2.輿入れ
王城の奥、王族の居住区域には一定の距離を置いて何本かの楼が建っている。
そのひとつひとつが王族の男子の住処だ。
無事に7つを迎えると建築が始められ、10歳を迎える頃にできあがる。
楼は持ち主がその命を終えたとき、あるいは王家から離脱の際に取り壊される決まりとなっていた。
高さはどれも同じ4層建てで、規模もそう大きくは変わらない。そう、それが今代の王であったとしても。
ただ、大まかな形は同じせいか、外観には多少の違いがあった。それは建てられた時期の流行や技術による程度の差異だけではなく、それぞれが景観を損ねることなく個を主張していた。
そして、内装に関しては外装以上に異なっている。それは防犯の意味で造りが入り組んでいたり、男児の母の好みで決めていたり、はたまた占いの結果で取り決められたりと様々であった。
今代、この地に建っている楼は全部で4本――王と王弟、王太子ふたりのものだった。
***
馬に引かせた車は城内に入ってすぐに降り、そこからは紗幕に包まれた輿で移動することとなった。そして王族の居住区へ入った今は、人の壁に囲まれながら歩いている。
王族に連なる者の元へと輿入れする姿は、滅多に人に見せてはいけないものだった。
色とりどりの花や布で飾られた馬車や輿が、どれだけ豪奢ですばらしくとも、堂々と人目に触れるということがなかったのはもったいない。
きっと窓枠の奥からの目はいくつもあっただろうけれど、そんなに離れていてはあまりよく見えなかっただろうから。
同時に、自分の姿を見られないでよかったという気持ちも確かにあったのだけれど。
屋敷から連れてきた数人の使用人を周りに侍らせて、ゆったりと進む。
いつもはほとんどを背に垂らしている豊かな黒髪は、高い位置で編まれている。そこに差し込まれたいくつもの飾りからは細かな鎖や鈴の細工が付けられており、足を踏み込む度にそれらが擦れ合って軽やかな音を溢していた。
重心が頭の上にあるのがはっきりと意識できるくらいに、その存在を伝えてくる。頭を揺すらないように歩こうと努めている今は、まるでそこを摘んで進まされているような錯覚さえした。
ひっそりとした花嫁行列はなおも進む。
一番手前に建っていた楼を充分な時間を掛けて過ぎると、やがて珍しい意匠の楼が目に入った。
「まあ…」
きらきら。
なにか混ぜ物でもしているのだろうか、朱塗りの壁は陽の光を反射して、時折ちかちかと煌めいている。
「あちらが黎陽楼にございます」
噛み殺しきれなかった私の小さな驚嘆を拾ったようで、先導する女官が前を向いたまま、そっと囁いて教えてくれた。
黎陽楼――それは鴇耶様の楼だ。
煌びやかで美しく、陽の光が地上に降りてきているようだと、その評判を父からは聞いていた。そのときは金細工の派手な装飾の建物を想像していたのだが。
「とても、きれいなのですね」
そんな陳腐な台詞はめずらしくもないのだろう。女官は、今度は何も言わなかった。
その間も私たちはその瞬きへと向かって進んでいく。
少しずつ近寄って行くなかで気付いたことは、この建物は離れて見る方がいいようだということ。小さな輝きは、遠目であれば数えきれない複数を視界に収めることができるだろうけれど、近くからではその壮大さは薄れるばかりにちがいない。
あっけなく静まっていく興奮のなか、私はそう益体もないことを考えている。そろそろ頭の重しにも慣れた頃というのもあるだろう。
招き入れられた屋内まではさすがにきらきら光っているということはなかった。
少しだけ不安に思っていたものだから、よかったと安堵する。室内灯が揺らめくたびに、ちかちか瞬くようなところで生活するのは目が疲れてしまうに違いない。
そんなところには住みたいとは思えなかった。
内側にいるときには煌めく姿は見えない。けれど、私はこの輝く壁に包まれて生活する。
それは次期王の妃たる身の上を象徴するかのような楼だった。
今日よりここが、私の住処となる。
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本日が輿入れとは言っても、殿下はただいま不在であった。
通常の婚礼では考えられないことだが、なにやらしきたりの内らしい。
竜の巣へ行って鱗を取ってくるように、というような試練でもあるのだろうか。それなら愉快だとは思うが、実際は堅苦しい儀礼であったり、何をするでもなく単に顔を合わせない程度のものなのだろうけれど。
実際の顔合わせは3日後だそうだ。そのことについては、待ち遠しい気持ちも、恐れる気持ちもなかった。
それまでにある程度はここに慣れることができればいいと、今考えているのはそれくらいのもので。
「こちらの階層はお妃様方の居住区となっております。
ご自由にして頂けますのは、基本的にこちらのお部屋。そうお考えくださいましたらと存じます。共有の場所に関しましては、後程殿下が取り決められるかと」
ぼう、としていた意識を引き戻すような女官の声に応じるように首肯した。
「えぇ、わかりました」
「御用がおありでしたら、なんなりとお申し付けくださいませ」
滅多なことなく自室周辺以外を出歩くことが良しとされないのは、生まれ育った屋敷で育んだ価値観と、そう変わりはしなかった。
部屋へと通されて疲れを労われたあと、最初に簡単な注意事項のひとつとしてそれを伝えられた。細かい部分は追々、とのことで今日はもう休んでもいいそうだ。
今日は、という言葉にでは明日からは何が待っているのかと身構えたせいだろうか、女官はそれに気付いてすかさず付け足した。
「明日からは、座学と行儀作法の勉強がございます。
一般的な行儀作法につきましては、翠雨様は完璧でいらっしゃいですので、明日より学んでいただきますのは、王族としての特別な作法となります。
座学に関しても、そのような内容でございます」
勉学の日々から解放されるのはまだ先のようだった。
これではまるで、花嫁ではなく学士のようではないか。精神的な疲れが少しだけ増した気がする。
婚礼準備と称して、私は短期で歴史や現在の王城に関する知識を詰め込んできたのだった。たった数ヶ月のこと、あまり身になったとは思っていないが、そうかまだ不充分なのか。
女官がこの場を辞してから、深く、長く溜息を吐く。
この不作法も、今日は見逃してほしい。身体も心も、とても疲れたのだ。
そんな私を横目に卓上に茶器を並べているのは、屋敷より連れてくることが許された数人の使用人のうちのひとり。彼女――涼香が慰めるように口を開いた。
「本日はお疲れ様でございます。
お茶の後はしばし横になってお休みになってくださいませ。夕餉の前には、お声掛けさせて頂きますので」
「………ありがとう。でもお茶の前に、この結った髪を解いてほしいのです。
すこし、窮屈で」
「まあ、それはいけませんわ!気が回らず失礼をいたしました」
それからこの衣も早く脱いでしましたいと、私の情けない声に慌てて涼香が飛んでくる。
それがあの日の、父からの伝言を持ってきた彼女の姿に重なって。少しだけ、懐かしいなと思ったのだった。