~涼香・一~
甘い匂いがする。
糖衣に覆われた寒天菓子は白く澱んでいるように見えた。
けれど、効能を考えればそれを口にしたいとは到底思えない。
分かっていながらも、私はそれを主に供する。
この菓子の振りをした何かは、摘まんで力を込めてみれば簡単にひびが入るだろう。
***
私は国内で三指に入るほど大きな商家の出だった。
生活は恵まれたものであったが、歳を重ねるにつれてある思いを抱くようになる。
この家を継ぎたい、跡取りというものになってみたい。
けれどそれは叶えようもない望みだった。
数年先に生まれた兄は健在で、すでに事業を任されていた。今から追いつくことはできないし、何より私は女であったから競争どころか学ぶ機会すら与えられない。
それに歯噛みし、野心を隠さない私は扱いづらい娘だったのだろう。父親と兄の手で、ついに婚約者の選定が進められることとなったのだった。
憤る私に、女の野心は男のそれとは違うのよ、と母はそう言って宥める。
婚家を掌握せよと、そこで子を成して自分のように裏から支配するのだとそう言いたかったのだろう。
そんなことは望んでいなかった。私は、私だけで立ちたかったのだから。
だから婚姻という、相手の家に降らなければならないということはできるかぎり避けたかった。いずれ取り込まれなければならないにせよ、商家や役人、下級貴族で妥協するのは嫌なのだ。
でもそれが転換点。母の言葉で私は自分が欲しかったもの――地位がほしいということ、に気付いたのだった。
自覚すれば行動は早かった。習い事の先生の伝手で、私は時の宰相のお屋敷勤めの職を手に入れることができたのだ。
掌握するならば大きな家の方が良い。ここを足掛かりに、王城へ入ることも叶うかもしれない。――そんな野望を抱きながら、私は自らで選んだ道を進むこととなった。
***
私の雇用主は宰相閣下である。が、主は誰かと問われるならば翠雨様ということになるのだろう。
翠雨様はお屋敷に居た頃は鈍いだけの、ぼんやりとしたお嬢様だった。
当時から接触はあったものの、まだお屋敷全体の仕事が大半であったため、時折言葉を交わす程度の仲。つまり、とくべつ親しいわけではなかった。
だから王城へ上がるとなったとき、彼女の側仕えに立候補したのは自分の野望のため。離れたくない等の殊勝な理由ではなかった。
もちろんまったく忠義がなかったわけではない。でもそれは、翠雨様個人ではなく宰相家へのものだ。
翠雨様は楼に入り、王太子殿下に嫁してから変わっていった。色気付き、けれど同時に醜さをも増した。
悋気に歪む顔に、主を慮って一言添えてやれば次には澄ました顔で叱責を始める。あれで他の女への悪意を上手く隠せていると思っているようだ。
八つ当たり染みたあの振る舞いはうんざりとするもので、それならば直接挑んで勝ち取ればいいのにと思うことが常であった。
危険性のない案を挙げても動こうとはせず、ただ苛立っているだけだった。
一切牽制もない楼などここだけでないのだろうか。翠雨様以上に家柄に優れた妃などこれからも現れるはずはなく、邪魔な存在はなるだけ排除に動くべきなのだ。
その勇気もなく――いや、もしかすると理解できないのだろうか。
日々、そんな主への苛立ちが蓄積していくのを感じた。
そんな翠雨様の性根の歪みが、とうとう見えるものとなって表れたのは春になる手前のこと。
思わせ振りな態度で居たかと思えば、子ができたかもしれないと大袈裟に騒ぎ立て、周りに窘められるという事態となった。慌てて女官に助力を乞い、殿下が呼ばれた薬師から未確定の旨を告げられえても主の耳にはまともに入っていないようだった。
自らの妊娠を疑わない様子に、私と数人の側仕えたちは呆れを覚えながらも、もしもを考えて慎重な世話を始めるしかなかった。
それが事実であれば望むところだ。主が世継ぎを産んだとなれば、殿下からの寵愛を確固たるものとして世間に見せつけることができる。如いては私の今後も安泰なものとなろう。
けれど、それは妊娠が事実であった場合だ。不明瞭ながらもまるで事実であるかのように振舞うとなれば、感情も別のものに変化せざるを得ないだった。
期待と不満が入り混じる状況は、たったの二日で砕かれる。
水場に冷やしている果実を取りに来た。
伏せってらっしゃる翠雨様は食欲があまりないようで、これは遅い朝餉の選択肢のひとつとして準備していたものだ。
日中のこの時間帯は誰もいないことがままある。念のため周囲を見回すが、人影はないようだった。
