13.見えない亀裂
「お断りするわ。知らない人間、それも男を部屋に招き入れるなんてね。夜ならば、なおのこと」
銀砂は巡回だと――あるいは、私の不在が露見したかと――思って扉を開けたのだろう。
堅い拒絶の言葉の後を、扉の閉まる音がすぐさま追いかけていった。
狭くはない部屋ではあったけれど、遮るものが衝立ひとつのせいか、その声は耳に意識を集中させれば聞こえる範囲だ。
元々息を詰めて潜んでいたこともあり、私には漏れもなく聞こえた。
動けなかったのはそれだけではなく、鴇耶様の声に驚いたこともあったのだと思う。
飛び出すことができたなら、鴇耶様の前に姿をさらすことができたのかもしれないし、もしかすると話すこともできたかもしれない。
できなかったことを考えても意味はないのだけれど。
でもさすがに扉越しの声は聞こえない。
鴇耶様は何も話していないのかもしれないが、それすらここでは推し量ることもできなかった。
しばらく扉の前で様子を伺っていたのだろう銀砂が、溜息とともに、やがてこちらへと歩き出す。音から察するに、だが。
近付いてくる銀砂の気配に、それでも私は気を張ったままでいた。
銀砂は先程の訪問者が王太子殿下だと気付いていないようだった。これはまずいのではないだろうか。
鴇耶様が銀砂を咎めるようには思えないが、もしも知らぬままで次に出会った時が恐ろしい。それが他の誰かがいる場ならば大きな問題になるかもしれない。
けれど、私が銀砂にそれを伝えることはできなかった。なぜならば、
「――少し話すだけだ。この距離でいい、だから聞いてくれないだろうか。
どうしても今夜の内に、伝えなくてはいけないことがあるのだから」
大声は勘弁してほしい、と今度は扉を叩くこともなく入室を果たした鴇耶様が言う。
その声は感情が抜け落ちたように冷淡で有無を言わせない力強さがあった。
口調はそのままに、それでも耳にしたことのない声だった。
私に向けてのそれならば、恐ろしく思ったかもしれないほどだ。
銀砂はどうだろうか……驚いた声ひとつすら聞こえてこないから、様子が分からない。見えないことが、もどかしかった。
だからと割り込んでいくことはしない。
今日は楼には来ないとされている鴇耶様がひっそりと訪ねてきた、銀砂の立場と身分。
私の知らない鴇耶様。強引で、親しみに欠けた様子は、恐らく公人としてのものだろうと予測がついた。
そういったことを考えれば、自ずと答えは出る。
「なら、手短に」
「すまないな。押し入るつもりはなかったが、火急なのだ」
「早く本題に入ってくれるかな?」
にべもない言い方で、彼女は続きを促す。
そのことに私だけが動揺していた。銀砂はまだ、気付いていない。
「わたしの名は鴇耶。この国の王太子であり、そしてこの楼の主だ」
「知らぬこととは言え、非礼をお許しください、殿下」
「……かまわないが」
正体を明かした鴇耶様への平坦な反応から、本当は銀砂も分かっていたのではないかという疑念が首をもたげる。
鴇耶様も気付いたようだ、返事には間があった。
銀砂の言葉遣いは変わったが、それまでだった。声の調子は変わらずに、鴇耶様以上に感情が抜け落ちているように聞こえる。
そうだ、銀砂は鴇耶様のことを好ましく思っていないのだった。思い至れば、こんな時にも拘らず、私は安堵の息を吐く。
でもそれも長くは続かない。
「本題に入ろう。おまえがどこまで分かった上でここにいるかは知らぬが、知らぬなら伝えなければならない。――わたしたちの婚姻について」
「こんい、ん……」
暗い声には、やはりそうかという思いが詰まっていたように聞こえた。
私はと言えば、驚きの声も悲鳴も、呟きすら出はしなかった。ただ、僅か乱れた呼気が音を出す。幸いなことに、その音はふたりの耳に届きそうになかった。
「かの国の結婚観は知っている。だから銀砂、おまえが望まぬならば触れぬようにしよう、そう誓おう。
だから早まったことは――死のうが、生きていようが――してくれるな。そう言いに来たのだ」
「なぜわざわざ!?これではただの威圧にしか思えない!一方的に過ぎるのではない?逃げるなと、そんなことを言っ、」
