15.灯りの下の素顔、光の中の表情
今夜は、銀砂の元には向かわないと決めている。
眠ってしまいたかったが、このまま寝台に入っても寝付くまでには時間がかかりそうだった。だから灯りも置かず、木枠越しの空をぼんやりと見ていた。
今日の夜空は何やら薄暗い。
目を凝らして見てみれば、どうやら曇っているようで、青い月には紗のような薄雲が掛かっている。そして紅い月に至ってはどこに在るのか分からないほどに、しっかりと雲が掛かっているようだった。
一層頼りない夜だったが、明るいほど眠気が遠ざかるだろうから丁度いいのだろう。
まもなく、銀砂が正式に煌帯ヶ位の間を戴く妃となる。
婚姻成立直後は通いの時期があるから、鴇耶様はまだしばらくこの部屋へは現れないだろう。
あらかじめ分かっていたことだから、そのことで悲しみに暮れることはない。暮れてはいけないのだ。だから私は悲しみに飲まれたりはしない。
ただ横で涼香が謀った等の文句を口にしていて、その相手をするのは億劫だった。
気を紛らわせようにも、朱璃姫どころか鈴杏様の訪いすらないようだから自分で何とかするより他はない。婚姻の儀のための自粛だから、こちらも落ち着けば普段通りとなるだろうから、ほんの少しの間だけだが。
大小の差はあれど、確かに彼女たちを鬱陶しく思っていたはずだというのに、望んでいる今の私はおかしなものだ。
胸の疼きを溜息に変えて逃がそうとして、――止める。
近付いてくる微かな足音が聞こえたのだ。気付いて一瞬身を固くしたが、刻む音の調子が彼女のものだと分かると、私は緊張を解いた。
張本人であるにも関わらず、銀砂だけは自粛とは無縁のようだった。
きっと女官からは滅多なことがない限り出歩かないよう言い付けられているだろうに。
あぁ、なんて彼女らしい。
まだ見ぬ訪問者が銀砂であるという確信があった。間違っているとは思わなかったが、念のため声を掛けるのは姿を現した後で。
迎えるように、窓から離れる。
「こんばんは、銀砂」
「こんばんは。もしかして寝ているかもしれないと思ったけれど、起きていたのね」
いつもより少し遅いくらいの刻限だろうか。私の部屋に銀砂が現れた。
最近はずっと私が通っていたから、彼女がこうやって現れるのは久方ぶりだ。
「無駄足になると思った上で来たのですか?……そんなのって、変です。巡回みたい」
「む!それなら、無駄足にならないよう、次に翠雨が寝ていたら寝台に潜り込むことにしようかな」
「もっ……もっと!それはもっと変です!」
とんでもないことを言われて、動揺してしまう。
その可能性を知りながら眠るなどできそうにない。今後の安眠のためにも、早急に止めなくては。
「せっかく会いに来たのに、酷いことを言うからよ」
だめです、変ですと呻く私の方へ、拗ねたような声音とともに銀砂がにじり寄ってくる。
すぐ背後には窓。だから簡単に追い詰められてしまった。
いつもの距離より狭まったあと、大仰な動きとは裏腹な軽い調子で肩口をとんっと叩かれる。
「もしかして、からかったのですか?」
「さて?意趣返しにしては、可愛らしい類だわ。それとも真実の方がよかった?」
ここでからかわれていた方がいいと回答するのも少し癪な気がしたが、あの朝の再現はもう御免だった。私は慌てて首を振る。
細やかな意地で、声にはしなかったが。
と、普段と何ら変わりない素振りで勘違いしそうになるが、今夜は初夜ではなかっただろうか。つまり、先程まで銀砂は。
思い至って、身を固くする。
軽く触れられた肩にぞわりとした気持ち悪さが湧いて這い上がってくるような気がした。
「もしかして痛かった!?ごめん、……折れたなんてことはない、よね」
私の様子に何やら見当違いをしたようで、銀砂は焦ったように肩へと顔を寄せる。
そうしたところで視認できるものではないだろうに。窓に近いとは言え、曇った夜では視界も悪い。肩の不快感は拭えないままではあったけれど、慌てる彼女を目にしていると、やがて冷静さが戻ってきた。
さらに接近したものの触れてまでこなかったのがよかったのだろう。それはきっと骨への被害を危惧してのものと思われた。
正直助かった。あのまますぐに触れられでもしていたら、私はきっと平常ではいられなかっただろうから。
大丈夫だと言い置いて、恐る恐る水を向ける。
「あの、思い出したのですが……銀砂は今夜、こんなところに居ていいのですか?」
その先は上手く言葉にならない。這い上がった気持ちの悪さで喉を締め付けているようだった。
それでも私の言いたいことに思い至ったのだろう銀砂は、ぁあ……初夜の、等を呟くのだった。
そうして何でもないことのように言い放つ。
「あの男ならもう自室に帰ったわよ。だから、いいの」
「帰った?帰ったとは、どういう……まさか、」
『あの男』という言い様が気にならないではなかった。けれど、内容そのものに気を引かれる。
一体彼女は何をしでかしたのだろう、と。
「問題が起こったわけではないわ。誓って触れないと、そう言っていたのを翠雨も聞いたでしょう?それだけのことよ。
今夜も、これからも。あの男がわたしのところに通うことは、見せかけでしかないのだもの」
その意味を理解するには、少し時間が必要だった。
鴇耶様の言葉を信じていなかったことが恥ずかしくなる。
けれどいくら形だけのものとは言っても、複数人いる妻の内のひとりになったという事実は動かしようのないものだ。
どうしようもないことには変わりはないが、果して彼女はそれでいいのだろうか。
思うことはある筈で、けれど私には胸の内の欠片も明かしてはくれない。
