、済まなかったな」
「……ゆいねえさまには会えた?」
今この世で最も聞きたくない名を持ち出され、オレは言葉に詰まった。
あいつはどこにいると叫んで飛び出したのだから、当然あって然るべき疑問だ。
にも関わらず、聞かれた時にどう答えるのかをオレは考えてなかった。考え付く余裕なんて無かったってのが正確だ。
会えなかったと答えれば、それは嘘をつく事になる。第一、オレの態度からして一発でばれる嘘だろう。会ったと答えれば、次には、じゃあ何を話したのという問いが来る。それに対して、あの場で明かされた真実を告げられるか。告げられる訳がない。
かといって、曖昧にぼかす逃げも打てない。会ったか会わなかったか、その二択しか存在しない問いだ、これは。
「ねえ、へびさん……」
ガキが自分の胸に手を当てる。
人のそれと比べたらずっと遅いオレの心臓が、どくんと強く脈打ったようだった。やめろ、と、心が叫ぶ。その先を口にするな。そこに触れないでくれ。
「これ、すごく悪いの?」
ああ。
オレの全身から、力が抜けていくのを感じた。
そうだった。こいつは無鉄砲で、とんでもなく頑固で、時々真顔で信じられない阿呆な真似をしでかしやがるが、決して察しの悪い木偶の坊なんかじゃないんだ。そうでなくたって、ああもオレの態度が露骨に急変すれば、誰だって薄々おかしいと判る。
ガキは、オレをじっと見ている。不安に揺れてもいなければ、詰問するような鋭さもない。
こうやって、こいつに見詰められる事が、いつしか居心地の悪さから静かな心地良さに変わっていった。それが嘘のように、今のオレには、視線が槍と化して全身を貫いてくるかのように感じる。
どうって事ないさと、今度こそ嘘をつくべきか。
真実を告げるのはあまりに酷だ、これは必要な嘘だろう。
だがそうして騙したとしても、いつか時期が来れば、嫌でもこいつは自分の命運を知る。その時に、あんなに慕っていた相手に騙されていたと知ったら、こいつはどう思う。あらかじめ知っていれば支度もできたのに、やりたい事だってあったのにと、全てを呪うかもしれない。
当てのない希望を、持たせるか否か。
姉の気が変わる可能性、奇跡が起きる可能性に賭けて。
「……なんでもない」
「あのねへびさん……ひとをだますのに向いてない。怒鳴った時に既にそうでしたけど」
「そうか。オレは何をやらせても駄目だな」
半分、泣いているような声だった。
そんな自分の声を聞いて分かった。
騙されていたと知った時に、こいつ自身がどう思うかを恐れたんじゃない。
騙されていたこいつが、オレをどう思うかが怖かったんだ。
こいつが、オレを恨み、憎むのが怖かったんだ。
そのまま互いに口を噤む。気軽に次の話題を探せるような心境じゃなく、次を務められる話題もまず無い。それだってのに、暫くしてから話を切り出したのはガキの方だった。
内心不安だらけの子供に、一体何をやらせてるんだ。
気遣ってやらなきゃならないのは、オレの方なのに。
「……ね、へびさん。へびさん、すごく疲れて見えるから……。
いろんなこと考えたり、お話したりするのはまた明日にして、おうちの中に入って休も、ね。あったかいよ、中。汲んできた、きれいなお水もあるよ」
明るい声だった。それだけに、聞かされるこちら側が痛くて堪らない。
どうする、こいつの住処に入って、一緒にいてやるか。
入ってやるべきだろう。こんな状態のこいつを、一人になんてできない。
しかし。
そうすると言おうとした途端、声が出なくなる。まるで喉が石になっちまったみたいに。
迷う必要さえない唯一の答えを、どうしても返してやれない。
何故、と、それこそ迷う必要も考える必要もなく、オレには判っていた。
真実を突き付けられたオレは、こいつの傍にいる事を恐れている。
あとは死ぬばかりとなった、こいつを見ているのが、怖い。
「……わる……い、悪い。明日また必ず来るから、今夜はこのまま帰らせてくれ」
「へびさん……」
「頼む」
逆の要求は、こんなにもすんなり口にできる。
気力を振り絞って出した声だった。
こんな声を聞かされただけで、お前は大変な状態だと言われたのも同然な。
「頼むよ」
「……うん、わかった。
へびさんもゆっくり休んでね。あと、気をつけて帰るんだよー」
へらっとした笑顔で手を振るガキにどう返事をしたのか記憶がないまま、気が付けばオレは帰路にいた。
つくづくオレは弱い。どうしようもなく弱い。ゴミのように弱い。
せめて一晩が経たなければ、とてもじゃないがあいつの顔を正面から見れそうになかった。
冬の山に生き物の気配はなく、オレは本当にひとりになったように感じる。
星空が美しいと、場違いにも思った。そんな美しさなど、全て掻き消してしまう寒気が真上から伸し掛かる。情けなさと惨めさと悲しさとで、いっそこのまま、その重みに潰されてしまいたかった。




