崩落 - 2
「はぁーっくしゅ!」
で、いきなりこれだよ。
くしゃみだけじゃ治まり切らなかったのか、手を口に当ててごっほごほと咳をする。おいおいと、オレはガキの丸まった背中を見ながら呆れた。ついでに言えば、また唾を引っ掛けられた。それはあれか、いわゆる人間の風邪ってやつか。今からそんな調子でどうすんだよ。山の冷え込みが本格的に厳しくなるのは、まだまだこれからだってのに。そう言ってみたが、どうもガキの返事は曖昧だった。表情もどこか、いつにも増してぼんやりしている。こりゃ本当にやられたか、つくづく人ってのは弱いもんだな。
納得しかけたのが、一瞬で覆る。
人は弱い、それは確かだ。けどこいつは神子として山に取り込まれた身で、ついでに姉のものでもある。だからそうそう、そこらの人間どものように病に蝕まれたりしない筈なんだが。
「あいつはどうした、あいつ」
「ゆいねえさま?」
「そう、それ」
ガキが無意識にか、とんとんと胸を叩く。オレは薬でも貰ってないのかという意味で聞いたんだが、ガキはあいつの所在を聞かれたと思ったようだ。ぐず、とひとつ鼻をすする。
「しばらく居らっしゃいません」
「いないって、おい」
「あ、そんなに長くじゃないよ。前にもこうやって居なくなってたこと、何遍もあったから」
「前にもあったのかよ……」
それも、何度も。
初耳だった。オレが根掘り葉掘り、身の回りの出来事について尋ねようととしていなかったせいもある。これが初めてじゃないだとか、そう長い期間じゃないだとかガキは言ったが、そういう問題じゃあない。いくら只の人の子供じゃなくなったとはいえ、こうして洞穴を作り替えたねぐらも用意されているとはいえ、ガキ一人を唐突に山の中に放り出していくなよ。せめてオレに言付けくらい……と、過去に何遍もあったというその頃じゃ、言付けされても、オレが素直に様子を見に行ったかどうか疑わしいな。ある種の自業自得でもあるか、こりゃ。
まあ、過ぎた事は仕方ないし、今まさに起こってる事も仕方ない。
姉が思い付きだけで好き勝手に動くのは、こっちに振り撒かれる被害と共に飽きるほど繰り返されてきた事で、誰であろうと止めるのは不可能だ。性根がそういう奴であり、そしてそれを可とする力を持っている。オレらみたいな弱者は、振り回され続けるしかない。切ないもんだね、まったくよ。
「この中は大丈夫なのか?
上から水が落ちてきたり、風が吹き込むようにはなっちゃいないだろうな」
「ううん、なってない。
そか、へびさんここに来るの初めてだったね」
「言われてみれば、そうだな」
「もしそんな風になってたら、早めに穴を塞いだり、入口に枝を重ねたりしておくよ」
もっともな事を言われた。オレは首を伸ばして、ガキの背後を覗き込む。頑丈な岩肌に、穴がぽっかりと黒い口を広げていた。
この山で、ガキの住んでいる場所を直接訪れるのは初めてだった。こうして外から見るとまるで熊の棲家で、到底、人が暮らせるような場所には見えない。家というなら、こいつが元々暮らしていた里のボロ屋の方が、まだ人家としての体裁ってのを整えていた。
けど外見はこんな洞穴でも、内部に入ればそこそこ快適なんだろう。大雨の日を除き、一日ずっとこの中に篭っているという訳でもなく、ぼんやり奥が光っている事から考えれば、苔か虫を利用して明かりらしきものも得ていそうだから、初見の印象ほど強烈な暮らしはしていなさそうだ。住めば都とは良く言ったもんだよ。
「せっかく来たんだから、入ってく?」
「いや、いい。用も無いからな」
こてんと首を横に倒しながらの誘いを、オレは断った。ここ暫くはいないにしろ、姉のよく滞在している空間となると、何となく入り辛い。
洞穴入口からガキに視線を戻そうとする瞬間、更に、外気とは明らかに異なる熱の空気を内部に感じた。どうやら中はしっかりと温かくしてあるようで、そこでオレはようやく完全に安心できた。今更すぎるが、ガキの真っ赤な装束も、重ね着して分厚くなっている。
これだけの備えがあるんなら、雪の中やたらと外をうろつく酔狂な趣味でも持ってない限り、寒さに凍えはしなくて済むだろう。食料は、この時期が来る前に集めまくったのが、たんまりあるから問題ない。水場もそう離れてはおらず、いざとなれば雪を溶かして作ればいい。
