10.甘くて、痛い
何だか外の空気を吸い込みたい気がする。そういえば今朝は曇っていたが、気温はいつもよりも低いだろうか。
空気と、今の天候と。目的がふたつあるならば、行動を起こすことには何の抵抗もない。
私は窓の方へと移動を開始した。
軽やかな心地で足を踏み出せば、いつの間にやら足早になっていることに気付く。
とても良いことが立て続けにあったせいだろうか。
心が軽ければ、引き摺られるように身体も軽くなったように思えた。
良いことのひとつは、私からも銀砂に会いに行けるようになったということ。初めてのそれは、早速今夜決行されることとなっている。そしてもうひとつは。
「今度はどうされたのです?」
と、呆れたような側仕えの声が、私の歩みを止める。
衝立をあとふたつ越えた先に窓はあるというのに。
けれど妨げられたことに不快はない。なぜなら私は今、とても気分が良いのだから。
それに、深呼吸も空の様子もそう急がなくとも問題はない。
「先程は書物の整理、その前は小物類の運搬に部屋中の椅子に代わる代わる座ってみる等々――、部屋からお出になることはないものの、そろそろ一所に落ち着かれてはいかがです?」
「書物の仕舞い方も、それから小物の置いてある場所も変えたいと常々思っていたのです。それに、作業をすれば疲れて休むのは仕方のないことでしょう」
「そう動かれていては、女官殿がいらしたときに翠雨様が部屋のどちらにいらっしゃるか分からなくなってしまいますねぇ。
殿下からの贈り物は、代わりに私がお受け取りいたしましょうか。仕事がひと段落つくまではお預かりということになってしまうかもしれませんね……?」
「それは、だめです!」
すかさず私は声を上げた。それは悲鳴に近いくらい、きんっと響いて目眩がする。
そう、良いことのもうひとつは、鴇耶様から贈り物が届いたと連絡が入ったことだった。
その一報からしばらく時間が経っている。ならばそろそろ女官がこの部屋まで持ってくる頃合いではないだろうか。
そう考えが行き着けば、気になってたまらなくなってくるのだ。それを堪えて座ってなどいられなかった。
気を紛らわせるには、何か別のことをしているに限る。
自身の落ち着きのなさは、きちんと自覚していた。だがその心を誰かの前で認めるには、気恥ずかしさが勝るのだ。
「手を煩わせるつもりはありませんから。ぇえ、私が受け取るので気にしないでほしいです」
扉に一番近い衝立の裏側まで椅子を持ってこさせ、そこで待機することにした。
居る場所も気持ちも違うというのに、銀砂を待っていた昨夜が思い出された。
***
女官に手渡されたのは、手紙と小振りの壺だった。
中身はどうやら液体のようで、手にして歩けば重心が揺らめくように感じられる。
もしかしてこれは、蜂蜜だろうか。
この楼へ来てまだ日の浅い頃、交わした約束を思い返す。他国のものを取り寄せて贈ってくれると言ってくれた。
直後、しばらくの間交易路が満足に使えない状況になってしまったため、もしかすると忘れてしまった可能性もあるだろうと考えていた。その場限りの会話のようで、残念に思っていたのだが。
落としてしまわないよう、しっかりと抱き込んで部屋の奥へと舞い戻る。
「ふぅ――、」
居住まいを正し、まずは手紙を拡げた。
ついつい先走りそうな視線を宥めつつ、一文字一文字をなぞっていく。
そこには土産品の説明と近況、早く会いたいという旨が書かれていた。
どうやら壺の中身は蜂蜜ではないらしい。
封を開けて覗いてみれば、壺にはさらりとした液体が満たされており、小振りの実がいくつか沈んでいるようだった。
更に顔を寄せれば、仄かに鼻腔を擽る香。これはこの果物のものだろう。
中に入っていたのは熟す前の、とくに酸味の強い果物の氷糖蜜漬けだそうだ。
これはそのまま齧るのではなく、匙で潰したものを湯でのばして飲むらしい。
早速命じて、湯の用意をしてもらうことにした。
私はひっそりと、鴇耶様を想いながら物珍しい果実を楽しむはずだった。本来ならば、邪魔が入る余地などないはずなのに。
陶器の触れ合う音が時折耳に入る。
目前の碗の中にはぐずぐずに崩された果実はもはや果汁の様相を呈しており、あとは湯が注がれるのを待つだけであった。
「まあ、まあ……!とても華やかな香りがいたしますのね」
興奮が抑えきれないといった風に、鈴杏様の手が堅く握り締められる。
彼女が白熱している分、私の中のそれは剥がれ落ちていくようだった。
そう、鈴杏様が訪ねてきている。
昨日の騒動を聞き及んだらしく、見舞いを兼ねて鴇耶様からの品を鈴杏様と一緒に味わうことになってしまったのだった。
後ろ暗いせいもあり、あまり掘り起こされたい話でもないこと、そして折角の時間を一緒に共有するだなんて御免被りたかったのだが、軽く押し切られてしまった。
なまじ取り次いだのが、鈴杏様との関係に肯定的な者だったせいもあって上手くいかなかった。
これが涼香ならば上手く断ってくれたのかもしれないが。
