~鴇耶~
足音に瞼を押し上げた。そこで、どうやら自分が眠っていたらしいと気付く。
だが慌てて起きる必要はない。
今は夜更け。そして場所はわたしの妃の寝台の上である以上、寝ていたことには何の問題もない。近付いてくる足音の主が誰であるかも分かっているのだからなおのこと。
その遠慮のない音に小さく笑って、ようやく戻ってきたこの部屋の主に声を掛けた。
「帰ったか、銀砂。相も変わらず遅いのだな」
銀砂は頻繁に翠雨のところへと通っているようだ。
遠く離れた異国の地、身近に友を得られるのは良いことだ。
時間帯も方法も、些か目に余るとは思うものの、上手くやってくれる内は咎めない。
さすがにわたしが通っている最中も構わずに、というのは苦笑ものなのだが。
彼女不在の間は、ぼんやりと休んでいることが大半だ。
最初の頃は戻ってくる前に出ていくよう言われたものだが、不仲と思われるのは都合が悪い等と説得してからは諦めたらしい。わたしを放って出掛けていくようになった。
立場を弁えぬ態度だが、他者の目のない場ではその振る舞いを許している。
望まぬ婚姻を強いているという気持ちがあるせいだろう。望む婚姻のできる娘など平民、それも一握り程度のものだ。
だが、彼女は何ひとつ知らされず他国に追いやられ、そこで夫を宛がわれた。そう考えればとくべつ哀れに思い、目溢しをしてしまうのも道理だった。
「戻りました。殿下もそろそろお帰りになられた方がよろしいかと……空が白んでからでは遅いのではありませんか?」
「まだ早い。まだ一眠りはできるだろうな」
こうして話し掛ければ渋々応じてもくれるが、声にはいつも苛立ちが内包されているようだった。
それでもわたしはめげたりはしない。
彼女の血筋を考えれば友好な間柄でありたいという打算。そして、決して媚びることのない他者への物珍しさがあったからだ。
彼女の心象が良くないということは織り込み済みだった。
祖国の価値観も大きい。けれど第一印象――急いでいたこともあり、少し気遣いに欠けていた自覚はある――、これが主な原因なのだろう。
会話でもして、できる限り距離を縮めようとは思っているのだが、中々上手くいかないのが現状だ。一体いつになれば実を結ぶのやら。
「できましょうが、せずとも問題はない刻限でございます。休まれるなら今でなく、戻られてからが良いように思います」
掛布を剥ぎ取られ、早急な退室を促される。
その実力行使には少し苛立ちを覚え、意趣返しを思いついた。
引っ張って驚かせてやろうかと、腕を持ち上げて彼女の方へと伸ばす。
「では、少しばかり話さぬか?」
戯れに伸ばした手には大した力も速度も籠めていない。
全く触れないとまでは誓っていない。無理強いはしないというだけだ。だからこうして拒む猶予を与える。指先が触れる前には軽く払われるだろうと分かっていた。
それでも彼女は、そうしない。
二歩退いて、手の届かないところまで距離を置く。
跳ね除ける程度の僅かな接触であっても、彼女からは触れる気はないらしい。わたしはそこで酷く落胆する自分を見つけた。
「政に及ばぬとも限りません。それ以外にお話しできるようなことなどございません」
「共通の話題があるだろう、すい、」
「殿下、こうしている間に良いお時間になりました」
大した時間経過もしていないのは明らかであったが、銀砂は今度こそ否応なしに追い出しにかかる。戯れが過ぎたのかもしれない。
これ以上粘っても拗れるだけだ。仕方なく寝台から降りた。
わたしは銀砂の温度を知らない。
その拒絶を解き、受け入れてくれるのはいつなのだろう。
***
銀砂がわたしに向ける感情は好転することはなく、悪化の一途を辿っていた。
悋気などあり得るものではないし、複数人の妻を抱える夫への潔癖にしては果てがない。
