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~銀砂~

決して叶うことのない想い。

悋気に歪められた顔を見た時に、わたしは初めてこの想いを自覚したのだと思う。

彼女には夫がいることは知っていた。それでも実感が湧いたのはまさしくその時。

いつの間にか、本当に気付かない内にわたしの心は彼女に囚われていた。

最初に惹かれたのは眠る彼女を目にした時からなのか、それとも時間を重ねた結果によるものなのかは分からない。

けれど、今のわたしの気持ちはそれらすべてを経てできあがったものだった。



***



先程意識を落としたばかりの彼女の頬を撫ぜる。

彼女の元へは、三日に一度を除いて通ってきていた。それはまさしく、薬物を摂取した晩だった。

いつもはこんな風に大胆に触れることはできなかったものだ。

起こしてしまうのが恐ろしかったからだ。けれど、もう構わない。覚悟を決めたのだ。

懐を探って、もうひとつの筒を取り出した。中には先程のものと同じように薬液が入っている。

それを翠雨の薄く開いた口に流し込んだ。余計な抵抗もないから、ゆっくりと、少しずつ含ませていくことができた。

急に流れ込まないよう、顔をわずか横倒しにする。顎と喉を手で探って、こくりと上下するのを感じ取れば次の一口を流し込む。

それを吐かせないよう、慎重に繰り返すのだった。



彼女は酷い女だった。

わたしの気持ちを無造作に弄ぶ。

甘えるように身を寄せて、時には拒んで見せて。そのくせ何食わぬ顔で頬に口づけてくるのだ。そして同じ口で複数の妻を持つあの男への愛情を語る。

そのせいで秘めたままでいるつもりだった心は、激しく浮き沈みを繰り返す。翠雨の態度がわたしを諦め難くさせている。

わたしの気持ちにはたして彼女は、本当に気付いていないのだろうか。疑わしく思うことは多々あった。問い詰めようとしたことも。

……いや、それは知りたくない。どちらであっても苦しいことに変わりはないのだから。どちらにせよ、受け入れられることはないと、分かり切っている。

振り回された分だけ、わたしの内に見えない何かは溜まっていった。そして苛立ちと焦がれる気持ちは似ているのだと知った。

やがてある晩、わたしはとうとう限界を迎えた。子ができたかもしれないと、突き放されたのだ。


そのときの翠雨の声を思い出してしまって、わたしは苛立ちを覚えた。彼女への愛しさには時折憎しみが混ざるのだ。それがとても悲しかった。これからも消えることがないのだろうな、と思った。

彼女の頬を軽く摘まんで、引っ張ってからつねった。少しだけ胸がすっとする。


顔への刺激を受けても彼女は目覚めない。

今夜は過剰にあの薬を与えてしまったせいだろう。もしかすると目覚めが悪いかもしれない。

朝になれば騒ぎにでもなるだろうか……。ふと気になったが、女官は何も言わせまい。揉み消されるに違いないのだから。起きなくっても、だいじょうぶ。

女官も、そして側仕えも今やほとんどがあの男に掌握されている。自身の配下や妃の配下に対して掌握というのもおかしい気がするが、一枚岩とはいかないようだから、間違ってはいないだろう。

現に、何かあれば命を賭しても翠雨の肩を持つであろう者がふたりほど、楼を去っている。

理由は働き続けることのできないほどの病が発覚したから、だそうだ。急激な視力の低下があった者、片や身体の痺れが見つかった者――これがあの男の仕業だということに、わたしは気付いていた。



身体を開いただけのことで、よく働くものだと思う。

翠雨を触れたすぐあとでなければ、この身を与えることはできない。

そんな条件すらも与えたのに、だ。

飲まずに力づくで従わせることもできたはず。けれどこの男はわたしの心までをもほしいのだと言う。だから無理強いはできないのだと。

そのくせ血を分けた妹や自らの妃に数々の所業ができるなど、酷い矛盾を孕んでいるのではないか。

翠雨の周囲から親しい誰かを取り除くよう要請したのも、薬物の提供もわたしの手によるものだった。だが、そのほかの細かい立案はあの男に任せきりであった。

よもやわたしが望んだからと、転嫁するつもりなのだろうか。それともあれにとってはわたしだけが重要で、平等や平和などはとっくに捨て去っているのかもしれない。どちらにせよ愚かしいと思ってしまう。

わたしの気持ちに気付いているようなのも、それに拍車をかけるのだった。


女同士だからわたしは翠雨とは交わることができない。

この男はあくまで媒体であって、……そう、わたしたちを交わるただの『物』だ。役割を与えることができれば、何もかも許せる気がした。

翠雨に触れるのも。

わたしに触れるのも。

けれどそうすることでわたしたちは互いの温もりを感じることができる。気持ちの処理は、簡単にできた。

でも、それももう不要だった。

このまま目覚めなければいいということに気付いたからだ。そうすれば翠雨はもうわたしだけのもの。焦って身体を望まなくともいいのだ。

むしろ翠雨がその身に子を宿したなら、わたしはまた遠ざけられてしまうだろう。

今にも起き上がって、逃げ出してしまうに違いない。起き上がることの叶わないだろう彼女を今この腕に収めていても、そんな妄想が湧き上がる。

あの男にはもう触れさせないようにしよう。でもそうなればわたしは肌を合わせることに耐えられるだろうか。それも、翠雨が抜けることでその頻度は上がるというのに。

……いや、あとで考えよう。

気分が悪くなりそうで、わたしはいやな想像から手を放した。


「うぐ、」


そこで苦し気に唸った翠雨の口許に耳をやった。今度こそ薬液で喉が塞がってしまったのではないかという危惧は無用のようで、息が詰まっているということもないらしい。

安堵のままに肩口に顔を押し付ければ、うまい具合に耳は首筋にくっついた。脈は少し早いかもしれない。しばらくこのままならば考えればいいだろう。

脈打つ辺りに唇を押し当てた。触れてすぐ放し、また触れるのを繰り返す。頬ですらあれほど躊躇っていたことが、今はもう易々とできた。

満たされていく心を感じる。

つい口の端が緩んでしまうのを感じながら、わたしは薬液を流し込む作業に戻った。

手持ちは二本きり、これが最後の一口だ。この筒が空になったなら、一度部屋に戻って新しく持ってこなくてはならない。

せめてあと一本分は注いでしまいたいから。


わたしは寝ている彼女が好きだった。もう翠雨は苦しそうにわたしを見ることはないだろう。

あぁ、それなら最初からこうすればよかった――。


「ね。だいすきよ、翠雨」


わたしの一番の大切は、物言わぬ彼女だった。

最初に出会ったあの日のままの。

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