4.さいしょの講義
「翠雨様には、先に入られた方として、よりふさわしい知識と作法を身に付けていただきたく存じます」――次の妃が楼に上がるその日までに、妃としてきちんと仕上がっているように。
最後にそう言い残して女官は去って行った。
あいさつの後も留まっていたのは、どうやらふたつの釘を刺すためだったようだ。
ひとつは、私が他の妃たちに害をなすような真似をしないかどうか。下手に野心を持っていないかどうかの確認。きっとそうだ。
妃は翠雨だけだと口にしてからずっと、あの女官が私の反応を観察していたことには気付いていた。あんなに不躾にじろじろ見られたら、いやでもわかる。
もしかして、私にもわかるようにそうしたのかもしれない。警告として。
女官にも序列があるとするならば、彼女のこの楼での地位は上の方だと思われる。
楼内には他にも女官はいるようだったが、用件を携えてやってくるのも自主的に口を開くのも、今のところ彼女だけであった。
その彼女の基本方針が、妃間の諍いを起こさないことであるならば、ここでの暮らしは平穏なものになるのではないかと思う。面倒ごとが起こらないというのは、ありがたいことだった。
だから涼香の、敵を排除せんとばかりの意気込みは無駄であろうし、逆にこちらの足を掬いかねないもの。
今後もそのような素振りを見せるならば、実家に帰すことも考えなくてはならないだろう。
それよりも、私にとっては去り際に差し込まれたふたつめの釘の方が現実的であり、問題であった。
そこまで勉学が好きというわけではないということもあり、王太子との婚姻が持ち上がってから久方ぶりに再開となったそれに、私はうんざりとしていたからだ。
***
朝の時間をたっぷり休息に充てたあと、やってきたのは初老の女性だった。
彼女の指示によりこの部屋に侍っていた涼香や他の者たちは締め出され、そのまま一対一での講義は始まってしまったのだった。
萎縮しそうな心を奮い立たせ、あいさつを交わす。ここには助けとなる身内は誰一人としていないのだから。
「今から行う講義につきましては、決して文字に起こしたりはしないでくださいませ。
こちらは口伝に限らせていただくものでございます」
年齢からして人生経験の豊富そうであること、そしてその秘密めいた口振りから、この講義は房事の類だろうかと検討をつけてみる。
妃の務めと言えば、第一に世継ぎの御子を産むことだ。だからこそ最初に行われる講義として、閨房術というものはふさわしい内容に思えた。
それならば以前に教養として学んでいたものだから、もしかしたら今日の講義は楽ができるかもしれないと密かに安堵の息を吐く。だがすぐに、そうではないだろうと吐き出したばかりの息をひそやかに吸い込んだ。
私は王太子妃なのだ。今更一般でも得られるような知識が授けられるとは思えない。
例えばだが、貴族にすらには出回っていない、王家秘伝の男子を産み分けるための術――それはいかにもありえそうだったし、簡単に習得できるようには思えない。
それを今から伝授されるのだろうか。
「先に申しておきますと、内容の特殊性ゆえ今回限りの講義とさせていただきます。
繰り返しお話させていただくことができませぬので、こちらの機会にしっかりと覚えていただき、実践できるようにしてくださいませ」
「この一度ですべてを覚えなくてはならないのですか?…あまり、自信がありません」
続く注意事項には、思わず口を挟んでいた。
頭に詰め込むだけではなく、実際に行わなくてはならない。それを一度で覚えきらなくてはならないなど、できるとは思えなかった。
そういえば痛みを軽減するための呼吸法などは、すぐにはできずに何度も繰り返してようやっと覚えることができたのだったか。
できなかったらどうしよう。情けなくも、困り切った私の表情に彼女――先生は宥めるような声音で励ましの言葉を口にする。
「翠雨様、大丈夫でございますよ。難しいことはございません」
「ですが、私には……その、一度きりの教授だけで実践など」
「今からお話いたしますのはこの楼からの脱走経路について、でございます。一見分からないようになっておりますが、場所さえ頭に入れておいてくださればいいのですよ。
