4.咲かない花
鴇耶様に逢いたい。どうか無事に、早く私の元へ戻ってきてほしい――そんな気持ちは変じることもなく、今日も祈りを捧げる。
これほど長く会えなかったことなど今までなかった。すでに、鈴杏様が楼に来たときの期間をも上回っている。あとどれほどの時間を待てばいいのかも、以前に比べ不透明だ。
組み合わせた手を解いた途端、ひんやりとした空気を感じた。もう一度、手を合わせて擦り合わせる。少し寒い気がする。
明日からは羽織るものを変えた方がいいかもしれない。
いつもならば、祈りが終われば椅子にでも座って水を含んでいただろうか。ただ今日はあまりそうする気にはなれないと、寝台の上に転がった。
昨夜、銀砂が座っていた辺りに顔を向ける。掛布に座った名残がないのは、私の寝相が別の波で上書きしたからなのか。
結局、昨夜は互いの名前を告げあっただけに終わった。
名だけでは彼女の正体を図ることはできなかった。
最初、試すように雑談を織り込んだことを失敗したとは思っていない。
『今日のところは、ここまでね。だって、一遍に話してしまったら詰まらない』
彼女の言うように、きっと私の心もそうなのだろう。知りたいという気持ちは本当なのに、同時にこの不確かな状況に時間を掛けてみたいと思っている。
簡単に分かってしまったら、気になるというこの思いは消えてしまうかもしれない。興味を持てなくなるということはないだろうけれど、駆け足で結論に急ぐことはしたくない。
そんなことはいやだった。
知りたいという気持ちが、会いたいという気持ちに繋がっている。
暗にこれからも訪れると言われたことが嬉しいのは、きっとそういうことなのだ。
波立っている掛布に指を引っ掛けて軽く引く。平らに近く均しても、銀砂のいた形跡は見当たらない。
意識を落としてしまわぬよう、私は緩く瞼を下ろす。
こうやって行儀悪く転んでいてはいけないのだけれど、ほんの少しなら見咎められはしない。正真正銘、今はこの場には私しかいないのだから。
側仕えの女が部屋にやってくるまで、ずっとそうしていた。
***
午睡の前後、昨日と同じ時間帯に銀砂は現れなかった。
昨日は二度も現れたから今日もそうなのだろうと思っていたが、的の外れた予想だったらしい。
彼女にも予定はあるだろう――普段何をしているか知らされていないが、かの国からの貢物を扱う業務に就いていると思われる――し、とくべつ約束を交わしていたわけではない。
銀砂が悪いわけではないのだ。そう、私が勝手に思い込んでいただけで。
だからひとり落ち着きなく、眠いからと普段より早くに側仕えを部屋から追い出すなどということをしてしまった。
それでもこの部屋でひとりきりになる時間はあまりない。だからその予想はまったくおかしなものではないのだ。
聞く者は誰もいないのだが、心の中でそう言い訳をした。
おかげで今、少し眠いのも、自分の落ち度によるものなのだと分かっていた。
眠気には波があり、ちょうど頂点を迎えようとしている。それを悟られまいと俯いた。
床の上に広げられた布地は真白で、確りと視界に入れると途端に目が痛む。反射的に顔を逸らしてしまいそうになるところを堪え、ゆっくりと瞬いた。そしてゆっくりと顔を上げる。
今の刺激で、眠気は少しだけ遠退いた気がする。
「さ、こちらに置いてちょうだいな」
鈴杏様は連れてきた者に指示を出し、その白い布地の上に鉢を置かせた。
『見舞い』の必要がなくなって以来、彼女との距離は付かず離れず。こうして顔を合わせはするが、頻度はそうは高くなく、あの日々に比べれば離れて過ごしていると言えた。
ただあの期間とは異なり、半分以上は鈴杏様からの訪いだ。
本日は生家より届いたという花木のお裾分けを理由に来たそうだ。
鉢の上の覆いを取り払われると、そこには見知った花が現れた。だが、
「え……あの、こちらは夏の終わりに咲く花ではありませんか?」
「ふふ、そうですわ。実は屋内にて育てておりましたのよ。花の付く期間が遅くなるよう、暖めた部屋に入れていたのです。
それに植物は陽に当てなくてはならないでしょう?風を浴びないよう工夫いたしました」
真似て時期外れの花を育てたいという気がないせいか、その方法には大して興味がない。だが、それでは話は終わってしまうからと当たり障りのない問いを投げては会話を繋ぐ。
下手に答えられない事柄を引いてみようものならば、調べて報告に来ると言いかねない。
さすがに勘弁してほしいものだから、慎重に言葉を選んだのだった。
「鴇耶様にもお見せしたかったのですけれど、ご出立までに開花が間に合いませんでしたの。お帰りもまだ先になるでしょう?