「この香は百合の花、と申しますか。形容が難しいですけれど、似た系統の香りのように思うのです」
「私はまず丹桂が浮かびましたの。どちらも違う植物ですけれど、翠雨様のおっしゃりたいことはよく分かりますわ」
横の卓で用意をしている側仕えの女たちの様子を見ながら、香りについて言葉を交わし、言葉が尽きれば味の予想を立ててみる。何の意味もない会話だ。
昨日の朝に起こった騒ぎには、今のところ触れようとする様子はない。
それが耳にしたこともないような異国の品に気を取られているせいか、それとも気遣いのつもりなのかは定かではない。
鈴杏様も鴇耶様からの贈り物をもらっていて、それは私がもらったものと同じ壺に、同じ中身だ。香りの違いは分からないけれど、それも同じはずで、味もきっと同じなのだろう。
匂いを意識的に吸い込み続けると、結局のところ何故そんな分かり切ったことを考えているのかがよく分からなくなってしまった。
鴇耶様は不公平のないよう、ふたりの妃を同じように扱ってくれる。そのことはよく理解しているというのに……。
それに、もしも違うならば、この壺に入っていたのは蜂蜜であったはずだから。
そうこうしている間に用意は終わっていて、あとはもう飲むだけとなっていた。
準備の整った碗へと手を伸ばす。熱さと未知への不安から、ほんの少しを口に含んだ。
「香りに違わず、甘いわ」
「えぇ、とても。けれど少しだけ、酸味も感じられるようです」
ふたりして言葉少なに、碗の中身を味わう。
漂う異国の気配に、遠い空の下にいる鴇耶様の様子思い描けるほどの想像力は持ち合わせていない。私が思い浮かべられるのは、せいぜい夜闇の中、灯りに照らされた彼の姿だけだった。
その記憶の中の情景のせいか、続いて銀砂のことが頭に浮かぶ。そういえばこの飲み物は、彼女の国のものだろうか。
気付けば碗の中身も残り僅かとなっている。
まもなくこの時間から解放されるだろう。まだ気を抜くことはできないが、居座られないよう努めなくてはいけない。
できる限り話が拡がらないよう気を付けながら感想を交わしている最中、女官が現れた。
「お二方お揃いでいらっしゃって、ようございました」
一体どうしたというのだろう。
女官が用――それも妃同士での時間に立ち入ってくるほどの――があると告げられれば、自然と緊張してしまう。
こういった状況では、あまりいい話を持って来ないのが彼女の常だ。
私も、鈴杏様も、軽く相槌を打つだけに留めて、女官の言葉の続きを待つ。
「先程、伝令の早馬が朗報を持って参りました。殿下が、丁度二日前より帰国の途に就かれたとのことでございます」
「まあ!」
「そうなのですか!」
喜色含んだ声音で、私たちは口々に驚きを洩らした。衝撃が収まるまで、二度、三度と意味のない相槌と感嘆を繰り返す。
珍しく良い話だった。
それが鎮まったのを見るや、女官は先を続けた。
「天候にも因りますけれど、十数日ほどでお戻りではないかと申しておりました」
「十と一日と、十と四日ではだいぶ違ってしまいますわね」
「やはり山と天候の問題ございましょう。そちらを越えられた辺りで、また伝令が走ることとなりましょう」
「他に寄られるところもなく、まっすぐに王城にお戻りですか?その、お立ち寄り先で予定外の滞在などが……、」
例えいつ帰国するのかが分かっても、いつ会えるのかが分からなければ意味がない。
楼に、とは言えずに王城に、となってしまったのは、会いたいという気持ちを明け透けに出すのが躊躇われたからだった。
無理に捻りだした言葉は上手く扱えずに口籠ることとなった。
「さようでございますね。もう他国との会合予定はございません。
帰国いたしましてからは陛下へのご報告もおありかとは存じますが、今のところ催事の予定はございません。そちらさえ変更なければ、楼へもすぐにお戻り頂けることでしょう」
ふたりして問いを投げてはみるものの、女官もあまり多くは知らないのか、それとも下手なことは言えないと思っているのか。返ってくる答えはいずれも曖昧なものだった。
それでも、女官は言えない私の本音まで汲み取ってくれた。
鴇耶様が不在の期間、それがどれほど長かったのか。振り返るのは嫌になりそうだった。
それももう終わりと告げられれば、常にあったはずの淋しさがより揺さぶられて、堪らない気持ちになる。
期限が示されたせいで、我慢しなくてはという抑えが外れかけてしまったのだろうと思う。
そんな風に、女官からもたらされた情報に意識が引き付けられていたのだが、ふと嬉しそうに微笑む鈴杏様に気付いた。
鴇耶様はまず、私と鈴杏様のどちらに会いに来るのだろうという疑問が湧いて出る。
考えたくもないことで、できれば知らないままでいたいこと。
きっとどちらであっても気分は良くない。
「待ち遠しですわね、翠雨様」
甘さに包まれていた酸味が時間差で正体を現して、舌を刺激した。
誤魔化すように、最後の一口を流し込む。飲み下した後も、ひりつく咥内に変化はないまま。
来訪者たちが部屋を出たなら、私はすぐさま砂糖菓子を口に放り込むだろう。