日に日に膨れ上がる苛立ちは憎悪に近付いているようで、一体何を燃料としてここまで増大しているのかが分からないままであった。
望郷の念をわたしへの悪感情に替えることで平静を保っているのかもしれない。
不確かながらもそう納得し、時間をかければいつかは落ち着くだろうと諦めた頃のことだった。
わたしは今、噛みつくような勢いで銀砂に詰め寄られている。
寝台の上で彼女の帰還を迎えた直後の出来事だ。
最近何やら塞ぎ込む風だった彼女が、どのような形であれ元気になったのは喜ばしいことである。
いつもではあり得ぬほどの近さに動揺したが、次々と吐き出される音の固まりに意識が向けられる。久しぶりに聞く言葉は、彼女の祖国のものだった。
「――、――ぁ!――っ!」
紡がれるそれは所々不明瞭で、何が言いたいのか掴みかねる。
聞き取ることを放棄すると、いつもより流暢な喋りはまるで調べのように響くのだった。その音は心地よさと同時に息苦しさをもたらす。
「子が、子ができたかもしれない、なんて……そんな、」
最後に呟いた言葉は力なく、辛うじて聞き取ることができた。
本日女官より翠雨にその兆候が見られるとの報告を受け、薬師の手配をしたことが頭を過る。
今の段階では判別がつかないという結果であったため、楼内でも伏せてあったが、翠雨は銀砂に告げたようだった。
なぜここまで取り乱すのだろう。理由が見えず、何と応じるべきか迷う。
とくべつ言葉を求められていないようにも見えるのだ。
やがて脱力して崩れ落ちるように沈む彼女の身体に、慌てて手を伸ばす。錯乱しているせいでそこまで気が回らないのだろう、拒まれることはなかった。
そっと床に座らせて、背を撫でる。それでも未だ拒絶する様子は、ない。
ただ一言も発さずに、ふたりして床の上に留まっていた。
浅く、荒い呼吸音は止まず、収まらないのではないかと危惧したが、そんなことはない。
しばらくすれば呼吸は穏やかになっていった。
はっきりとした変化を耳が捕らえた時点で背を擦るのは止めている。我に返ったところで拒絶されるだろうことが目に見えている。
こうして寄り添うようにしていることさえ、銀砂の態度を思えば奇跡のようだった。
どれくらいそうしていたのだろう。唐突に、彼女が口を開く。
「殿下、お願いがございます」
ぎこちなく紡がれたのは、この国の言葉だった。
初めてまともに会話ができるかもしれない。
それが要求から始まるのはどうかと思うが、期待に胸が躍るのは誤魔化せない。
何であれ、できる限りは叶えてやろうと思う。そう、祖国に戻せというのでなければ。
無理難題を吹っ掛けるような娘ではない、はずだ。
「なんだ?言うてみよ」
ゆっくりと、余裕のある口振りで先を促す。
声が震えないよう、手を握り締めた。ついでに爪を立てる。
「わたしを名実ともに『妻』にして頂けますか。ただし――」
条件として続けられたいくつかの事柄は予想だにしないものだった。
提示されたそれは俄かに信じがたいもので、喜びよりも先に戸惑いがある。
それをようやっと飲み込んで、気付いた。
条件とされる内容と、それを口にしたときの声音で、今更ながらに彼女が今までわたしに向けていた苛立ちの理由を知るのだった。だが彼女の心には気付かない振りをする。
まもなく、本当の意味で銀砂はわたしの妃となる。その事実があれば、付随するそれらは些末事に思えるのだ。
銀砂は静かにわたしの回答を待っているようだった。
もう一度考える。上手く立ち回れば損はないだろう。そしてそれは難しいものではない、となれば迷うまでもないだろう。
「構わぬ。……だが、そうだな。そのように望む理由までは問わないが、これからはもう少しわたしとも会話をしてほしい」
恩を売るように、ささやかな望みを付け足して返す。
それには努力するとの言葉が返り、そして契約は成ったのだった。




