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終幕

「翠雨」


まるで薄い膜の内側から見ているような心地だった。ゆったりとした動きで寄ってくる彼女はどこか遠い。呼びかける声すらも、上手く耳が拾えないのだった。


「ねえ、翠雨?」


応えがないことにしびれを切らしたのか、誰かの手が私の頬に触れる。

突然の触れ合いにも、私の身体は小さく震えることすらしなかった。驚きも、ましてや警戒すらも放棄してしまっているのかもしれない。ただ、それを受けて緩慢な動作で顔を上げる。大丈夫、聞こえているわ。

最近すべてがここではなくて遠い地で起きたことであるよう。あまりにも遠いせいか、私がそこまで辿り着けることはあまりなくって、ただ途中で道を見失う。


「ふふ、眠いのね。では午睡でもしましょうか」


そんな鈍間な私の扱いには慣れた風で、声に出さずとも私以上に私のことがわかるようだった。確かに頭がぼんやりとしていて、先程から意識が薄れそうになっているのは事実だ。頭の半分は微睡んでいる。

でもどうやら、今はまだ眠る時間ではないらしい。意外に思ったけれど、そういえば今の時間帯を特別意識していたわけではなかった。きっと、もうすぐ就寝の時間なのだと言われても意外に思ったことだろう。

そういえば、ぼやけているけれど室内は明るいようだ。あぁでも、眠いせいなのかちっとも見えはしない。


「はい、ではおくちを開けてごらん。いいこだから、ほら」


大して開いてもいない口腔に流し込まれたものがなんだったのかは分からない。

きっといつもの甘くて、どこか苦い蜜。私はこの味を知っていて、けれどそれはこんな液状のものだったろうか。よくわからない。

これを含まされたあとはいつも意識が途切れてしまう。たとえまったく同じでなかったとしても結局はおんなじだろう。今に辿り付けないから、そうやって目先で起こったことよりも過去の記憶で判断する。


最後に感じたのは唇に触れる指先が与える、わずかな圧。ただそれだけで、その温度なんて分からなかった。


わかっているのは、その誰かが愛しげに私を呼ばうこと。

それに私が安心していることだった。



***



幼虫は一度その身をどろどろに溶かして羽化するのだという。

それでもいずれ生まれ出た先は籠の中。どこかへと飛んでいくことが赦されないのならば、きっとこのまま微睡んでいた方がいいに決まっている。

ずっと響いていたはずの、湿り気を帯びた音を改めて意識すると、ようやく自身がもうすでに原型の保てないところまで来てしまっていることに気付く。これはまさしく私がどろどろに溶けてしまった音なのだ。

薄暗闇のなか、見えないながらも目を瞑る。いっしょに耳を塞ぐことができればよかったかもしれない。

きっと溶ける音を耳に入れないようにできたし、この音が聞こえなくなったとき、私はきっと変わってしまっている。そのことに気付かずにいられるのだから。

だって、私はめざめたくなんてないのだもの。


熱を含んだ溜息は、いったい誰のものだったのだろう。

私は吸い込んだのだったか、吐き出したのだったか。繰り返し、繰り返しては元の持ち主をわからなくさせる。でも、それでいい。


「あ………う、ぁ」


まともに動かない舌での呼び声に、返ってきたのは息を飲むような音。

それと同時に、身体の一部が室温より冷たい空気に曝される。それは先程まで生温く感じていたときとの温度差にちがいなくって、無性に泣きたい気持ちになった。

その次には、口の中に甘さと苦さを感じた。

じきにまた、思考は濁り始めるのだろう。今でも頭は上手く働かないというのに。


――それでも私はわかってしまっている。

きっともう出られない。羽化なんてできるわけがない。私は私を囲う虫籠を見ることすらしないだろうと。なぜなら私は。ぁあ、駄目。

鈍い思考を這いずるような速度へと切り替えるように落としていく。固まってしまうことのないように、この意識がもっと溶けていくように。

最後にきつく、きつく目を閉じた。たとえそれが、他の感覚を尖らせるようなことになったとしても。

私には、それしかできなかった。



***



考えていたのは何であった?

後悔も、ぜんぶ忘れて溶けていく。

心のどこかがずっとくるしかった気がする。


なにか……なにかあったように思うのです。

長い夢のあとに削ぎ落ちていく、何かが。

でもきっと、留めていられないほどの些末事に違いないから、覚えていられないのだろう。


「――、」


誰かが呼んでいる。

たぶん、恐らく。それは私の名。――でも、あまりよく聞こえなかった。


強い眠気に、抵抗することもなく意識を手放した。

そうしてまた、どろりと甘い夢に浸って微睡むのだ。






【籠のなかの(蟲卵) 了】

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