「……っ!!」
それを確認すると、私は募った苛立たしさを吐き出すように、手にした籠を床に叩きつけた。中身のない籠は、軽い音を立てて床にぶつかると小刻みに揺れる。
それをしばらく眺めてから、腰を落として拾い上げた。
すっきりとまではいかないが、少しだけ気は晴れた気がする。
「これはまぁ涼香殿、物に当たるなど感心せぬなあ」
慌てて振り向くと、入り口には老婆――翠雨様の診察を行った薬師が立っていた。
覇気のない声に皺に埋もれた顔。そんな調子で言われても、本気で咎めているのか、はたまたからかい混じりに笑っているのかが分からない。
「このようなところをお見せして失礼いたしました。以降、気を付けたく思いますわ」
私の返事にはただ頷いて、薬師は近寄ってきた。
説教でも始まるのだろうか。もしそうだったなら適度なところで切り上げようと思う。
翠雨様は心労と体調不良で寝込んでいらっしゃるから、それはちょうどいい理由になる。
とくに今部屋に詰めて居る同僚は、少し気の弱いところがあった。いざとなれば翠雨様に押し負ける。
この状況では、あの組み合わせからあまり目を離しておきたくないというのは本音だった。
「お妃様にはいつもの薬湯を呑ませておったが、あれは今後も続けるように。それと――口直しにこれを含ませたら良いであろうよ」
どうやら説教の類とは違ったようだ。
元より聞き取り辛かった声を一段と落として、包み紙を卓の上に広げる。
内側には文字が書かれており、更に小さな包みを内包していた。
読もうとすれば、今度は声の調子を戻した薬師が他愛のないこと――翠雨様の服用している薬湯についての知識などだ――を話し出す。
一体何事かと眉を顰めて伺う私に、指と目で文字を読むよう促される。
『これには眠りが強くなる作用がある、だが口直しとのみ告げて与えること、
毎日薬湯を貰いに薬師の元へ参ること、
どちらの役割も他の者に任せず、涼香自身が行うこと――必ず従うように』
記名はなかったものの、それは確かに殿下の書き文字だった。
私が内容を理解したことを確認すると、薬師は手早くそれを処理する。桶に水を入れ、紙片を浮かべれば、それはたちどころに溶け始めた。
内密に、とそういうことなのだろう。大したことが書かれていないせいか、気味悪く思う。
「大層ご心配されていらっしゃる。まぁそういうことだね」
いぶかしく思う私の様子に気付いたのだろう、桶の水を掻きながら薬師はそう付け足した。
殿下は翠雨様にしっかりと休んで頂きたくて、万一にも知られることのないよう配慮されている、という意味だろうか。
そういった効能の薬湯を作ればいいのにと思うが、薬効上難しいのかもしれない。
何にせよ、名指しであるならば従うより他はなかった。薬師こそが命令代行の証人となる。
そして翠雨様の側仕えとして一番に殿下の覚えが良いらしい。それは気分の良いことだったから。
「誰何された折にはこの札を見せると良い、通行証代わりとなろうさ。あんた、私の部屋がどこにあるかは知っておるね?」
「えぇ、知っております」
最後に桶の水を捨てると、証明札と包みと薬湯用の粉末を置いて薬師は帰っていった。
***
翌朝、翠雨様を起こしに行った同僚の悲鳴に、急いでその場へと駆け付ける。
そこには寝台の上、衣類を乱され伏している主があった。それを目にした瞬間、頭の中が真っ白になる。
慌てて楼を飛び出すと、王城に一室を構える薬師の元へと向かった。
そのとき私の胸にあったのは、怒りだった。
だが走り出した私の足はやがて止まる。
これ以上走れなかったということもあったが、このまま薬師の元に乗り込んだところで何をどう言えばいいのだろう。
王太子妃が乱暴にあったかもしれないと怒鳴り込むわけにはいかないのだ。むしろ、口直しの存在を知る殿下の所業である可能性すらある。
王城内で足を止めたままでいるにも、何もなしに楼へと戻るにも不審だ。いい案が浮かばない以上、知らぬ振りで指示通りに薬湯と某口直しを手に入れるしかないだろう。
そもそも真実がどのような形であっても、妃の側仕えが薬師に報告することではない。まずは楼付きの女官に伝えるというのが正しい在り方なのだ。
こうして自身に言い訳を施さなければ、理性を捨ててしまいそうだった。
薬師の部屋の前で深呼吸をする。冷静たれと。
ちょうど扉の向こう、薬師の側に殿下がいらっしゃるとも知らずに。




