6.初夜・二
なにやら気合いの入ったその様に気圧されて、勢い頷く。そんな私の様子に、同意は得たとばかりに話を進めようとする殿下を宥め、椅子を勧めた。
普段ならば固まってしまっていたかもしれないが、思考が止まっていたからこそ反射的に動けたのかもしれない。
「ただの水で申し訳もありませんけれど」
陶器の水差しを取り上げて碗に注ぎ、殿下の前に置いた。
言外の落ち着けと言う声が聞こえたのだろうか、困ったように笑って彼は碗に口を付ける。
それをごくりと飲み干すと、そっと碗を置いた。すぐさまおかわりの有無を尋ねたところ、充分だとの声が返る。
「すまない、少しばかり焦っていたようだ」
「いいえ」
驚いた。些末事でしかないことで、王族が下の身分の者に謝罪をするなどとは。
困惑でどうにかなりそうだったが、今はそれにばかり気を取られていてはいけないだろう。何とか居住まいを正し、話が始まるのを待つ。
「いくら決められた婚姻とはいえ、わたしはおまえと真の夫婦となりたいと考えている。
よく話し合い、お互いを理解し合いたい、と――。そう、わたしの両親のように」
どこかに――おそらく王と王妃に、だろうけれど――思いを馳せているのだろうか、殿下の視線は遠くにあった。
やがてきゅっと眦を上げ、改めて決意を述べるように続ける。
「肌を合わせるばかりではなく、会話をたいせつにしていきたいのだ」
まずはお互い知りたいことがあれば話そうとの提案がなされたが、急に言われても知りたい事などまず思い浮かばない。
私から質問を募るのではなく、殿下が自身のことを話せばいいのではないだろうか。そこから質問などをして、話を広げて行く方が無難に思える。
それか、私に質問をすればいい。もしや、聞きたいことが浮かばないから私に出させようとしているのかもしれない。
なんとか捻り出そうと、今までにないくらい真剣に思考する。
趣味の話が無難だろうか、それともこの楼の意匠について?でもあれは、女官の反応が悪かった気がする。それなら趣味にしようかと口を開きかけて止めた。確か、この王太子殿下のご趣味は勉学であらせられたはず。
そんな話をしたいとは思えない。今なら間違いなく、途中で眠ってしまうだろうとわかっているからなおさらだった。
何か話題の糸口をと、殿下の姿を目でなぞる。すると机上で組まれた手の甲にたまたま視線が絡まった。私より年下だというのに、大きな手だと思う。
拍子にぽろりと口から零れたのは、おおよそ最初に問う話題にはふさわしいとは思えないものだったけれど。
「そういえば、入られる前にどうして扉を叩かれたのです?」
「?ここは翠雨、おまえの部屋だからな」
「確かにこちらは私に与えられた部屋です。
それでもこの楼は殿下のもの。何を伺うことがあるというのでしょう」
私の言葉に殿下は目を見開いて、次いで瞼を落とした。それは単に眠気に負けたわけではなく、言葉を選んでいただけのようで、やがて口と一緒に開いた。
「確かにわたしはこの楼の主。それでもこの部屋はおまえに与えたものだ。
だからと言って断りなく入るなど……できぬし、したくはない」
「まあ……」
後ろめたいことをするつもりはなかったとしても、黙って誰かが部屋に入ってくるのはあまり気分のいいものではない。私としてはありがたいことだったが、はたして、それは楼主として――次期王としてはふさわしいものなのだろうか。
自らの『持ち物』たる妃にも最低限度の配慮をする、というと聞こえはいいのかもしれない。だがこれを最低というには基準が高すぎる気がする。
正真正銘、所持品のように扱われるよりはいいのだろう。それでも困惑は止まなかった。
その後、ぎこちなくも何度かお互いの質問が往復した頃には私の眠気は最上まできていた。
不規則な瞬きにどうやら殿下も気付いたようだった。
向かい合わせでは誤魔化せるものではないので仕方がない。無礼であるのは承知しているが、本当に限界なのだ。
「翠雨は眠たいのだな。遅くまで悪かった。そろそろ寝ようか。
あ、っと。その……、触れても良いだろうか?」
最後だけ早口で言い切って、手を差し出してきた。
