雪中花 - 1
頂きを目指して、オレは跳ぶ。
林床、岩場、倒木の陰を抜け、枯れかけた草を掻き分け、山岸を這い登り、行く手を塞ぐ川を泳ぎ、窪みへ飛び降りてはまた進む。空気がまるで分厚い壁になって、行く手を阻んでいるようだった。避け切れなかった、避ける気もなかった枝や小石が、次々と体にぶつかる。構いはしなかった。いくらオレ程度でもそれらが当たったくらいで痛みはなく、あっても今は感じない。
走る。駆ける。足の無い蛇の体で。
どんなに全力を出しても、オレじゃたかが知れている。だが悠長にのたくっているなんて出来やしなかった。
どこにいる。
どこにいる。
どこにいる。
姿を見せろ!
闇雲に探しても無駄なのに、闇雲に探すより他に手は無い。そして、オレが闇雲に我武者羅に無様に奴を呼び求める事は、何より有効な手段である筈だった。
あいつは、必ずこの山のどこかでオレの叫びを聞いている。
だからオレは、姉の名を叫び続けた。
きっと聞こえている。が、オレが探し当てない限りは、自ら姿を現しはしないだろう。欲しくば当ててみろと、見付けてみろと、陰に身を隠して嗤っている。オレが必死に探す姿を、徐々に正解に近付いていく姿を、遂には発見される瞬間を、あいつは愉しんでいる。
山は広い。姉の居場所は、その中のただ一点。
雲を掴むような話だった。
迷わずひたすら上へ上へと登っていく選択に、確信があった訳じゃなかった。だが、こういう時、あの姉ならば山で最も高い場所にいるのではないかという予感が、オレにはあった。
あいつは、そこからオレを見下ろしている。
オレの悲嘆を高みから哂う。
それが、姉だからだ。
だからあいつはおそらく、そして必ずここにいる。山で最も高い場所、頂上に。
山の頂では、オレが生まれるより遥か昔にあったという噴火の影響らしく、黒々した巨石が折り重なって、まるで一本の鷲の爪のような形を作っている。上へ向かって湾曲した様は、今にも天を掴もうとしているようだ。斜面を登り切るのと同時に、オレは一直線に、その巨大な爪の先端を振り仰いだ。
そこには太陽があった。
いや。
大空から降り注ぐ陽の光を受けたその体は、太陽と見紛うくらいに眩かった。
「珍しい事もある」
姉の声を聞き、まず浮かんだのは憎悪じゃなくて安堵だった。良かった、無事に見付けられた。そう思うしかない自分に、激しい怒りが湧く。輝く白光の中から、一対の真紅の眼がこちらを見ている様は、震えがくる程に恐ろしく、そして神聖で、もしも人間がこの光景を目の当たりにしたなら、白蛇天狗を神と崇めたって何の不思議もない。
だがオレはもう、姉への疎ましさも気まずさも怯えも感じなかった。
ここで怯むような余地は、藪に飛び込んだ時に全て置き去りにしてきてある。
「おお、おお、どうしたのじゃ血相を変えおって。
そんなに私が恋しくなったかえ?」
「てめえッ!!」
オレは叫ぶ。白い影がゆらりと揺れた。
「穏やかではないな」
「どの口でそれを言いやがる!」
「はて、私は常に穏やかじゃぞ。
いずれ死すべきその時まで、この山と共に在る定め故に。
山が荒ぶるはならぬ――」
死。
軽く持ち出された一言が、今のオレには嫌でも鋭く突き刺さる。
オレは姉を睨んだ。気分ひとつでいつ立ち去るかも知れない相手に、言葉を選んでいる暇はない。聞くべき事はひとつ。糾弾すべき事はひとつ。求めるべき事はひとつ。それらに辿り着くまで、姉の関心を引き付けておかなければ、あのガキの命運は尽きる。
