5.会えない時間
手近な椅子を探して座ると、朱璃姫からの手紙を広げた。
鈴杏様の退室直後に手渡されたそれは、今まで道具箱にでも入れられていたのだろうか。風もないのに微かに木と油の混ざったような匂いが昇ってきた。
鈴杏様の目に付かないようにとの配慮から仕舞われていたのだろう。
私が鈴杏様に、朱璃姫との交流をあえて詳らかにしていないのだということを側仕えの者たちは心得ている。
彼女たちはきっと、私が朱璃姫を独り占めにしたいのだろうと考えていて、同時に自らの主が鴇耶様の妹姫と親交が深いということに優越感を感じているに違いない。
だが実際そこにあるのは優位性でも何でもない。
朱璃姫がこの部屋にだけ訪れるのは、単に私が最初の妃だからだ。何より私がそのことをよくわかっている。
たまたま会ったことのないもうひとりの妃に興味がなく、あるいは臥せっていたところに気後れして、そのまま惰性で来ているのだ。
今のところ、彼女が率先して日昇ヶ位の間に行く素振りはないし、時間の違いから両者が私の部屋でかち合うこともない。
もしも鈴杏様のところへ朱璃姫が通うようになるとしたら、それはきっと鈴杏様自身が仲介を頼んできたとき。
そうならないよう、私は朱璃姫の名や存在を、鈴杏様の前で口にすることはしなかった――前に鴇耶様の話題に触れないようにしていた頃のように。
そうまでして気を付けている理由は、……そう、面倒。付随する諸々が面倒だからだ。
いつの間にか、逸れた思考に没頭していたようだった。目線が文字を追うだけで、その意味どころか形も頭には入ってきていない。
これではいけないと、もう一度頭から読み直した。
手紙にはあちらの楼の様子と、それゆえにしばらく顔を出すことができないという旨が書かれていた。
少し前ならば、これから数日は静かな日々が送れるという安心感と残念な気持ちでないまぜになったかもしれない。
鴇耶様がいない間、その妹の朱璃姫で心を慰めていた部分は少なからずあるのだった。
ただ今となっては銀砂の存在が私の脳裏を占めている。
知りたい、気になるという積極的な思いは、淋しさに勝る。
鈴杏様には気付かれなかった私の内の変化に、もしかすると朱璃姫は気付いてしまうかもしれない。
そうなると、どうしても会えないことへの安堵が大きくなるのだった。
手紙は、楼内が早く落ち着くように自分も頑張るので、そちらの楼のことは私に任せるというような言葉で締められていた。そう言われたところで妃にできることはないのだけれど。
取り急ぎやるべきことは返事をしたためることだ。
まるで気のせいだったかのように、手紙からはもう何の匂いもしなかった。
***
「今日はもう、来ないのかと思っていたのですけれど」
昨日よりかは空高く昇る赤い月を横目にして、私は寝台から降りた。
履いた靴には既に温もりはなく、衣越しに感じた空気よりもさらにひんやりと冷たい。そろりと眉を顰めたところに、笑いを含んだ声がかかる。
「もしかして、拗ねている?」
「拗ねているのとは少し、違、……えぇ、拗ねているのかもしれないですね。
だって私からはあなたのところに行けないのです。ひたすらに待つだけというのはどうしようもないですから」
こんなにも軽やかに、言葉が口を突くのは気分が高揚しているからだろう。
ひねた言葉を吐きつつも、声音は今夜も銀砂が現れたことへの喜びを隠せない。
昨夜はまた次があるようなことを言ってはいたが、本当に来てくれるのだろうか?来るものだと思っていた昼間に、顔を見せなかったからそう不安になっていたのだろう。
それは焦がれる気持ちによく似ている、と思った。
「行けないだなんて、どうして?もしかして、翠雨は閉じ込められているの?」
「そうではなく、私にはあなたの普段居る場所なんてわからないですから。それに、誰かに聞くこともできないでしょう?」
