4.渡せなかった手紙
銀砂に手紙を書こうと決めた。
朱璃姫や鈴杏様ともしばらく言葉を交わしていないが、このふたりは後にする。いや、一旦不要としていいだろう。
何を書けばいいのかが分からない。伝えなくてはと強く思う気持ちもないのだから、筆を手にしても思い悩むことは必至であると言えた。
今の私はたったそれだけのことでも消耗するように思う。
……こんなときにも、まずは言い訳から入っている。銀砂以外に書かなくてもいい理由を探す必要は、ない。
そこにあるのは彼女たちへの後ろたさというわけではない。銀砂は恐れる気持ちから出たものなのだろうから。
銀砂への手紙を書こうと思い至ったわけだが、私の内でそれを押し留めようとする動きがあるようだった。
他のふたり如何よりも、まずはどのようにして銀砂の元へ手紙を届ける方法、文面においても工夫しなくてはならないこと。何より、どのようにして道具を手元まで持ってくる方法について――命じたところで側仕えたちはいい顔をしない。自身で取りに行くなど言語道断であった。
優先して考えなくてはならないのはここの辺りで、銀砂以外は二の次のはずだ。
けれど体調の悪さがそうさせているのか、今更という想いがそうさせるのか、私の思考は寄り道ばかりして、大事なところで動き出すこともままならない。
何とか強い意志で軌道修正を図った。
まず道具だ。それについては皆が退室したあと、夜に取りにいくしかないだろう。
けれども暗くなればすぐに寝てしまうために、中々上手くいかない。
ほんの少し前までは、もう少し遅い時間まで銀砂と話していられたというのに……。
ならば朝はと思ってみても、身体が重く動かない。
鴇耶様と過ごす夜は何とか起きていられるようだ。その違いはきっと、身を起こしているかどうか。それ気付いて試してみたが、失敗を繰り返すこととなった。
ならばと、鴇耶様の訪う日に試みたら一度目にして何とか手にすることができた。
道具一式は寝台の近くに隠しておく。
書くにも側仕えたちの目を掻い潜る必要がある。これについては立ち歩く用も容易く、頃合いを見計らって少しずつ進めていけばいいだろう。
手紙を書くには一体どれほどの時間がかかるのか。そんな危惧は不要だったようで、あっけなくも一日で終えてしまった。
長い文面でなかったのだから当然とは言えたが、私はここでやり遂げたかのような感傷に囚われてしまう。いや、これも一種の逃避なのだろう。
一番の問題はここからだった。どのようにして彼女の手元に届けるかという、その一点が何よりも困難を極める。
他の誰かを介するという選択肢はなかった。面倒ごと以前にこれは銀砂に向けて書いた手紙だから、そうでない誰かの目には触れてほしくなかったのだ。
――時折意識が遠のく、芯のない思考の中でそれでも頭の大部分を使っていたせいだろう。
私は渡された薬湯にむせて、少し零す。口直しにと渡された寒天菓子に至っては、口に含むことなく袖口の奥に転がしてしまった。
口の中が気持ち悪い。苦みでおかしくなってしまいそうだった。
持ってきた涼香はすでに退室しているものだから、追加を頼むわけにはいかない。
最近習慣付いてはいるものの、口直しの甘味がなくとも平気だ。だが、何もなしでやり過ごせるものではない。
慌てて水差しから二杯分の水を干すことで何とか人心地付くと、次に気になるのは菓子の行方。
早く取り出してしまわないと、体温で溶けてべたついて汚してしまうのではないかだとか寝心地だとかが心配になってくる。それに、虫も怖い。
しかし手を潜り込ませてみれば、容易く取り出すことができた。
汗を拭うようにと置かれた布で軽く腕を撫でつけ、そうして最後に救出された菓子を包んでから寝台脇の小卓に放っておく。処分を告げるのは朝になってからでいい、人を呼ぶまでもないことだ。
ようやっと落ち着いて、私は元の通りに掛布の中に吸い込まれていった。
***
ふと、目が覚めた。まだ暗い。瞼を押し上げながらも、私は誰かの熱を身近に感じていた。
覆い被さるように、力の籠らない柔らかさで抱き着かれているようだった。
