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雪中花  作者: 田鰻
18/25

雪中花 - 1

頂きを目指して、オレは跳ぶ。

林床、岩場、倒木の陰を抜け、枯れかけた草を掻き分け、山岸を這い登り、行く手を塞ぐ川を泳ぎ、窪みへ飛び降りてはまた進む。空気がまるで分厚い壁になって、行く手を阻んでいるようだった。避け切れなかった、避ける気もなかった枝や小石が、次々と体にぶつかる。構いはしなかった。いくらオレ程度でもそれらが当たったくらいで痛みはなく、あっても今は感じない。

走る。駆ける。足の無い蛇の体で。

どんなに全力を出しても、オレじゃたかが知れている。だが悠長にのたくっているなんて出来やしなかった。


どこにいる。

どこにいる。

どこにいる。

姿を見せろ!


闇雲に探しても無駄なのに、闇雲に探すより他に手は無い。そして、オレが闇雲に我武者羅に無様に奴を呼び求める事は、何より有効な手段である筈だった。

あいつは、必ずこの山のどこかでオレの叫びを聞いている。

だからオレは、姉の名を叫び続けた。

きっと聞こえている。が、オレが探し当てない限りは、自ら姿を現しはしないだろう。欲しくば当ててみろと、見付けてみろと、陰に身を隠して嗤っている。オレが必死に探す姿を、徐々に正解に近付いていく姿を、遂には発見される瞬間を、あいつは愉しんでいる。


山は広い。姉の居場所は、その中のただ一点。

雲を掴むような話だった。

迷わずひたすら上へ上へと登っていく選択に、確信があった訳じゃなかった。だが、こういう時、あの姉ならば山で最も高い場所にいるのではないかという予感が、オレにはあった。

あいつは、そこからオレを見下ろしている。

オレの悲嘆を高みから哂う。

それが、姉だからだ。

だからあいつはおそらく、そして必ずここにいる。山で最も高い場所、頂上に。

山の頂では、オレが生まれるより遥か昔にあったという噴火の影響らしく、黒々した巨石が折り重なって、まるで一本の鷲の爪のような形を作っている。上へ向かって湾曲した様は、今にも天を掴もうとしているようだ。斜面を登り切るのと同時に、オレは一直線に、その巨大な爪の先端を振り仰いだ。


そこには太陽があった。


いや。


大空から降り注ぐ陽の光を受けたその体は、太陽と見紛うくらいに眩かった。


「珍しい事もある」


姉の声を聞き、まず浮かんだのは憎悪じゃなくて安堵だった。良かった、無事に見付けられた。そう思うしかない自分に、激しい怒りが湧く。輝く白光の中から、一対の真紅の眼がこちらを見ている様は、震えがくる程に恐ろしく、そして神聖で、もしも人間がこの光景を目の当たりにしたなら、白蛇天狗を神と崇めたって何の不思議もない。

だがオレはもう、姉への疎ましさも気まずさも怯えも感じなかった。

ここで怯むような余地は、藪に飛び込んだ時に全て置き去りにしてきてある。


「おお、おお、どうしたのじゃ血相を変えおって。

そんなに私が恋しくなったかえ?」

「てめえッ!!」


オレは叫ぶ。白い影がゆらりと揺れた。


「穏やかではないな」

「どの口でそれを言いやがる!」

「はて、私は常に穏やかじゃぞ。

いずれ死すべきその時まで、この山と共に在る定め故に。

山が荒ぶるはならぬ――」


死。

軽く持ち出された一言が、今のオレには嫌でも鋭く突き刺さる。

オレは姉を睨んだ。気分ひとつでいつ立ち去るかも知れない相手に、言葉を選んでいる暇はない。聞くべき事はひとつ。糾弾すべき事はひとつ。求めるべき事はひとつ。それらに辿り着くまで、姉の関心を引き付けておかなければ、あのガキの命運は尽きる。


