歩み寄るもの - 2
ガキは、迫り出した岩棚の上にいた。
広さはそこそこあって、一歩でも踏み外せば落っこちるような危なっかしい場所ってんじゃないが、かといって、進んで訪れたがる面白みのある場所でもない。蛇の感覚では、だが、人でも似たようなもんだろう。
草が少なくて固い地面の感触を腹に感じながら、這ってガキの隣まで行く。いつもだったらここらで、へびさん、だのという巫山戯た呼びかけがあるのに、今日はぼけっと前を向いたままだ。
オレも、そっちを見てみる。理由はすぐそこにあった。
ここからだと、麓の村が見渡せる。点在する家々は小さく霞み、人影なんぞ見て取る事もできないとはいえ、あの貧しくてちっぽけな村全体を、視界に収める事ができる。
オレは、横目でガキを見上げる。人の表情ってのは、いまだ極端な変化以外は良く分からない。だから幾らか目を細め気味の、ごく小さく頬が上に持ち上がったこの表情が何を指すのかも、オレには分からない。
「面白いか? あれ」
「面白くは、ないね」
「いい眺めか?」
「そんなに、いい眺めでも、ないねー」
「……霧も出てるしな」
「かえって風情があるって言うべき?」
「お前がそう思うんならな」
「あんまり思わない」
「そうかよ」
せいぜい、これまでの出来事から推し量るのが関の山ってもんだった。
問答なのかどうかも定かじゃない、益体もないやり取りが終わる。
さあて、ここで本当に終わりにしとけば、オレとしても比較的心穏やかに日常に戻っていけるんだが。気分良く眠り、数日置きに動く日常に。
どうしたものかね。
「帰りてぇのか」
好んで平穏を破りに行くとは、物好きにも程がある。
しかもそれが他ならないオレ自身だってんだから、笑うしかない。聞いたところで意味のない事を聞くのに、それこそどんな意味があるっていうんだ。
帰りたいと答えられても、その求めに応じる手段は無い。
お前はもう山のものだと、判り切った事実を突き付け直すだけで、泣こうと喚こうと恨もうと、人でなくなったものを人の世に戻す手立ては存在しない。だったら、できない事を聞くだけ残酷ってもんだろうよ。聞かずに済ませる方が、まだ思いやりってのがある。
そして逆に、帰りたくないと答えられたら――。
…………………………。
……答えられたら? そう答えられたら、オレはどうするつもりだった。
「帰りたくはない、かなと、へびさんはそう思うの?」
「お前の事だろ、オレがどう思うかじゃねぇだろ。聞かれた意味分かってるか?」
「んんー、でもね、聞かれてるっていう感じじゃなかったよ。
へびさんが自分の事を聞いてきてるって感じだった。だから、そう思うの?って聞いたんだけど、違った?」
「………………」
「ふむふむ、違わない」
「おい勝手に着地させて解決させんな」
我ながら、食って掛かる勢いが弱い。
なんてこった、だろうな。この心情を言葉にして言い表すんなら。
ガキの方が、よっぽど良く見てやがる。
顔を合わせる度に、こいつの扱い難さが増大していってるのは気のせいか?
いや、扱い難いといえば、初めっからこれ以上ないってぐらい扱い難い奴ではあったけどよ、それともまた性質が違う扱い難さというか、どうも誰かを思い出すような……。
まあ、いい、考えない事にしよう。
なんだかんだ言いつつまだ村を眺めているガキから離れて、オレは少し下がった。ん、ここに来てから痩せっぽちは治ったと思ってたが、こうやって後ろから見ると、あんま成長もしてねえんだな。
「帰りたいとは、思わない、かな」
「思わねえのか、これっぽっちも。あれでも一応はふるさとって奴だろ」
あれでも一応は姉なのがいるのと同じく。
しっかしオレは、更に深くほじくり返すような真似をして、一体何がやりたいんだよ。
ガキは、まったく似合ってない腕組みをして、斜めに首を傾げた。
「……いい目には、あってなかったみたいだから。
自分のされてたこと、やっと正しく分かるようになったの、御山に入った後だし」
「……そりゃア、悪いコトをしたな」
「でも、しょうがなかったのかな」
「そこは物分かり良くならなくていいんだよ」
「分かることが多くなるのって、大変なことも多いんだね。
……にくらしく思ったりはしてないけど、あそこに戻って暮らしたいって思ったりもしないよ」
当たり前だと信じてた事が、離れてみて当たり前じゃなかったと知る。身を切られんばかりの辛さを、それが普通だからという認識が押し込める。蓋が外れて初めて、外の世界を見られる。客観視なんて言葉は知ったこっちゃないが、知らない方が救われてたって事も世にはあるのかもな。
ただ、それならこいつはあそこで口減らしの為に殺されて、死んだ後も殺されて、そして今ここにはいなかった。
――てめぇで産んで食ってりゃ世話ねえよ。
たまに、バケモノのオレが人間を理解できなくなる。
山の獣にも共食いが無い訳じゃないが、奴らは形立てて、順序立てて考える頭ってのを持たない。そんなもんを持ち始めた時点で、そいつは魔に足を突っ込んでるからだ。
だから、獣だったら分からなくもない。けれどもそれだって、滅多に起こる事じゃない。どっかしら奇妙な力で見分けをつけて、自ずと血縁を襲うのは避けるようになってるもんなんだ。
なのに、あいつらは。
わざわざ問い詰めに行きたい訳じゃないが、こいつを見ていると、時々――やり切れなくなってくるんだ。
「御山は楽しいから、ますます帰りたくないな」
「それが自然だろ」
「おっかあやにいちゃは、あそこで、まだ同じ暮らしをしてるんだよね」
「お前が山に入ってからの長さ考えてみろよ。むしろ短さか?
貧村の暮らしに改善がもたらされるのに、充分な時間とは考えられねぇな」
「それなのにしあわせにひたる自分は、ひどいやつなのかもしれません」
「違うぞたわけ」
殺されかけて食われかけて、しかもそれを理解できていながら、まだ家族だって意識があるのか。
やっぱり、オレには人間ってやつが分からねえよ。
「へびさんが怒りました」
「怒るよ。……まァな、ほれ、楽しいなら良かったじゃねえか。なんか前にもこんな事言ったな」
「良かったって、へびさんは思ってくれるの?」
「ああ、良かったよ」
「そう、ふへへへ」
「その不気味な笑い方はやめろ」
「良かった?」
「ああ、良かった」
「帰りたくはならないけど、また、たまにここに来て眺めてもいい?」
「オレに許しを求める必要ないだろ、それ」
「へびさんが心配すると思って。心配の意味はふたつある」
「このクソガキめ!」
怒鳴るだけの悪態をつくのが精一杯とは、オレも落ちぶれたもんだよ。元から落ちぶれちゃいたんだが、遂に落ちる所まで落ちたと認めるのは、また新しい絶望とやらを呼ぶもんだ。
ガキへの応対に、こういう忌々しさ半分の心でいられるのも、面倒臭さ半分の態度を取れるのも、ここら辺が最後なんじゃないかって思えてくるな。
オレは今、感情の曲がり角にいる。
「帰りに三ツ杉隣のくぼみ野に行こう。薪になりそうな枯木を集めておきたいの」
「しょうがねえな、付き合ってやるよ」
本当に、こいつはくるくると良く働く。たとえそれが、たいして意味のない事であっても。生きるってのは、突き詰めたらそんなものの繰り返しなのかもしれないが。
ようやく村の見える崖に背を向けたガキの後を、オレは長い胴をくねらせて追っていった。