「声を抑えてほしい。わたしはまだ、この楼には戻っていないということになっているからな。
妃予定の者の元へ密かに通っていると取られかねない。慣習に反した行いには、必ず厄介なおまけがついてくるだろう、――それはわたしだけではなく、銀砂、おまえにもだ」
急に声を荒げた銀砂に、鴇耶様の冷静な声が割って入って歯止めをかける。それどころかとどめまでさしたようだった。銀砂は再び黙ってしまう。
私の心は泡立っていた。言葉にならない不安とよく分からない何かが、形になる前に掻き混ぜられて、気泡となっては立ち昇る。
それはごぽりと音を立てて、表面に浮き上がっては離れていく。
だから私がその正体を知ることなど、永遠にこないのかもしれなかった。
「わたしが内密に来た理由。それは、正式にこの楼へ入るよう告げられても、大人しく受け入れてもらうため。そしてその心構えをしてもらうためだ。
嫌がって暴れられては、互いの国の為にはならないだろう。――おまえは、わたしの妃の部屋に忍び込んだお転婆と聞いているからな、先に釘を刺しに来たのだ」
くれぐれも振る舞いを間違えるなと念押しして、鴇耶様は去って行った。
先に自分を取り戻したのは私だった。
衝立から半身を出して様子を伺う。銀砂は無事だろうか。
こちらを背にして立ち尽くす銀砂が、何やら呟いている。耳を澄ませてみても不明瞭なそれは、どうやら異国の言葉のようだ。
意味は分からないながらも、悲嘆に暮れたような調子が胸に痛みをもたらした。
「銀砂……」
呼び掛けて近寄ると、抱き付かれた。
緩い力の拘束に、それでも私は動けない。縋りつかれているような気がしたのだ。
もしも背でも撫でようと手を伸ばせば、この腕が解けてしまうのではないかとさえ思うくらいにやんわりと絡む。だから、私は動けないのだった。
何か口にすべきことがあるのかもしれない。けれど、何も浮かばないからそのままでいた。
立ち尽くす私たちは、身動ぎすらほとんどしないまま。
触れ合っている部分とそうでない部分の温度差が開き、身を震わせるようになった頃のこと。ようやく銀砂が口を開く。
「遅くなったのに、随分と引き留めることになってごめん」
銀砂の、こんなに弱った声を聞くのは初めてだった。いや、今夜は彼女のことで様々な初めてを知った気がする。それは、良くも悪くも。
私の中に、違和感がある。不快とまではいかない、もやもやとした気持ち。
これは一体どういう理由からなのだろうと掴みかねてはいるけれど、間違いなく彼女が理由で起きた心の動きだ。
突き詰めると目が回りそうだったから、目を逸らすことにした。
身体に巻きつくようだった腕は、ゆっくりとした動作で解かれていった。
最後にのろのろと首を持ち上げると、それきり彼女は私から離れていく。
僅かな灯りで見る限り、彼女は泣いていたわけではないようだった。
私の反応は待たないで銀砂は通路へと向かう。そして私は、そんな彼女に黙ったまま付いて行く。
ふたりして足取りが覚束ないのは、ずっと立っていたからという理由だけではないだろう。
「わたしは、翠雨を悲しませることはしたくない」
床下に身を沈めた時、銀砂の声が降ってきた。私は弾かれたように彼女を見上げる。
それに私はどのような態度を取ればいいのか分からない。きっと彼女にもそういう部分はあるのだろう。
抗うことはできないと、互いに分かっているからこそ尚更に。
「無理は、しないでほしいです」
鴇耶様の三人目の妃、それが銀砂であることに私は未だに戸惑っている。
形容のできない感情を持て余し、言い様のない気持ちを飲み下せないままでいる。
だから今、私は彼女の名を呼べなかった。その自覚があった。
きっと銀砂は気付いていたのだろう、この楼に留め置かれた意味を。
でも、それならばなぜ。
どうして教えてくれなかったのか。彼女の中に疑念はずっとあったはず。
例えでも、口にすることは憚られたのかもしれない。
今まで、鴇耶様のことを話す私を、銀砂はどんな気持ちで見ていたの?
理性を感情が荒らしていく。
渦巻く問いを喉の奥に押し込んで、代わりにおやすみと言った。