「お主のような者が、そうまで形振り構わずとなると、理由はひとつしか思い浮かばぬ。このところ顔を見ておらぬが、あれは健やかに暮らしておるかの」

「よくもてめぇはそんな……知らなかったとは言わせねえぞ。

オレが知らなかった事実を、お前まで知らなかっただなんて絶対にない!!」

「情けない事を確信込めて言い張るなや、痴れ者が」

「……っ、それでも……それでも…………ああ…………」


はっきりとは触れず言外に流した、だが、そんな姉の態度こそが明白な答えだった。


「知らなかった事で、あって欲しかった――」


オレの体から力が抜けていく。

聞くべき事はひとつ。それに対する答えもひとつ。

それでも直に姉に尋ねるまでは、米一粒の大きさとはいえ希望は残っていた。

今、それが潰えた。

あいつの体の事を姉も知らなかったのなら、少なくとも、この事態は姉の招いたものではなくなる。だがそうじゃないとなると、姉は知っていて放っておいたか、もしくは自ら意図してこれを招いた事になる。そのどちらにしても、救いなど一切無い真実に違いなかった。


「……あれは……あいつのあれは、病なのか」

「病ではない。山の精に負けているのよ」

「何だと!?」

「山の主たる私の神子となり、山に取り込まれるとは、只の人であるその身に山の精気を巡らせる事。強すぎる気に、娘の体が付いていけておらぬのじゃ。あれの命を、山の精気が食い潰しておる」


姉から語られた内容に、オレは愕然とする。

どんなに重くても、病の方がまだマシだった。

神子である事それ自体があいつを衰弱させているのだとしたら、万に一つも望みはない。


「招いてはみたものの駄目だったか、やむを得ぬ結末よの」

「他人事みたいに言ってんじゃねえよ!!」

「私が死ぬのではないのだ、他人事でなく何事とする?

なァに、やってはみたが叶わぬ事なぞ世には溢れておる。これもそのひとつに過ぎぬよ」

「それなら――それなら、せめて可能な限りの手を尽くそうと思うだろう!!

どうしようもないと判っていたって、せめて出来る事をしてやろうと――!」

「私は思わぬ。

お主は思うのか?

……そうだな、お主は思うのであったなあ……」


姉はオレの咎めた内容よりも、むしろオレの態度にこそ感慨深げに呟く。

互いに、焦点に定めている箇所が決定的にずれている。

やってみた、駄目だった、それなら助ける為に万策を試そう。オレならこうなる。

やってみた、駄目だった、なら仕方ないんじゃないか。姉はこうなる。

腹を立てても無意味だ。考え方の差異は埋められる性質のものじゃなく、そして多分、間違っているのは……。

オレは思考を打ち切り、次の罵声を吐きかけてハッとした。気付いてしまった新たな事実に一瞬絶句する。


「……待て……だとしたら!

あんたがあいつに稽古をつけた事が、尚更あいつの消耗を早めたんじゃないのか!?」

「否定はせん。

神子の技は、云うなれば山の気を直に操っておるのじゃからな、それだけ負担はかかろう」


やはり――!


「だったらどうして、神子としての体裁を整えてやるような真似をした!!

だったらどうして、あいつに修練を促すような真似をした!!

仕方ないから何もしないどころか、殺そうと仕向けてるようなもんじゃねえかよ!!」

「何を言うておる、招いたからには務めを教えるのは当たり前であろうに。

そこらの人の子とて、拾った犬に餌を与える程度の知恵は持ち合わせておるぞ?

