1.父の呼び出し
「登城中の旦那様より、伝令がございました。
夕餉の前に書斎まで顔を出すようにとのことでございます」
そう告げて、使用人の少女は頭を下げて部屋を出ていく。
彼女の動作は丁寧ながらも、端々から焦りが見えていたものだから、私はありがとうとお礼だけを口にして、引き留めることはやめておいた。
いつもの彼女なら、本日はお帰りが早いみたいですね。と一言添えて、それから少しの間話相手になってくれていただろう。
使用人の一部で風邪が流行っていると耳にしたから、きっと何人かは寝込んでしまっていて、そのしわ寄せで今日は忙しいのかもしれないとぼんやり考えた。
本来ならそういった裏方事情は上手く隠すべきなのだろうが、今回に関してはさして重要でもないかと咎めるはしなかった。むしろ、忙しい中手を止めさせるようなことをする方が問題ではないかと都合のいい思考で見なかったことにする。
それにしても、めずらしい。用事があれば父は直接自分に声を掛けてくれていたし、その場にいなければ部屋まで訪ねてくることが常なのだから。
わざわざ呼びつけるなんて今までにはなかったことで。それもこんな風に、約束とはまた違う予告まがいのことなどされたことは過去にはない。
一体何事かと、気になりはしたものの、それも時間が解決してくれるだろう。
冬の陽が顔をだすのは短い間だけで、それもてっぺんをゆうに通り過ぎていた。
先程まで弾いていた古筝の手入れをして、片付けた頃にはちょうどいい時間かもしれない。
夕刻、少しの緊張感を纏い、書斎へとひとり足を急がせた。
それはなくとも広い邸内、滅多に部屋から出ない自分、宰相という役職に就いている父は多忙で、屋敷に帰らない日が続くこともある。だからこうして顔を合わせるのは実に数ヶ月ぶりのことだった。
浮き立つような心地よりも、まず身構えてしまう自分のありかたは少し情けなくてさみしい。
小さいころは気にもしなかったが、この頃は不在がちな父への接し方がよくわからなくなるときがある。
着くまでに、緊張で固くなった心が解れればいいのだけれど。
書斎近くの廊下まで辿り着くと、歩く速度を緩めていく。
約束していた場へ、息せき切って慌てて駆けつけるなどみっともないことだ。
それならばなぜもう少し早く出なかったのかと、はしたなさの注意から始まる時間などごめんだった。
呼吸は乱れるほどではなかった。そして汗の湿り気を感じるほどでもない。
格子戸をすり抜けた陽の光は浴びる分には眩しいだけで、ほんのりとした温もりを頬に伝えてくるくらいだった。
これが夏ならばそんな悠長なことは言っていられないだろう。
いくら屋敷が広いとは言っても王城の端から端というようにとてつもない広さがあるわけではない。目的地へはすぐに辿りついた。
書斎の入り口脇には腰の高さほどの小さな円台が置いてあり、そこには部屋の主が在室中であることを示す、小さな鐘が乗っていた。それをカランと鳴らして声を掛ける。
「お父様、翠雨がまいりました」
入るようにと促され、扉を押して踏み込んだ部屋には父ひとり。中には使用人のひとりも控えてはいなかった。
残念ながら、それが人払いの結果なのか、単に使用人たちがいまだ忙殺されていて手が回らないだけなのかはわからないのだけれど。
ただ、茶器が用意されていないということと、食事前ということから父が特別長話をするつもりはないだろうとの予想はつく。――結果、長話になることはあるかもしれないけれど。
「おかえりなさいませ、本日もお勤めお疲れ様です」
「あぁ。かわいいおまえの顔と可憐な声を聞けば、この疲れもどこかへ消え去ってしまうようだよ」
「そう言って、あまりご無理ばかりなさらないでくださいね」
冗談を口にするその顔は、疲れのせいか少し黒ずんで見えた。それが室内灯の影のせいだけとは、とても思えない。