「お主のような者が、そうまで形振り構わずとなると、理由はひとつしか思い浮かばぬ。このところ顔を見ておらぬが、あれは健やかに暮らしておるかの」
「よくもてめぇはそんな……知らなかったとは言わせねえぞ。
オレが知らなかった事実を、お前まで知らなかっただなんて絶対にない!!」
「情けない事を確信込めて言い張るなや、痴れ者が」
「……っ、それでも……それでも…………ああ…………」
はっきりとは触れず言外に流した、だが、そんな姉の態度こそが明白な答えだった。
「知らなかった事で、あって欲しかった――」
オレの体から力が抜けていく。
聞くべき事はひとつ。それに対する答えもひとつ。
それでも直に姉に尋ねるまでは、米一粒の大きさとはいえ希望は残っていた。
今、それが潰えた。
あいつの体の事を姉も知らなかったのなら、少なくとも、この事態は姉の招いたものではなくなる。だがそうじゃないとなると、姉は知っていて放っておいたか、もしくは自ら意図してこれを招いた事になる。そのどちらにしても、救いなど一切無い真実に違いなかった。
「……あれは……あいつのあれは、病なのか」
「病ではない。山の精に負けているのよ」
「何だと!?」
「山の主たる私の神子となり、山に取り込まれるとは、只の人であるその身に山の精気を巡らせる事。強すぎる気に、娘の体が付いていけておらぬのじゃ。あれの命を、山の精気が食い潰しておる」
姉から語られた内容に、オレは愕然とする。
どんなに重くても、病の方がまだマシだった。
神子である事それ自体があいつを衰弱させているのだとしたら、万に一つも望みはない。
「招いてはみたものの駄目だったか、やむを得ぬ結末よの」
「他人事みたいに言ってんじゃねえよ!!」
「私が死ぬのではないのだ、他人事でなく何事とする?
なァに、やってはみたが叶わぬ事なぞ世には溢れておる。これもそのひとつに過ぎぬよ」
「それなら――それなら、せめて可能な限りの手を尽くそうと思うだろう!!
どうしようもないと判っていたって、せめて出来る事をしてやろうと――!」
「私は思わぬ。
お主は思うのか?
……そうだな、お主は思うのであったなあ……」
姉はオレの咎めた内容よりも、むしろオレの態度にこそ感慨深げに呟く。
互いに、焦点に定めている箇所が決定的にずれている。
やってみた、駄目だった、それなら助ける為に万策を試そう。オレならこうなる。
やってみた、駄目だった、なら仕方ないんじゃないか。姉はこうなる。
腹を立てても無意味だ。考え方の差異は埋められる性質のものじゃなく、そして多分、間違っているのは……。
オレは思考を打ち切り、次の罵声を吐きかけてハッとした。気付いてしまった新たな事実に一瞬絶句する。
「……待て……だとしたら!
あんたがあいつに稽古をつけた事が、尚更あいつの消耗を早めたんじゃないのか!?」
「否定はせん。
神子の技は、云うなれば山の気を直に操っておるのじゃからな、それだけ負担はかかろう」
やはり――!
「だったらどうして、神子としての体裁を整えてやるような真似をした!!
だったらどうして、あいつに修練を促すような真似をした!!
仕方ないから何もしないどころか、殺そうと仕向けてるようなもんじゃねえかよ!!」
「何を言うておる、招いたからには務めを教えるのは当たり前であろうに。
そこらの人の子とて、拾った犬に餌を与える程度の知恵は持ち合わせておるぞ?