私はあれを山に入れた。が、耐えられそうにはない。しかし神子なのだから教える事は教えねばならぬ。どこに間違いがある」


息苦しい。

頭の奥が軋むように痛む。

あいつの体を蝕んでいたのは、この山だった。

あいつの技は、その山の力を使うものだった。

技を使うたびに、あいつの体は知らず痛めつけられていった。

なのにオレは、それを目の前で見ていながら、ああ大したもんだな、などと、呑気に感想を浮かべていた。

気付く機会はあった。だがオレは気付かなかった。気付けなかったんじゃない、気付かなかったんだ。だから姉ばかりを責められない。こうなるまで判らなかったのは、オレの責任でもある。そして、さっきから何より苦しくてならないのは、姉が、妖として当たり前の感覚に基いて話をしているからだ。


「――だからって、納得なんかできるかよ!!」


オレは吠えた。

ここでオレが引き下がったら、あいつの死は皆から肯定されてしまう。


「ずっと、あいつはあんたを信じてたんだぞ!!

あんたを慕っていた、あんたを敬っていた、あんたの後を追っていた!!

それを、もう仕方ないからと切り捨てるのか!!」

「我が弟よ。お主は、魔であるにはあまりに人がましい――」


歌うように姉が告げる。

聞くだけなら耳に心地良い声が、急所を抉る粘つくような厭らしさに満ちていく。


「かつて私とお主とが、山の主たる座を争った時……。

お主は、私の振るう力から逃げずに負けた。

まるで、人間どもの村を守るかのように、その前に立ちはだかってな。

私はそれが不思議でならなかった。避けようと思えば避けられた筈じゃ。なのに何故避けなんだ、とな。だがやがて判った。あれは、人間どもの村を守るかのように、ではなく、本当に守ったのだ、と。

そうと知っても、今度は、では何故守ったのかを理解するのに時間が要った。石ころを庇い、自らを捨てる道理が無い。

ほほほ、それもやがて私には判ったぞ。お主にとって、あれは石ではなかったのじゃろうと、な」

「……当たり前だ。人は石じゃねえよ、判り切った事だろ」

「判り切った事のようで、判り切った事ではない――。

それを判り切った事と言えるのは、ここではお主のみじゃ。

他に同類を求めるならば、それは、人、という事になろうの」


姉の声が、元の調子に戻った。

山頂の大気を濁らせていた緊張感が、一気に緩む。


「……弱りゆく者へ余程の興味があれば、手遅れとはいえ、私も策を講じたやもしれんが」

「じゃあ、あんたは、あいつを……」

「うん……? 私は、あの娘自体に関心は無いぞ。

飽きたと、初めにお主に告げておいたじゃろう、忘れたか?

お主も知っておったであろうに。いや、その口で申したであろう? 飽きたなら喰らえと。

周知の事実を今更、娘に興味はなかったのかと驚かれてもなあ」


オレは言葉に詰まった。

姉は、いつだってその時の愉しいものだけを追い求めている。

誑かされて山に誘い込まれ、あっさり捨てられた子供が泣きながら死んでいく声を、嫌になるほど聞いていた。ただの一度も慈悲を示さず、自分を無邪気に慕っていた者を笑いながら谷底へ突き落とせる、姉。そんな事、オレは他の誰よりも熟知してた筈だったのに。

何故、例外があるだなんて思ってしまったんだ。


「……ならどうして、あんなにしつこく山に入れようとしたり、世話を焼いたりしたんだよ……」

「お主も同じ事を飽きずによう聞くのお。こんなに物分かりの悪い子じゃったか?

娘の世話を焼いたのは、先に申したように、神子を擁する主の務めとして。山に入れるよう、お主に繰り返し勧めたのは――」


次にくる言葉は判っていた。

耳を塞ぎたい。そこには、無関心が生む途方も無い悪意があるのが見えていたからだ。浅ましくも、この期に及んで聞かないという希望に縋りたいなどと。


「娘を山に入れた後の、お主が見たかったからじゃ。

私が望んだのは、あの娘により引き出されるお主の反応であって、娘自体ではないよ」

「ああ」


オレは息の塊を吐き出した。


「初めは実に愉快であった!

