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7.さいしょの朝

覚醒の瞬間というものは唐突なもので、断絶された意識がふと戻ってくる瞬間は定かではない。しばしの微睡のあと、最後には意志の力で瞼を押し上げるのが常であった。

名残惜しく思うそれが、いつもよりすんなりとできたのは周囲が明るいせいだろう。


「……っあ。朝、……」


決まった刻限には側仕えの誰かが起こしに来ることになっているし、朝餉の前後にも女官が挨拶にと部屋を訪れるのがここ最近の常であった。

それが、こんなに明るくなるまで誰も声を掛けてこないということはなく、寝過ごしていたことはついぞない。それはここに来る以前、生家においても。

些かはっきりとしない身体を叩き起こすように、一度伸びをした。まだわずかに残る眠気を振り落すように、一思いに。


「ふっ……」


それが上手く功を奏したようで、私はようやく昨夜のことを思い出したのだった。

傍に殿下の姿がないこともあり、まるで昨夜あったことは夢の類にも思えてくる。

だが、襟元の直しの甘さや身体を横たえている位置、そんな傍から見ればささやかな、違和感程度の違いが昨夜のことが夢ではないと教えてくれる。

妃の部屋で朝日を拝んではいけないという決まりから、殿下は夜が明ける前に出ていったのだろう。

では寝る前、最後に交わした言葉はなんだった?ぼうっと記憶を辿りかけて、慌てて頭を振るう。

ひっそりとひとりで思い返すことが、酷く恥ずかしいことのように思えたのだ。

それは薄明りの中での触れ合いだけではなく、その前の会話ですらもおなじように。

今になって腹からせり上がってくるような羞恥を飲み込むと、もう一度伸びをした。



遅くまで寝かせて貰えたのはきっと、私への配慮なのだろう。おかげで事前に聞いていたような怠さや痛みなどは残っていない。

起き上がらないことには快調とは言えないかもしれないが、今のところはなんの問題ないようだ。


不調ではないのだし、そろそろ起きなくてはならないだろう。私が起きないことで、仕える者たちの仕事が滞ることもあるだろう。

なにより、講義まで完全免除されているとは思い難かったから、開始が遅いほど後々つらくなるというもの。


「おはようございます、翠雨様!」


籠ったような声が聞こえた。さすがに起こしに来たのだろう、扉の向こう側から呼ぶのは涼香の声のようだった。

私は身を起こすと、起きていることを示すように手を打って音を立てた。大きな声を上げて応えるのは、はしたないことだ。

いつもならば手近にあるものを使うのだが、今はあいにくと寝台の上なものだから。不精をしているようで、すこし気不味くなる。


「失礼いたします。お加減はいかがでしょうか」

「大丈夫です。私はずいぶん遅くまで寝てしまっていたようですね」

「最初の晩はそのようなものでございますわ。

さ、清掃をいたしますので先にお召し替えをいたしましょう」



着替えを済ませると、涼香は一度引っ込んでふたりの側仕えを引き連れてきた。

寝台へ向かうと、敷布を剥がしにかかっている。

私は監視するようにそれを見てしまう。気が気では居られないのだ。

これが居たたまれないということだろう。だって、あのひとたちが触れている、あの場で――。


「翠雨様、こちらへ――お茶をご用意いたしましたので。

何か口にされますよね。昨夜もあまり召し上がらなかったのですもの」


ぼんやりと立ったままの私を促すつもりなのだろう、涼香が目前にやってきた。

渋々後についていく。最後に振り返ると、もう新しい敷布を取り付け始めたようだった。

今度こそ、私は涼香の方へと歩んでいく。



朝餉というには遅い時間とはいえ、やはりお腹が空いている。さて卵粥にするか、果物にするかと真剣に検討していると、女官がやってきた。

挨拶もそこそこに体調を気にされたが、問題ないと返しておく。

一度あからさまに探るような視線を受けたあと、女官はほっとしたような顔で頷いた。

隠すこともなく疑われたことには不満が顔を出しそうになる。

身体の不調をわざわざ隠すことなどないだろうとは思ったが、そういえば話題が話題だ。

もしも身体のどこかに名残があったなら、そして痛みを伴うのなら、私は言えなかったと思う。

だからこれは、女官なりの気遣いなのかもしれない。


「殿下は今宵もいらっしゃると仰せでございました」