「銀砂」
「起こしてしまった?」
思わずその名が口をついて出たけれど、それがそのまま確信の強さというわけではない。本当に無意識のもので、たまたま、偶然なだけであった。
相手問わず、この場での一番の正解は鴇耶様の名を出すことだったのかもしれない。彼女の声を聞きながらそう思った。
もしもこれが逆であったなら。添い寝の鴇耶様に向かって他の妃の名で呼ぶというのはどうにも通りが悪い。抱き締められていたのだから尚更のこと。
何より鴇耶様の前で、あまり彼女の話題を出したくはなかった。
銀砂は私の頭を撫でて、――でも、その感触には何やら違和感がある。
すぐに離れた手は軽く握りこまれていた。あまりよくは見えないが手にすっぽりと収まるような大きさの、細長い何かが見える。違和感はきっとそれごと私に触れたせいだろう。
「もっと早くに起こしてもよかったのですけれど」
「起こしたくなかったのよ」
「もしかして、それは今夜だけでなくずっと?私が起きるかもしれないと、こうして待っていてくれたのですか?」
ふと気付いた可能性を口にする。いや、今までも危惧していたことだった。
昼間は誰かしらが側についていて、面会不可とされている。だから、銀砂はこうして忍んで来てくれていたのだろう。そうだというのに、私は鈍感にも寝続けていた。
体調については聞き及んでいるから、無理に起こせなかったに違いない。私がこうして自然と目覚めるまで待っていてくれたのだ。それはもう、何夜も。
返事はせずに、彼女はそっと身を起こした。
続いて起き上がることはしなかった。横たわっていても下に沈み込むような心地がする。身を起こしたならばきっと、絶え間ない眩暈に襲われるに違いない。
僅かに彼女の方へ向けて首を動かす。覚悟していた気分の悪さも顔を出すことはなく、思ったよりかは易かった。
銀砂は寝台の脇の、丁度私の頭に近いところで腰を落とす。
位置取りを終えても、先程の私の問いへの返答はなかった。よく口の回る彼女が黙っていることは滅多にないため、その真意は推し量れない。
推測に意識を割いていたせいか、そのまま黙ってしまった。銀砂はそれを答え待ちだと勘違いしたのだろう。観念したような溜息を洩らす。
つまり、ある程度高い頻度で訪ねて来ていたようだった。
「翠雨のずっと、って期待に満ちた言葉を切り捨てるのと、寝ている隙にしか現れない不審者になるのと。好きな方、どちらかを選べというのは難しかったみたい」
言ってから、寝台の縁に額をぐいと押し付けた。その仕草は羞恥を拭っているように見える。揶揄おうとして失敗したせいかもしれない。
迂闊な彼女は珍しい。可笑しくて笑ってしまった。
つい声にまで笑った空気を乗せてしまうのは、気分がとても上がっているからだ。
久方ぶりの彼女に懐かしさを覚えるより先に、喜びが吹き上がっては舞い昇る。
「待たせてしまってすみません」
「嫌だとは思わないの?すごい寝姿、見てしまったかもしれないでしょう?」
「いいえ。どうあっても、私を気遣って待っていてくれたこと、今ここにいてくれることへの感謝は変わらないです」
恐る恐るといった体で伺う彼女に、今度こそ私は本音を告げた。
「だって、私はずっと銀砂に会いたかったのです」
変なところを見てしまったならば忘れてほしいだとか、その前に遠回しにでもこっそり教えてほしいだとか、そういう気持ちはもちろんある。けれど今は口にするところじゃない。
それはまた別の機会に聞けばいい。
銀砂ならばきっと少しは揶揄うと思うが、決してないことを大袈裟には言わないだろう。騙された振りでもしてみようか。そうして慌てて種明かしをする彼女を驚かすのだ。
そんな受け身の企図、もとい夢想に沈み込んでいると銀砂が引き上げてくれた。震えた声で。
「ほんとう、に?」
「そのときにも言いましたけれど、会わないと言ったのも世継ぎの子ができた可能性があったからです。大事を重ねただけで、嫌になったわけではないのです」
「それは理解しているわ。そのあとの事情も……わたしは、ちゃんとわかっている」
ならばなぜ。分かっていると言うのなら、何を問うのだろう。
