2.侵入者
「うん、『おはようございます』……今は昼間の、もうずいぶんと日も高いけれど。なんてそんな細かいことはことはいいね。
ならわたしは『起こしてごめんなさい』かな?覗き込もうとしたところで起きるものだから、ほんとう驚いたのよ」
私の挨拶に一拍の間を挟むと、ようやっと彼女は口を開く。
だがずいぶんとおしゃべりな性質らしい。ひとりですらすらと話し出す様子に圧倒されてしまう。
ただ話好きな様子であるにもかかわらず、声音が些か強張っているらしいのが気にはなるが。でも緊張しているようには見えないから、生まれつきのものなのかもしれない。
真実、その区別をつける方法など知りはしないのだけれど。
「これほどに近ければ、人の気配に聡い者でもなくとも、さすがに目が覚めるでしょう?」
「まあ……、そうね」
鈍い者は気付かないかもしれないけれど。そう言いながら、彼女は小さく頷いた。
「それにしてもこの部屋というか部屋の全体というか。人の気配がないみたい」
「眠っている間、基本的には誰もいないですね。人払いという程でもないので、何かあれば入ってくることがあるかもしれないですが」
「ふぅん?それじゃあ、ここはもしかしてきみだけの部屋?
随分と仕切りが多いから、てっきり何人かでの共用部屋かと思っていた」
そういえば、他に寝るところはなかったかも。等呟いて、思い出したように辺りを見渡す素振りに、言葉におや、と思う。
その物珍しげな様子から、この国の人間ではないのかもしれないということに思い至る。
少し肌の色が濃かったり、声音がかたく――言葉がぎこちないことも、その証明に思えた。
そう、舌に馴染まない言葉があの口調に繋がっていたのかと合点がいった。
彼女は例えば、鴇耶様への品物を運んできた誰かだったりするのかもしれない。
だが女が長期間の旅をしてまで、そんな力仕事に付けられるものだろうか。それならば珍しい生き物の世話係ならばどうだろう。特殊な者にしかできない、といった理由ならばありえるような気がする。
彼女は括り紐だけで緩く編まれた髪を、背に流しているらしい。その一部が、頭の動きに合わせて身体の線からちらりちらりとはみ出すように跳ねている。
私は思考を埋没させたまま、ぼんやりとそれを見ていた。
でも、じきに次がやって来なくなる。
なぜならすでに彼女は頭を動かすのをやめていたからで、振るわれていないそれが段々と見えなくなるのは当たり前のこと。
「ところで。もしかするときみは具合が悪い……の、かな?」
不用意なことは言えないと、黙り込んでしまった私の様子を勘違いしたのか心配そうな声が降ってきた。
「えっ?いえ、そういうわけでは」
「ならよかった。じゃあ、また眠くなってしまった?」
「あの、ごめんなさい。起きます!」
身を横たえたままの会話にようやっと気付く。はっきりと言われるまで気付かないとはなんということだろうか。
慌てて身を起こしながらも、彼女をそっと盗み見た。光の加減で僅かに影の落ちたその姿を。
微かな笑みを口の端に乗せて、彼女も私を見ていた。
こんな風に、王太子妃である私に対等であるかのように話し掛けるのも、接するのも、やはり何も知らないからなのだろう。
身分の越権に当たるその行為は、私にとって好ましいものではないはずで。それなのに、あまり気にはならない。
それどころか彼女の正体について考えるまで、少しだって引っ掛かることもなかった。
――でもこの楼の意味を理解していない、そんな人物が果たして王城の奥まで立ち入ることは許されるものだろうか。それは、属国の者ならなおさらのことで。
「あの、あなたは一体、」
「ないしょ」
言いたいことは分かり切っているとでもいうように。そう、先回りをして。
「って言うと意地の悪い言い方ね。次会うときまで細かい話はおあずけ。うーんと、おたのしみ?うん。そんな風。
わたしにとってもきみは謎に包まれた存在に見えるし、神秘的」
言ってすぐ、そう思い直したように重ねたところを見る限り、彼女は気遣いのできる人物なのかもしれない。
同時に、やはり彼女は私を知らないのだろうと理解した。
「次回とは言わずに今でもいいように思いますけれど。それに、そこを抜きにしてどのような会話をすればいいのでしょう?……私には、難しいです」
「単なる時間切れなだけで、そろそろ行かなくてはいけないのよ。また、来るから」
そう言い残して身を翻すと、衝立の向こうへと消えていった。背で跳ねる髪の束の動きすら、目が追えないほどの素早さ。
私の返答すら聞かない速度で進んで行ったその先は、扉に向かうには少し遠回りの方角だった。
もう少し落ち着いてくれていたならば、案内したというのに。私のゆっくりとした速度では、言葉を差し挟めない。
それにしてもまたとは、一体いつのことだろう。
不思議な邂逅を経た私は、まだ夢を見ているかのような心地で寝台に座り込む。
しかし、しばらく経っても扉の開閉する音は聞えてこなかった。
もしかすると、迷ったのだろうか。仕切りが多いと口にしていたときの見慣れていない様子が頭を過る。
別れの言葉を口にした後で、部屋の中で迷っているのは間が抜けている。
そんなところを見るのも面白いかもしれない。小さく笑みを溢して、立ち上がった。
私が足を向けたのは、彼女が消えた方角とは反対の方向。後をそのまま追ったのでは、すれ違うといけないから。
「……あら?」
いない。
隈なく見て回っても、彼女の影どころか足音すら捉えることはできなかった。
物音を立てないで扉を開けることのできるのだろうか。
2周目を歩き終えたところで、足が止まる。部屋の中からは何の音も聞こえなくなった。
「煙みたいに消えて……」
背にせり上がってくるような寒気を感じ、最後まで口にすることはできなかった。
彼女の得体の知れなさが、よりはっきりしたような気がして。
幽鬼の類か、いや最初の印象通りにこうやってどこかに忍び込むことを生業としている者の可能性もある。
そんな恐ろしい想像を掻き消すように、首を振るうのだった。




