2.眠ったあとに見る景色
私の腹に子は宿っていない――それが事実だ。
それにより、過剰な庇護はたったの二日で終了と相成った。
それでもすべてが元通り、変わらないままとはいかないのが厄介だった。
子ができたかもしれないという私の発言は今更なかったことにはできない。
鴇耶様にも女官にも、そして側仕えの者たちにも知られてしまっていて、実際に行動に出ている。――薬師……はそう顔を合わせるものでもないからどうでもいいことにする。それにきっとこのようなことは慣れているに違いないのだから。
周囲から受ける丁重さは今朝までのものに似ていて、けれども腫物に触れるかのような慎重さを孕んでいた。
あと少しばかり、心に秘めておけばこんなことにはならなかっただろうに。悔いてもどうしようもないことだ。むしろ短期間で終わったことに感謝した方がいいのかもしれないが、さすがにそこまで割り切ることができない。
私は寝台の中、暗い天井を見上げている。
目は冴えていた。体調が芳しくないのは事実であるから、今日はずっと横になっていたためだ。
繰り返し同じことを考えている。解決策も謎もない事柄への思考というものは、なぞるように同じ筋道ばかりを辿る。何回も同じ思考を繰り返している。
それでも飽きもせず重ねるのは、どこかに救いはないかと求める心があるせいだ。
他人事のように、そう思った。
結局のところ、私の救いとなるのは鴇耶様だけなのだ。会えない内はどこにも進めない。
会うことを恐れる気持ちは少なからずあるが、抱き締めて大丈夫と言ってほしいという想いの方が強かった。そうすればきっと私は大丈夫になる。優しく髪を撫でてもらえたなら、きっと私は平気になるのだ。
女官には側仕え経由で判明後すぐに伝えてある。鴇耶様の耳にもすでに入っているはずだ。
日中は王太子としての務めがあるため、鴇耶様は滅多なことでは楼に戻って来ることはない。
けれど夜になれば見舞いに来てくれるかもしれない。
今夜が私の番でなくとも、少し顔を出してくれるのではないか。そんな期待があった。
掛布の中、私は微動だにせず待っている。けれど、鴇耶様が来る気配は今のところない。
優しいあのひとが、今の私を無関心にも放っておくということはありえない。楼への戻りが夜ともなれば、休んでいる私が本格的に寝入っている可能性を見て、配慮してくれたのかもしれない。そうに違いない。
鴇耶様は優しくて、私は愛されている妃なのだから。
けれど、さすがにここまで夜も更ければ来ることはないだろうと目を閉じる。
周囲にはやはり眠気の気配は欠片とてなく、月たちの微かな光すら届かない瞼だけをじっと見ることとなった。
しばらくそうしていると、外界に変化が訪れたようだ。室内のどこからか響く音を耳が捉えたのだ。
いや、『どこか』というような不明瞭なものではない。私にはそれが隠し通路の床を押し上げる時にでる摩擦音であることが分かっていた。
銀砂が、来てくれたのだ。
そのことに私は安心感を覚えている。気付かず強張っていた心がまるで解けたような心地がした。
けれど夜会うのは控えようと告げてから、彼女とはまだ言葉を交わしていない。子ができたという話が実際は誤りだったということをまだ伝えられていないのだった。
静かに、今までにないくらい足音を忍ばせて彼女は寝台までやってきた。
『私が寝ている可能性を見て配慮してくれた』のだろう。睡眠を邪魔しない程度の物音は、視界を閉じているからこそ聞き取れた。
立ち止まってからは、特に何の動きもないようだった。
ほんとうに様子見に来ただけのようだ。
ややあって、覆い被さってくる気配を感じた。触れ合わなくても、衣擦れの音の距離感と近付く熱気で分かる。
身体はどこも触れていないのに、彼女の髪だけが私をくすぐる。それに銀砂は気付いていないようだった。
むず痒さに手を持ち上げようとして、止める。