私はあれを山に入れた。が、耐えられそうにはない。しかし神子なのだから教える事は教えねばならぬ。どこに間違いがある」
息苦しい。
頭の奥が軋むように痛む。
あいつの体を蝕んでいたのは、この山だった。
あいつの技は、その山の力を使うものだった。
技を使うたびに、あいつの体は知らず痛めつけられていった。
なのにオレは、それを目の前で見ていながら、ああ大したもんだな、などと、呑気に感想を浮かべていた。
気付く機会はあった。だがオレは気付かなかった。気付けなかったんじゃない、気付かなかったんだ。だから姉ばかりを責められない。こうなるまで判らなかったのは、オレの責任でもある。そして、さっきから何より苦しくてならないのは、姉が、妖として当たり前の感覚に基いて話をしているからだ。
「――だからって、納得なんかできるかよ!!」
オレは吠えた。
ここでオレが引き下がったら、あいつの死は皆から肯定されてしまう。
「ずっと、あいつはあんたを信じてたんだぞ!!
あんたを慕っていた、あんたを敬っていた、あんたの後を追っていた!!
それを、もう仕方ないからと切り捨てるのか!!」
「我が弟よ。お主は、魔であるにはあまりに人がましい――」
歌うように姉が告げる。
聞くだけなら耳に心地良い声が、急所を抉る粘つくような厭らしさに満ちていく。
「かつて私とお主とが、山の主たる座を争った時……。
お主は、私の振るう力から逃げずに負けた。
まるで、人間どもの村を守るかのように、その前に立ちはだかってな。
私はそれが不思議でならなかった。避けようと思えば避けられた筈じゃ。なのに何故避けなんだ、とな。だがやがて判った。あれは、人間どもの村を守るかのように、ではなく、本当に守ったのだ、と。
そうと知っても、今度は、では何故守ったのかを理解するのに時間が要った。石ころを庇い、自らを捨てる道理が無い。
ほほほ、それもやがて私には判ったぞ。お主にとって、あれは石ではなかったのじゃろうと、な」
「……当たり前だ。人は石じゃねえよ、判り切った事だろ」
「判り切った事のようで、判り切った事ではない――。
それを判り切った事と言えるのは、ここではお主のみじゃ。
他に同類を求めるならば、それは、人、という事になろうの」
姉の声が、元の調子に戻った。
山頂の大気を濁らせていた緊張感が、一気に緩む。
「……弱りゆく者へ余程の興味があれば、手遅れとはいえ、私も策を講じたやもしれんが」
「じゃあ、あんたは、あいつを……」
「うん……? 私は、あの娘自体に関心は無いぞ。
飽きたと、初めにお主に告げておいたじゃろう、忘れたか?
お主も知っておったであろうに。いや、その口で申したであろう? 飽きたなら喰らえと。
周知の事実を今更、娘に興味はなかったのかと驚かれてもなあ」
オレは言葉に詰まった。
姉は、いつだってその時の愉しいものだけを追い求めている。
誑かされて山に誘い込まれ、あっさり捨てられた子供が泣きながら死んでいく声を、嫌になるほど聞いていた。ただの一度も慈悲を示さず、自分を無邪気に慕っていた者を笑いながら谷底へ突き落とせる、姉。そんな事、オレは他の誰よりも熟知してた筈だったのに。
何故、例外があるだなんて思ってしまったんだ。
「……ならどうして、あんなにしつこく山に入れようとしたり、世話を焼いたりしたんだよ……」
「お主も同じ事を飽きずによう聞くのお。こんなに物分かりの悪い子じゃったか?
娘の世話を焼いたのは、先に申したように、神子を擁する主の務めとして。山に入れるよう、お主に繰り返し勧めたのは――」
次にくる言葉は判っていた。
耳を塞ぎたい。そこには、無関心が生む途方も無い悪意があるのが見えていたからだ。浅ましくも、この期に及んで聞かないという希望に縋りたいなどと。
「娘を山に入れた後の、お主が見たかったからじゃ。
私が望んだのは、あの娘により引き出されるお主の反応であって、娘自体ではないよ」
「ああ」
オレは息の塊を吐き出した。
「初めは実に愉快であった!