私の会いたいという気持ちをどうして疑うのだろう。
銀砂の様子がおかしい気がする。ずっと話始めに若干の戸惑いが見え隠れするのを感じていた。それは久しぶりに会うからだとか、会わなくなった理由だとかが原因の気まずさなのだと、そう思っていたのだが。
会話というよりか、自問自答のような。私への声掛けには聞こえないのだった。
――しばし、ふたりの間に沈黙が下りた。
「次の機会も翠雨は同じように願うかな?夜は会わない、と」
「そうなるでしょうね。私はあまり、身体が丈夫ではないみたいですから。でも落ち着けば昼間にも会え、」
「どうして、……どうして。ねえ翠雨」
対して、私は惑う声を漏らすしかなかった。
どういった意味合いでの問いかけなのかが分からない。銀砂自身も分かっていないのではないかとすら思えるような、形を成していない問い。
「ずっと、というわけではないですよ?子が産まれて、落ち着けば夜も会えると思います」
迂闊に答えるのは躊躇われた。
けれど、銀砂の言葉がきちんと形作られるまで待っているなどできなかった。
そうなれば後戻りができないような、そんな予感がするのだ。そう不安に思う心はまやかしで、私も静かな恐慌へと転がり落ちてしまっていたのかもしれない。
力の上手く入らない手を伸ばして探ると、横に避けられていた掛布が指先に当たる。それを握り締め……ることは叶わないから、引っ掛けるようにして寄せてこようとする。でも、そんな簡単な動作もできないようだ。上手くいかない。
「落ち着く?乳母に任せられるから?うそ。ちがう。そうなれば翠雨の一番大切なものは、きっともう、絶対に動かなくて。動かせるはずがなくって。それ以外は、わたしは、もう」
一層動揺する銀砂の様子に、私は呆然と見ているしかできなかった。頭が働かない。何を言っているのだろう。
答えを求めない、押し殺した叫びのようだった。
「だから!だからだからだから!もう、今しかないって。そうすれば翠雨の一番は、」
「私の一番、大切なひと、は、」
ただ言われたまま、なぞっただけの言葉。その先に何か明確な意思があったわけではなかった。
それも言い切る前に、今まで薄ぼんやりとしながらも見えていたものが見えなくなる。
「――今なら一番に、なれるよね!!」
声で、その手で。続く単語のないはずの、私の言葉を切り裂いた。
そう、瞼を覆うのは、銀砂の手。そんなことをしなくとも、こんな暗がりでは何も見えないのだけれど。
だが私の心理面では良い働きかけになったらしく、そこで少しばかり我を取り戻す。
真意を問うべく開いた口には何かが捻じ込まれた。硬質なそれが一体何であったか確認する手前に意識を掻き混ぜたのは口いっぱいに広がったのは甘い香り。
慣れ親しんだこの味は、私のよく知るものだった。そう、それは何であったかと思考する間もなく、あの寒天菓子が思い浮かぶくらいに。
彼女によって、濃厚な蜜を流し込まれていた。喉奥まで伝うそれに私は激しくむせた。
顔を覆うように這う手を振り解いて、身体を曲げる。咳き込んだところで、液状のそれはもう、ほとんどが胃に落ちてしまった後だった。
荒い息に時たま咳が混ざる。その頻度が落ち着くと、再び銀砂の手が伸びてきた。
容易く引っ繰り返されるのは、息も絶え絶えなせいだ。
無防備に曝け出した口内にもう一度、先程と同じもの――木筒が差し込まれた。
暗い室内では、相変わらず銀砂の表情は見えなかった。
役に立たない視界とは別で、二重、三重へと歪んでいく意識ではもう抗うこともできない。
吐き出す力さえ出せない私は、それらを客観的に観測していた。こんな状況だというのに、焦る心は少しもない。
乱れた襟元が外気に触れる。喉を伝い、いつの間にか垂れた蜜の存在に気付いた。歯痒さをもたらすが、拭うこともできない。
されるがままになっていたが、やがて喉を塞ぐ蜜によって私は気を飛ばしてしまったようだった。
私の、一番の大切な。
ほら、邪魔をするからその先を考えられないまま終わってしまった。
目覚めたら、きっともっと分からなくなっている。