銀砂の様子がおかしいように感じたからだ。耳を打つ呼吸は湿り、引き攣るような音が混ざって乱れているようだった。
嗚咽は聞こえないが、もしかして泣いているのだろうか。
私の心の声に正解とでも言うかのように、短く鼻の鳴る音が聞こえたのだった。
すっかり怯んでしまった私は、子のことはおろか起きていることすら伝えられないままでいる。
身動ぎしないよう、改めて足の指まで緊張させた。
痒みも意識を強く向ければ、気にならなくなる。時折肌の表面を滑るものを刺激と捉えれば、何とか堪えることができる。
そうしていると、やがて気が済んだのか、銀砂は身を起こしたようだ。
離れたぬくもりは触れ合わないままであったにも関わらず、久し振りに寒いという感覚を引き出してくる。
しばらくその場に留まって――恐らく、私を見ているだろうことは推測できた。
何をしているのだろう?起こしてしまっていないか探っているのかもしれない。
そう思うのは気付かれていない自信があったからだ。そうでなければ銀砂はきっと悪戯を仕掛けるに違いないのだから。
そう考えれば、今目覚めた振りをしても通じるのではないかと思う。
――そこでふと思い出したことがあった。
ここで起きてみれば、出会ったあの日の再現になるのではないだろうか。しかしあの日とは違い、今は夜。声を上げねば起きたことに気付かれない可能性はあった。
それなら再現にはならない、等と声もなく考え込んでいる内に、銀砂はこの場を立ち去ってしまった。
間が抜けている。そっと追い掛けて、今度は私が侵入するのもいいかもしれない。
けれどやはり身体の調子は芳しくない。床下を這っていくのは勘弁したかったから諦めるしかないだろう。
床下の開閉が聞こえてからも、しばらくは寝たふりの状態のままで耐えた。
だからもういいだろうか?大きく深呼吸をして、目を開ける。
それはいつもの逢瀬と比べると僅かな時間と言えた。けれど寝た振りを続けるには苦痛を覚える程度には長い。
そういえば……来ないよう伝えていたにも拘らず、銀砂はなぜ来たのだろう。
やはり会いに行くべきかもしれない。でも、身体が辛い。そうやって迷っている内に、眠ってしまったようだった。
***
翌朝は寝坊することなく、いつもの時間に目が覚めた。当たり前だ、寝不足には程遠いことは自分がよく分かっている。
それなのに、周囲からは顔色が良くないから寝台からあまり出ないよう言い含められた。きっと今夜も寝付けないに違いない。
大人しくしているのは、少し眩暈がするからだった。
今日も昨日に引き続き、夕方になっても朱璃姫も鈴杏様も来なかった。銀砂においても訪いの打診すらない。
もしかすると私の判断以前の問題で、側仕えの女たちの手に寄って面会謝絶が敷かれているのかもしれない。充分にあり得ることだ。
銀砂には次に会ったときに言おうと思う。手紙は、いけない。子のこともふたりだけの時間も、どちらも形に残るようなものに残したくはなかったから。
だから次回、昼間会う時でいい。側仕えがその場を離れることもあるだろう。
夕餉の後、にっこりと微笑んで涼香は口を開いた。
「翠雨様、貧血と滋養に効く薬湯はいつもの通り、お休みの前が良いでしょうか?苦みが強いと仰っていましたから、口直しもご用意いたしましたわ!」
何かはそれまで内緒です!
こういう時ばかりは余計な主張のない良い側仕えだ。私も思うところなく、素直に頷ける。
「まあ、なんでしょう?楽しみです」
「はい、その際はお声掛けくださいませ」
涼香の言っていた口直しは、糖衣に包まれたやけに甘い寒天菓子だった。果汁の味はしなかったから、蜜だけで味を付けたものなのかもしれない。
それは薬湯の苦みを完全とはいかないまでも消し去ってくれたけれど、舌の上には微かな苦みと後を引く甘さがいつまでも残るのだった。