何より、今まで会ったのは起き抜けで頭のはっきりしないときと、暗いところだけ。
明るいところで見かけたとしても、はたして私に彼女が分かるのだろうか。そんな思いもあったのだけれど。
「えぇ、そのとおりよね。でも、それでも探してほしい、なんて思ってしまうのよ。だって会うのを楽しみにしているのがわたしだけみたいで悲しいじゃあない?」
そうではない、方法がないだけで、私も会いたかったのだという弁解が音にされることはなかった。
銀砂がすぐに、不公平にならないようにからかったのだと続けたからだ。
私には、それでどう公平になるかは分からないけれど。
「翠雨」
「はい、なんでしょうか?」
「ね。あなた、じゃなく名前で呼んでほしいのだけれど」
教えたでしょう?と囁く声は、少し距離があるのにはっきりと聞こえた。
少し、浅くなった呼吸を押し殺すようにして、呼ぶ。
「っ、銀砂」
昨夜も出した音なのに、緊張するのはなぜだろう。
鴇耶様に呼んでほしいと望まれたときとも、朱璃姫に請われたときとも違う感覚がする。
「銀砂……ぎん、」
「ぁあ、……あのね、ちょっと待って。呼んでほしいと、そう言ったのは私だけれど。名前だけを連呼してほしいというわけではないのよ」
「えぇと、はい。では、――そうですね、銀砂は寒くはありませんか?」
苦笑する気配に、慌てて口を開く。
適当な言葉を何も考えずに言ったものの、そういえば寒いかもしれないと気付いた。
そうなると、足の指や肩の辺りが急に寒くて気になってくる。
「そうね。今夜は厚めのものを纏っているのだけれど、それでも少し寒いみたい」
昨夜いそいそと帰って行ったのは、寒さに耐えられなかったからなのかもしれない。
だからといって、それなら今夜はこの辺りで、また今度などとは言えない。顔を合わせてすぐに別れるだなんて、なんて味気のないことだろう。
このままでは女官の挨拶よりも、短くなってしまう。
「体調を崩すといけませんよね。よければ、寝台に入って話しませんか?」
相手が鴇耶様でなければ、絶対に他の誰にだって言わなかったであろう言葉だ。
何の抵抗もなかったのは、寒さのせいと名を呼ぶために勢い付いたせいなのだろう。
掛布を持ち上げ、躊躇なくその間に滑り込むと、銀砂は声を立てて笑う。
「これでは本当にあの鷲みたいじゃあない?」
あぁ、本当に。同意の言葉を紡ぐと、いつの間にか上がっていた口角に気付いた。
続いて潜り込んで隣を見ると、いつの間にか深くふかく埋もれている銀砂をちらりと見遣る。そこまで寒かったのだろうか。
「でも今夜はおとぎ話ではなくって、翠雨のことが聞きたい。話してくれるでしょう?」
「私のこと、ですか?」
乞われるままに、私は自身を語る。
宰相の娘として育ってきた過去、そして今は王太子妃としての今の生活。きっと銀砂は私のことを少しだって知らないだろうから、さいしょから。
この十数年、記憶にある限りだと十年程度のものだろうか。こうしてみると、私の人生など簡単にまとめられてしまうものだ。いや、まだ人生の半分も生きていないのだろうけれど。
家族のこと、生まれ育ったやしきのこと。話題が変わる度に、銀砂からは他愛のない疑問が飛んでくる。
それも話の半ばまで。途中からは、時折相槌が返ってくるのみとなっていった。
話を切り上げると、しばらくぶりに銀砂が口を開いた。
「知らない男のところに嫁ぐというのはどんな気持ち?」
「どうでしょうか?元より分かり切っていたことなのだもの、特に何の感慨もなかったかと思うのだけれど。
でも結果として、私の夫はとても素敵で良いひとなので」
私の返事には、そう、とだけ呟かれる。
そうして次は、銀砂の番。
その話が終わる頃には、私も自分から銀砂のところへ会いに行けるようになるだろうか。
暖かな温もりの中。まだ私も彼女も、ここで終わりだなんて口にしなかった。