仕掛け自体は簡単なものでございますからね」
口篭って、だんだんと俯いていく私。けれど、そこに降ってくる声から、どうやらずいぶんな思い違いをしていたらしいと気付く。
ああ、うっかり変なことを口走ってしまわなくてよかった。
普段ならば、はしたなくて絶対に口にすることはないという確信すらあるものの、こう追い詰められると人間何を言うかわからないのだから。
「経路は部屋毎で異なるように配置されております。そしてその仕掛けに関しましても。
ですので、決してご自身以外に、他のだれにも洩らさないでくださいますようお願い申し上げます」
誰にも?それはつまり、
「さきほど退室させた私の側仕えの者たちにも、ということですね?」
「ぇえ、そしてお妃さま方の部屋の経路につきましては、この楼を任されております女官長すら詳細は知らぬこと。
そして側仕えといえど人の子でございます。本人の大切なものは本人しか知り得ぬもの。
ゆえに、絶対の忠誠などありえないのですよ」
何の感慨もなく、彼女はそう言い切った。その無表情は、もしかしたら過去に何かしらあったがゆえのものなのかもしれないし、なかったからこそのものなのかもしれない。それすら読み取らせないまま、平然と自らが殿下の乳母をしていたことを告げた。
「殿下をお育て申し上げたからこその例外…というわけではありませぬが、乳母ゆえに詳細を存じているのです。
こちらの楼の設計に関しましては、私も関わっておりますゆえ」
それならばこの楼を建てたひとたちも、よく知っているのではないだろうか。
直後に口封じという言葉が過ったこともあり、そのことについて問うことはしなかった。
「私以外にこの楼の構造をすべて知っておられますのは設計に携わりました王妃殿下と、こちらの楼主たる王太子殿下のお二方でございます。
王太子妃殿下であらせられます翠雨様には、星天ヶ位の間の経路についてよく知っていただきたく存じます。」
この楼すべての経路を知る権利はない。
それは当たり前のことだと思うから、私は特別言葉を発することもなく頷いた。
誘われるまま、衝立をひとつふたつと越えて部屋の奥へと進む。
先生は何の変哲もない場で立ち止まると、床を示した。
逃走するための経路は一度地下へと潜り、複雑な軌跡を描いて王城の外まで続いている――というわけではなかった。
床には、単に下の層との間にある空間に繋がる扉があるだけで、開けたすぐそばにもうひとつの扉が現れた。その先は2層目へと続くのだという説明が続く。そしてそれが、この部屋の脱出経路のすべてだとも。
2層目へと続く扉は、今回は確認と開け方の説明だけで、実際に開けることはしない。
一度開けてしまうと下から繋ぎ目が見つかりやすくなるなどの不具合があるらしい。だから開けていいのはほんとうの、命の危機に限ると強く念押しをされてしまった。
間違っても、雷雨や嵐の音に怯えて……などということはないように、と。
そこを開けたところで階段があるわけではなく、実際に使用するには部屋の中の布地を伝わなくてはならないらしい。覗いたはいいが、足を滑らせて落ちたなどということになっては困る。言われずとも進んで開けたいものではなかった。
構えていたような、難しいことを覚えずに済んだだけいいのだろうけれど、終わった頃にはなぜだかがっかりとしている私がいた。
そして、このあと昼過ぎからは楼で行われる儀礼とその作法、閨房術の講義が待っているらしい。先程は脱出方法について、という内容自体が秘されていただけで、通常はどういうことがあるかあらかじめ説明を貰えるようだった。
どうせならば、記憶力を酷使しなければならないような講義の間に経路確認を挟んでほしかった。頭の休憩代わりに、ちょうどよかったように思うのだ。
いくら肩すかしであったとは言え、命に係わるものをそういった軽い気持ちで受けていいはずはないのだけれど、それくらいに待ち構えているものが憂鬱に思えるのだった。
以降に行われた講義は書物が存在していて、覚書が許される内容だった。