「はい」


今夜のために話題をいくつか考えておいた方がいいかもしれない。昨夜は、それで随分と苦労したものだった。

あらかじめ話題を用意することは難しいことだったが、それでも夜が楽しみだ。

講義の最中に考える時間はあるだろうか。そんなことをしていたら、注意を受けるかもしれない。今の私が落ち着ける時間と言うのは、やはり寝る前の時間しかないのだろうか。

直前で決まらないとなるといけないから、やはり講義中にこっそりと……。


早く夜になってほしい気持ちと、決まるまでもう少し待ってほしい気持ちが混在する。

いや、そのまえに。


「……では。午後からはまた、ずうっと湯に浸かって洗われていなくてはならないのですか?」

「いえ、あそこまで過剰に洗うのは初夜の日だけでございます。儀式というよりは慣例的なもので、世俗の汚れを削ぐという意味があるのです。

そして、半日かけての湯浴みを今後も続けるのはとても不可能なことでございます。残りの一生のうちの半分を浴室で過ごすことになりかねません」


押し殺した私の声に、昨日の騒ぎはもちろん耳に入っているだろう女官は慈愛の含んだ微笑で応えてくれた。

大きな安堵と情けなさが同時にやってきたが、私は素直に安堵感に身を任せたのだった。



***



「まあ。殿下も甘いものを好まれるのですね」


共通の話題と言えば父親しか浮かばなかったが、そういえば大枠でみれば私も殿下もおなじ人なのだ。なぜ、食べ物という生き物に不可欠な共通事項を見逃していたのだろう。

これならば、話題に困ったときも何とかなるかもしれない。同時に、ここで考えることをやめてはいけないと、強く戒める。

話題の出る内はいいだろうと、毎度食べ物の話しかしないのでは薄っぺらだと飽きられてしまうだろう。

それに殿下は私と話をしようとしてくれている。間を持たせるためだけの会話しかできないのはいやだった。


「蜂蜜は身体に良いものだからな。花によって風味が変わるのも興味深い。他国のものだとだいぶと違うのだ。今度手に入ったら、おまえに贈ろう」

「ありがとうございます。とても楽しみです」


実際手にしたわけではないが、贈り物という言葉に口の端が緩んだ。

どのように異なるかはもちろん気にはなったが、殿下からの贈り物ということが心を浮き立たせるようで、なにやら嬉しさが溢れてくるのだった。

不意に、殿下の手が私の髪を撫でる。それがとても気持ち良い。


「ところで翠雨」


二、三度往復させた手を止めて、殿下がじぃっと私の顔を覗き込む。

触れられてはいても、急な接近に私は息を止めて瞬きを速めた。なぜだか落ち着かない。

今まで誰に見詰められても、こんなことはなかったというのに。


「その、おまえの『殿下』という呼び方なのだが、わたしたちは夫婦だろう?

だから、名前で呼んでほしい」

「な、名前で、ですか?」


ぎこちなさや息苦しさは、簡単に困惑へと塗り替えられた。

確かに家族であるならば、名を呼ぶのは普通だろう。そう、家族。

殿下は、私の家族なのだ。

そう意識した途端、身体の内側の肺や胸まで苦しくなった。


「難しいことだろうか。それでも、呼んでほしいのだ。

おまえはわたしの妃なのだから」


そう、家族なのだから。


「はい、鴇耶様」


緊張で上擦った私の声に、それでも鴇耶様はうれしそうに笑っていた。

その瞬間、胸に詰まるような息苦しさは拍車をかけたようだった。

今夜の私はおかしい気がする。いつもよりも、すべての感覚が過剰になっているようなのだ。

一体、どうして――。


「……っ、」


急に腰を抱き寄せられ、次の瞬間には全身で鴇耶様の胸元に飛び込んでいた。

布越しとは言え、彼の高い体温を感じて身を震わせる。

私の意識が内側に向かっていたせいか、彼が身を寄せてきたことにはまったく気が付かなかった。その油断が、昨夜触れられた感覚をたやすく蘇らせる。

身体中の脈が大きく音を立てて血液の巡りを教えてくる。それは早くて大きいせいか、私の身体は急激に熱を持つ。

羞恥に似ていて、それでも違うとわかる、これは何なのだろう。


「翠雨……」

「鴇耶様」


あぁそれよりも、呼び間違えないようにしなくては。


「鴇耶様」


だからこうやって呼ぶのだ。早くこの口に馴染むように、と。

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