そして寝台まで連れて行くからだとか、そのままだと途中で転げやしないか気になるだとか、なぜか殿下は付け足すように理由を連ねている。
答えの代わりに手を重ねると、やんわりと握られた。自分のものではないぬくもりは、少し暖かい。
「でん、か」
はい。私、とっても眠たいです。
だから連れて行ってくれるのなら、本当にありがたいことだと思う。
できるならおぶさりたいところではあったが、王太子に対してそのようなことをねだるのは問題だろう。凄まじい眠気の中でもなんとか、そのくらいの分別は残っていた。
机越しに重なった手をぼんやりと眺める。手遊びのようにぎゅっぎゅと軽く握って、力を緩めてを繰り返した。眠いとき、ひとは退化すると思う。
するとごくりと喉の鳴る音が聞こえて、その音に誘われるように顔を上げた。
「翠雨……」
「はい、なんですか?」
私の問う声には応じないまま、握った手はそのままに殿下が立ち上がる。そして私の傍まで寄ってきては、するりと身を近付けてきた。ああ、何だか手よりも身体の方が熱い気がする。
気付けば先程よりしっかりと絡む彼の指が、私の手指を撫でていた。私の手遊びを、殿下も真似ているのだろうか。
擦られたところから熱が上がってきたようで、私の意識は眠気の奥に閉じ込められたようにぼんやりと霞掛かり始める。
少し、暗い気がすると周りを伺うと、意外と近くに彼の顔がある。私は反射的に目を伏せ、半歩下がろうとしたが、残念なことに私は座ったままであった。
そこで少し我に返り、そっと目を開けて様子を伺おうとしたのだが。
「……ん、ぅ?」
更に寄せられていた顔は、うまく判別のできないくらい近くにあった。
そのままじりじり近付いてきていたのだろう、唇に吐息が触れた次の瞬間にはもう、ふにっとしたものが当たっていた。
さすがに経験はなくとも、今くちづけられているということは理解できる。
強弱をつけて押し当てられては時折舐められる。
吐息を漏らそうとしたのか、何かを言おうとしたのか、次の瞬間にはもう定かではない。ちょうどそのとき、口を薄く開けたところへ彼の舌が捻じ込まれた。
その瞬間、ぞわり、と全身のうぶ毛が逆立ったような心地がして、背中や腰には身体の内から震えが走る。
身を捩って振り払ってしまおうとする身体は、力が入らないことでその行動を回避できたようだった。
これは、拒んではならないことなのだ。わかってはいても、反射的な動きはどうしようもないこと。拒否できなかったことを、私は頭のどこかで安堵する。
どこか冷静さを取り戻りながらも、意識はさらに混濁していくかのようだった。
ぬるりと口の中を暴かれるような舌の動きは、少し前より滑らかになっているようだ。ひくり、と絡み合う舌が震えた。
身体のたった一部が良いようにされているだけなのに、私のすべてはすっかり翻弄されているようだった。
頬の熱さが異様なくらいで、心音も今までにないくらいに激しく脈打つ。こんなことははじめてだった。
息苦しさと耳を侵す水音にどうにかなってしまいそうだ。支えを求めるように、彼への肩口へと縋りつく。
「は、ぁ。翠雨……」
「あぁ、で、んか」
泣いているわけでもないのに、ふたりの囁くような声ですら濡れていた。
呼ぶのを合図のように抱き上げられる。背後では、椅子の倒れる乾いた音が部屋中に広がった。
私を抱えたまま、殿下はずんずんと衝立を越えて進んでいく。
いくら元が広く、さらに小部屋のように仕切られているとは言え、所詮は一個人の部屋。あっさりと辿りついた寝台にこの身は下ろされたのだった。
上履きを脱がされている内に、私は寝返りを打つよりもわずかな揺れで転がった。衣服と掛布のたわみで背中が痛かったからだ。
そんなことに気を遣っている内に、寝台が軋む。ふたり分の重みを受けたせいだが、元より王太子夫妻のために用意されたものだ、最初に軋む音を立てた以外に何も問題は起こらなかった。
私を見下ろす彼の右目が、遠くの灯りを一瞬だけ反射するように映した。
ぎこちなく私の身体を這う指に首を竦めて身の震えを抑えようとする。
覆い被さってくる暗闇の中――あとはもう、なにも見えない。