「そおだ、へびさん」
「うん? どうした」
「朝ね、土が大きく崩れる声を聴いたの」
「さらっと言い放つなよ。場所分かるか?」
「うん、外がもう少しあったまって、歩きやすくなったら見に行こうと思ってたんだけど、へびさんが来てくれたし、一緒に行ってほしいな。なにか起きてたら、お手上げー……だもの」
「行くのは構わねぇけどよ、オレが行っても一切手が打てないのは同じだぞ」
そもそも、手を打って良い件なのかどうかの判断も、オレにはする資格がない。一応はその資格があっても、肝心の能力にまだ乏しいガキ。なかなか上手く世の中は噛み合わないもんだ。
だがそれでも見るだけ見れば気が済むだろうと、オレは先に立って歩くガキに付いて行く事にした。おとなしくしてろと言いたいとこだが、姉の有する山の神子である以上、それが役目を果たそうとする事を、こいつらの関係に対して部外者であるオレには止められない。事と次第によっちゃ口を挟む程度はするが、それだって、本来なら許される事じゃないんだからな。
先を歩くガキが、ふうふうと白い息を吐く。
ああ寒そうだなと思った。オレの吐く息は、ああいう色にはならない。
やがて、現場に着く。
川縁の崖が崩れて、半分くらいまでが土と石に埋まっていた。残っている箇所も不安定だ。半ば堰き止められた水が流れに押し負けて、岸にまで溢れ出している。放っておけば川の形が変わるかもしれない。
「ひどいね……」
ガキが呟く。まったくの同感だった。雨が多い時期ならともかく、なんだって土までガチガチに凍り付きそうな今になって崩れる。考えたって判りっこないので、霜柱に持ち上げられでもしたのかねと適当に納得しておいた。
オレは姉の姿を周囲の木々の間に探したが、当然の如く影さえ掴めない。
いるのかいないのかで言えば、いないだろう、きっと。
知っているのか知らないのかで言えば、知っている、確実に。
つまりオレの言いたい事はというと、あのクソッタレが、だ。
「直しておかないと、春にみんなが困っちゃうよ」
「ったって、どうやって……」
「へびさん、できる?」
「喧嘩売ってんのかお前は。オレを誰だと思ってる」
「へびさんがすごく悲しげな大声で助けを求めたら、ゆいねえさまが出てくるかも……」
「オレのそういう使い方を覚えるんじゃねえ!
……で、真面目な話をするとな、これで山の獣が真剣に困るとなりゃ、さすがにあいつがどうにかするだろ。逆にあいつが何もしなかったなら、山にとってたいした事じゃないと判断したか、さもなければ……」
「さもなければ?」
「大事かもしれないがどうでも良くなった、だ」
姉を深く識る者として、そう話を締める。まるで誇れない。
どのみち、姉が出てこない事にはどうにもできそうにないってのは、オレもガキも半分予想してた事だ。そんな判り切った事とはいえ、ガキは持ち前の諦めの悪さで、ああでもないこうでもないと首を捻っている。実力不足が悔しいってやつだろうな、あれは。未熟さを理解しつつ、できる事がないかを探している時の姿。オレにも少しばかり、あの気持ちはわかる。何故なら、かつてのオレ自身が通った道だから。
オレと違うのは、こいつにはこの先の成長が見込めるって事だ。今は異変を悟るのが関の山でも、いつかもっと高い力と権限を得れば、この程度の事は難なく対処してみせる筈だ。
なんだか、遠く見えるな。先を閉ざされた身としては。
というかな、異変に気付いただけでも実際たいしたもんなんだ。オレなんざ寝てただけだったからな。まだ超えられちゃいないとしても、現場との距離と気構えの違いによっちゃ、こんな具合の逆転もそろそろある。
姉は相変わらず現れず、ガキも諦めたようだ。
じゃ、帰るか。
時期がちょいと前なら、出たついでに他へ足を伸ばしたり、適当に喋ってても良かったが、既にそんな季節じゃない。寒さに参ったりはしなくても、積極的にうろつくよりは石の下にでも潜っていたい。
帰り道、ガキの足に冬の固い地面は歩きにくそうだった。踏まれた白く乾いた枝が、ぱきりと音を立てて割れる。
その夜は、いつになく風が強かった。
びょうびょうと唸る突風に嬲られて、木々の枝が激しくぶつかり合う。
一向に止まない風は、時折、まるで笑い声のように響いた。