「いいや、まだまだだ。文官ではあっても若いときは鍛えて……いや、これでもまだ若いのだがなあ」
入室後、簡単な挨拶を落として示された椅子へとかける。
緊張は、いつの間にか逃げてしまったらしい。安堵の溜息が零れそうになったところで、口角を引き上げるとすんでのところで閉じ込めた。
意図せず大仰になった私の笑顔に笑みを返して、父は早々に口を開く。
「おまえももうすぐ15になるな、翠雨」
「ぇえ、春になりましたら」
それには何でもないように応じる。
前置きのように聞えるけれど、そうではないと分かっていた。
「おまえが大人になるのだ。それでは私も歳をとるはずだな」
貴族の子女が大人になるということは、つまりは婚姻をするということ。親の庇護を受ける雛の時代を終え、一族の為に務めを果たせという意味に他ならなかった。
私はそのことをきちんと理解していたし、小さいころから暗に明に言い含められてきたことだった。父も施した教育の結果たる、今の私の思考をわかっているのだろう。
だから、話題としては飛躍しているとも言える内容を、まるでそれが自然であるかのように続けた。
婚姻が決まった、と。そうして、私の目をじっと見る。
「王太子殿下――鴇耶様の元へと嫁ぐことが決まったのだ」
「王太子殿下に、ですか」
鴇耶様、この国の次期王となられる御方。
知識だけで、特に湧き出るような感想もなかったものだから、無難に鸚鵡返しをしておいた。
神妙な顔付きでまぁ、などと呟いてみる。
ここは若い娘らしく、王太子との婚姻に初々しくはにかんでおけばよかったのかもしれない。それとも貴族の娘らしく必ずや御子をとの気合いを見せるべきところだっただろうか。
それよりも、このどうでもいいという感情が出ていたらどうしようか。
「それなりの地位にいる年頃の近い娘というのが限られているというのもあるが…おまえは器量もいい。
そして殿下は情の深いお方だ。きっと大事にしてくださるだろう」
少しの後悔から、やり直しの反応を出そうかと検討している間に、話は先に進んでいた。
母や使用人たちとの会話では、こんな風に置いて行かれるようなことはなかったが、父との会話ではこういうことがよくあったように思う。
家の中だけで生きる私の速度と、政治の世界に身を置く父の速度が異なるというそれだけの話。互いの共有する時間が少ないから、ちょうどいい間というものを知らないし、合わせる必要性にも気付かないままここまで来ている。
そのことに気付いたところで、どうしようもないけれど。
もしかしたら、父にはとくべつ主張のないからっぽな娘に見えているのかもしれない。
では近い将来に私の夫となる王太子殿下はどうなのだろうか。
その方の速さは私とは、どのくらい違うのだろう。
「輿入れは春頃だ。準備はこちらに任せておくように、と言いたいところだがね…。
城に上がるとなれば、もう一度礼儀作法の見直しをせねばならないだろう。あまり時間もないが、それはまた近い内に先生を招こうか」
「はい、お父様。よろしくお願いいたします」
勉学はあまり好きではなかった。
とくに気にならなかった婚姻の相手が、少しだけ恨めしく思った。
これが他の貴族の元へと行くのならば、私の受けた教育で充分だったというのに。
神妙な顔付きを保ったまま頭を下げ、次上げた時には父の手は紙束を掴んでいた。
やはり忙しいのだろう、疲労の隠せない中進めなければならない仕事なのだから重要な内容に違いない。けれど、それよりもその身を大切にしてほしいというのが娘としての本音ではある。
ただ、どうやら話は終わりのようだし、邪魔をするのも心苦しいのでそのまま退室することにした。
思ったより、話は早くに終わってしまった。
きっと今から部屋まで戻る方が、何倍も時間がかかるに違いないくらいに早い。
今度は反対の頬に陽を受けて、私は自室へと戻ることとなった。