私に捨てられた童女を、疎んじながらも見捨てられぬ弟が。伸ばされる手を厭う反面、そこより与えられるぬくもりに飢え、欲し、相反する感情の狭間で煩悶する弟が。懐柔されてからは、少しずつ昔のように素直になっていく様も見ものであったのう」

「……もう、やめろ」

「我が弟よ、お主は乱れておるからこそ愉しい。安定してしもうては、まるでつまらぬ。

神子の死は防ぎようのない流れであったが、思わぬ土産を生んでくれたわ。

さて深く心許した者が死ぬる時、手に入れたぬくもりを失う弟は、果たしていかなる顔を見せるのやら。

私には、どうやらまだ見るべき最後の光景が残っておる。ほほ――ほほほほ!」


姉が甲高く笑う。無邪気に、心からの歓喜に満ちて。

そうだ。その歓喜こそが唯一、姉という存在において確かと言えるものだった。

姉は初めから、童女には飽きたと言っていた。

姉は初めから、オレにしか興味を抱いていなかった。

姉は初めから、何ひとつ嘘をついていなかった。

勝手に勘違いしたのは、オレだ。

姉の哄笑が止む。オレを慰めるように、柔らかく声を和ませる。


「お主が苦しむ必要はないぞ、心優しき弟よ。此度の件、お主に一切の責はあらず。自分が早く気付いていればと、悔やまんで良いのじゃ。

なにせあの娘、はじめから死んでおったのじゃからなあ!」

「雪衣イッ!!」


その瞬間、オレの内で何かが弾けた。

無謀というのすら馬鹿らしい。オレは意味をなさない叫びをあげながら、持ち得る力全てを使って、一飛びに姉へと踊り掛かっていた。翼を持たない体が、軽々と舞い上がる。姉をこうして下に見るだなんて、いつ以来だろうか。

光の中に一瞬捉えた姉は、笑っているようにも、驚いているようにも、呆れているようにも見えた。

だが、それだけだ。

オレに全力を振り絞って出来るのは、こうして蛇にあるまじき跳躍をし、二本の牙を立てて食らいつくだけ。山神に対する反抗としては、小枝を握った幼児の如く、弱々しくて、儚い。


「ぐあっ!」


オレは、元いた岩場に叩き付けられていた。

衝撃が全身に走る。痛い。どう攻撃されたのかさえ判らなかった。

ずるり、と力を失った体が滑り落ちる。傷らしい傷は負っていないようだが、体がまるで動かない。痛みよりも、水が染み込むように全身に広がっていく気怠さが酷い。肉体という壁を越えて、内を流れる気を強く撃たれていた。

一撃。たったの一撃で、身動きが取れなくなってしまう程度の、オレの存在。

その一撃でさえ、かつて争った時の一割に満たない。

山の主という立場から、歯向かう者を見過ごす訳にはいかなかったとはいえ、姉は相当、手加減をしてくれたんだろう。

オレが血を分けた弟だから。

オレの事を、なんだかんだで大切に思っているから。

――でも、あいつは。


「頼むよ……」


最早まともに出せない、消え入りそうな声で、オレは言った。


「飽きたんなら、せめて山から離してやってくれ……。

もう、あいつなんか要らないんだろ……」

「それはできぬ。お主とて知っておろうに。

境界を越えて人を捨てた者を、人に戻す方法はない。解放が訪れるならば、それは命尽きる時じゃ」


持ち上げようとした頭が、ぐらぐら揺れてから、ぱたりと落ちた。

空が歪む。木々が歪む。縫い付けられたように体が動かず、尾先ですらぴくりとも反応してくれない。

とうとう姉は、反逆したオレを責める言葉を吐かなかった。

明かされた無残な真実への、言い訳もしなかった。

それは姉にとって、弁明しなければならない事ではなかったから。

当たり前に起きて、当たり前に終わっていく事で、当たり前に愉しむ事でしかなかったから。

風を巻き起こし遠ざかっていく羽ばたきを、別の自分が聞いているようだった。


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