こうして咲き続けるにもそろそろ限界のようで。ほんとうに残念なこと」
だから代わりに私へ贈るということになったのだろうか。
自然を、理を捻じ曲げる技術、それを可能とする力を誇示でもしているかのような花木。
そして何より、これは夏の終わりに咲く花で――と、過ったところで涼香の姿が目に入った。
あぁこれではまるで彼女のよう。少し穿ち過ぎたみたいだと改める。
「でもいいですわ。翠雨様とはこうして楽しむことができました」
ほら、微笑みと共に告げられた言葉に他意は見えないではないか。
もちろん見えないことがないこととは限らない。それくらいは知っている。
だが鴇耶様の長期不在の最中に、例えば対抗心など主張すべき意味はない。何より鴇耶様ができる限り平等であろうとしているのは、私たちこそがよく理解していた。
下準備の時間が長く必要な植物ということもあり、もしもここに他意があるとするならば、それは彼女の意志ではなく家の思惑だろうと。そうに違いないと、飲み下した。
「珍しいものを見せて頂き、ありがとうございます。
夏のものだという気があるせいでしょうか?目にしただけで何やら暖かな心地になりますね。ほんとうに、夏のお裾分けのようです」
「えぇ、えぇ!まるでこの花のように、見ている者も騙されてしまいますわね。
……けれども、この花も持って数日。早咲きの効果も今季限りのものでしょう。じきに物珍しさはなくなってしまいますわ。過ぎてしまえばよく見る、ただの花木となってしまいます」
「これからずっと、遅れて咲き続けるのも淋しいもの。いっときのことだからこそ、素敵だと思えるのでしょうね」
鈴杏様があまりにも淋しげに言うものだから、遮るようにそう言葉を重ねた。
まるで特別だったそれが詰まらないものに成り下がるとでも言いたげで、本当にそのように続くのならば聞くに堪えない。
そういえば、彼女にとってここまで鴇耶様と会わない期間が続くのは初めてのこと。そのことで不安定にでもなっているのだろうか。彼女から、こんな風に投げやりな言い回しは初めて聞く。
外国へと出た鴇耶様が戻って来ないのでは、戻ってきたとしても飽きられているのでは等の不安でも抱いているのだろうか。
あの方の信条からそれは有り得ないと思いながら――それでも不安そうな声音をこれ以上耳にすれば、私も一緒に引っ張られるような気がして。
「では次にこの花が咲いたときには、今日を思いましょう。
うっすらと寒い中、鉢はまるで雪を敷いているかのよう。通常より濃い紫の花弁は冬の夜に似ていて見事なものでした、と」
はっきりとは口にできないというのに、こうもあからさまに傷を舐め合っているようなやり取りは滑稽だ。
心ではそう思っても、表面上は笑んだまま。
「翠雨様……!来年まで持っていてくださるのね?嬉しいわ」
「初めて鈴杏様から頂いた贈り物なのですから」
夏の終わりにやってきた花は、言葉通りの嬉しそうな様子で口許を綻ばせた。
そのときはまた一緒に思い出語りをしようと約束を取り付けられる。
面倒なことだが、たまにはいいかもしれない。
覚えているかは定かではない先の予定も、この鉢植えがある限り大丈夫に思えた。
その後、いつもの調子に戻ったらしい鈴杏様とゆっくりお茶をしたのだった。