私に捨てられた童女を、疎んじながらも見捨てられぬ弟が。伸ばされる手を厭う反面、そこより与えられるぬくもりに飢え、欲し、相反する感情の狭間で煩悶する弟が。懐柔されてからは、少しずつ昔のように素直になっていく様も見ものであったのう」
「……もう、やめろ」
「我が弟よ、お主は乱れておるからこそ愉しい。安定してしもうては、まるでつまらぬ。
神子の死は防ぎようのない流れであったが、思わぬ土産を生んでくれたわ。
さて深く心許した者が死ぬる時、手に入れたぬくもりを失う弟は、果たしていかなる顔を見せるのやら。
私には、どうやらまだ見るべき最後の光景が残っておる。ほほ――ほほほほ!」
姉が甲高く笑う。無邪気に、心からの歓喜に満ちて。
そうだ。その歓喜こそが唯一、姉という存在において確かと言えるものだった。
姉は初めから、童女には飽きたと言っていた。
姉は初めから、オレにしか興味を抱いていなかった。
姉は初めから、何ひとつ嘘をついていなかった。
勝手に勘違いしたのは、オレだ。
姉の哄笑が止む。オレを慰めるように、柔らかく声を和ませる。
「お主が苦しむ必要はないぞ、心優しき弟よ。此度の件、お主に一切の責はあらず。自分が早く気付いていればと、悔やまんで良いのじゃ。
なにせあの娘、はじめから死んでおったのじゃからなあ!」
「雪衣イッ!!」
その瞬間、オレの内で何かが弾けた。
無謀というのすら馬鹿らしい。オレは意味をなさない叫びをあげながら、持ち得る力全てを使って、一飛びに姉へと踊り掛かっていた。翼を持たない体が、軽々と舞い上がる。姉をこうして下に見るだなんて、いつ以来だろうか。
光の中に一瞬捉えた姉は、笑っているようにも、驚いているようにも、呆れているようにも見えた。
だが、それだけだ。
オレに全力を振り絞って出来るのは、こうして蛇にあるまじき跳躍をし、二本の牙を立てて食らいつくだけ。山神に対する反抗としては、小枝を握った幼児の如く、弱々しくて、儚い。
「ぐあっ!」
オレは、元いた岩場に叩き付けられていた。
衝撃が全身に走る。痛い。どう攻撃されたのかさえ判らなかった。
ずるり、と力を失った体が滑り落ちる。傷らしい傷は負っていないようだが、体がまるで動かない。痛みよりも、水が染み込むように全身に広がっていく気怠さが酷い。肉体という壁を越えて、内を流れる気を強く撃たれていた。
一撃。たったの一撃で、身動きが取れなくなってしまう程度の、オレの存在。
その一撃でさえ、かつて争った時の一割に満たない。
山の主という立場から、歯向かう者を見過ごす訳にはいかなかったとはいえ、姉は相当、手加減をしてくれたんだろう。
オレが血を分けた弟だから。
オレの事を、なんだかんだで大切に思っているから。
――でも、あいつは。
「頼むよ……」
最早まともに出せない、消え入りそうな声で、オレは言った。
「飽きたんなら、せめて山から離してやってくれ……。
もう、あいつなんか要らないんだろ……」
「それはできぬ。お主とて知っておろうに。
境界を越えて人を捨てた者を、人に戻す方法はない。解放が訪れるならば、それは命尽きる時じゃ」
持ち上げようとした頭が、ぐらぐら揺れてから、ぱたりと落ちた。
空が歪む。木々が歪む。縫い付けられたように体が動かず、尾先ですらぴくりとも反応してくれない。
とうとう姉は、反逆したオレを責める言葉を吐かなかった。
明かされた無残な真実への、言い訳もしなかった。
それは姉にとって、弁明しなければならない事ではなかったから。
当たり前に起きて、当たり前に終わっていく事で、当たり前に愉しむ事でしかなかったから。
風を巻き起こし遠ざかっていく羽ばたきを、別の自分が聞いているようだった。