視覚情報は閉ざされていて、唯一の糸口である聴覚からの情報も――押し殺した声では――今はてんで役に立たない。
自身の婚姻について――彼女がそれをどんな気持ちで口にしているのかは、ついぞ分からないままだった。
***
鴇耶様に会えない残りの数日間も、穏やかに過ごすことができた。
銀砂の言葉で、私の心は大分と軽くなったようだった。
一転、考え込むことの多い日々は過去のものとなる。その変わり身を側仕えの者たちは訝しく思っていたようだが、口に出してまで問われるようなことはなかった。
今気になることがあるとするならば、それは銀砂自身の心だった。そして彼女の未来について。
鴇耶様を夫としないのなら、銀砂はもう二度と夫を得ることはできないのだろう。
しかし彼女が何らかの事情で名実ともに夫を得ることがあるならば、それは私とはもう会えなくなるということだ。勝手な気持ちだと分かっていたが、それはいやだと思った。
「煌帯ヶ位の方より、訪問のお伺いが来ております。いかがなさいますか」
側仕えの女が寄ってきて、本日中の面会を希望しているようだと重ねた。
顔繫ぎの役割が涼香であったなら、怒りに震えるのではないだろうか。
煌帯ヶ位の方――耳慣れない言葉に少し戸惑って、いらぬことを考えてしまった。後々また銀砂の文句を耳にしなければならないかと思うと、気が重い。
構わない旨告げて、都合がつくならば今から招くよう指示を出す。
折角の彼女との時間を、無粋な存在に阻まれたくはない。涼香のいない時間帯である今が最適なのだろうから。
やがて現れた銀砂の姿に息をのむ。
そういえば、明るい中で彼女を見るのはこれで二度目のこと。
それも前回は騒ぎの中の僅かな時間だったから、こうして向き合うのは初めてとなる。
前回の侵入に対する侘びと、挨拶のために訪れたらしい。
その表向きの要件は、恐らく女官に言われたのだろう。涼香不在の時機を見て進言されたのかもしれない。
側仕えの女を茶の準備に向かわせて、ようやくふたりきりとなった。とは言ってもこの部屋内には他にも側仕えの者がいるように思われたから、衝立の内の極々狭い範囲の中だけでのことだろうが。
それまで大人しく澄ましていた銀砂が、一転渋い顔付きになって声を潜める。
「話し難いものがあるわよね。初対面の空気感は出ていると思う?」
「銀砂の初々しさに関しては、充分に伝わっていると思いますけれど。陽のある内も不自由なく話せるよう、頑張ってくださいね」
やり難そうな彼女の様子に小さく笑いを漏らせば、目前の顔はより顰められるのだった。
でもそれは表情だけのもので、声音は逆に柔らかくなる。
「翠雨は、あまり変わらないものね。言い回しは我慢するにしても、思った通りに話せるまで、どのくらい掛かるんだろう」
足音と共に、時たま茶器のかちゃかちゃとした音が近付いてきた。
側仕えの女が戻ってきたようだ。
だから私は、差支えのない言葉――それが程々に好意的であるものを選んで吐き出した。
「これからよろしくお願いいたしますね、『銀砂様』」
「ぇえ、是非に」
敬称を付けて呼ばれた彼女は、何とも言えない顔で応じてくれた。言った私も違和感がある。
彼女の口から零れたら、一体どんな風に響くのだろう。
そんな私の期待を知ってか知らずか、この場ではとうとう名を呼ばれずに終わった。
何とか互いに失敗せずに終えることができた。銀砂を見送って、ほぅと息をつく。
日中に会えるという、胸弾むはずの出来事がこんなに緊張するものだったとは。私はそれをを苦笑いの口許といっしょに袖口で隠した。
さて、早いがそろそろ食事をせねばならない。
今夜はとうとう、鴇耶様の訪いの日。湯浴みに時間が掛かるため、そろそろ準備に入らねばならない。
そこで銀砂に今夜は会えない旨を伝え損ねたことに気付いたが、今となっては伝える術がない。
椅子で通路入り口の床を塞いでおこうか。だが、重さが不充分なら跳ね除けられるかもしれない。それも、物音付きで。
後で通路に伝言を残しておいた方が安全かもしれない。
ならば、急がなくては。
私は朱璃姫に手紙を書くと言って、書き物の準備を命じた。
翌朝、伝言を記した紙は置いた時のそのままに通路にあった。
わざわざ言わずとも、彼女は察していたのだろうと思う。
***
銀砂とはこれで昼間に会うことが容易となったものの、だからと毎日会えるというものでもない。
さすがにそれでは私たちの関係は不審に見える。偏り過ぎないよう、私は仕方なく鈴杏様との時間も増やした。
銀砂は最初の挨拶以外はあまり鈴杏様には会っていないそうで、女官にも色々と言われているようだったが改める気配はない。
話好きなふたりは気が合うように思えるが、似ているからこそ相性が悪いのだろうか。意外に思うと同時に優越感を覚える自身を自覚していた。
回数を抑える昼間とは異なり、夜に関しては相変わらずといえた。
三日に一度、私のところへ鴇耶様が訪れる日以外は、絶やすことなく通路を使っての逢瀬を続けているのだった。
それは、銀砂の元に鴇耶様が訪れる日であっても変わらない。
臆病な私は、その日だけは通路を使うことができないでいた。もしかすると、鴇耶様の誓いがないものとなってしまっているのではと怖くなってしまうのだ。
ふたりの心が通い合ってしまったらどうしよう。
口に出さずとも、銀砂は私の不安な心を察しているのだろう。その日だけはいつも、夜の早い内からやって来て、夜更けまで粘って帰っていく。
私は、そんな彼女の姿に安堵していたのだった。




