15.先輩妃と後輩妃
鴇耶様が日昇ヶ位で過ごされた次の日は、彼女の体調が良くないこともある。
元より口数が多くない見舞いの場、そんなときはさらに会話が弾まない。
彼女は体調の面から、そして私は心の面から口が重くなるのだった。
生憎と今日もそんな日で。
「鴇耶様が向かわれる南の谷山を越えた先にある属国、えぇと名前は」
私もその話は聞いていた。
冬の始まりにその国で即位式があるため、王の代理として赴くことになった、と。
普段は回避をしているだろう彼に纏わる話題をも、つい口にしてしまうくらいには体調が芳しくないらしい。はじめて、彼女がその名を音にするところを耳にした。
鴇耶様は、家族だからと名前を呼び合うことを望んでいた。やはり彼女も同じように名を呼ぶよう求められたのだろう。
そして鴇耶様も彼女を名で呼んでいるはずだ。私を呼ぶのと同じように。
……この妃の名は何だったろうか。そう、確か先般側仕えの女が口にしていたのは。
「鈴杏」
「え?はい」
「っ、さま……あの、その国の名は音が難しくて言えないですよね。鴇耶様はあんなに綺麗に発音していらしたのですけれど」
どうやら私も頭が働いていないようだ。彼女をどうこう言えはしない。
余所事を考えていたものだから、ついそのまま口から滑り出てしまう。
取り繕う言葉は不格好で、咄嗟に出せるのはこれが精一杯の誤魔化し。
「ふふ、吃驚いたしました。でも互いに名前で呼び合うのもいいかもしれませんね、翠雨様。こうしてよくおはなししているというのに部屋名で、というのは呼び難く思っておりましたの。
それにあなた、ばかりですと次の妃が上がってきたときには大変でしょう?」
うっかり溢した一言が上手くまとめられて安堵する一方、最後の一言に引っ掛かってしまった。やはり彼女は面倒くさくてうっとうしい。その認識が更新されることはないのかもしれない。
「と、話が逸れてしまいましたわ。実は私も言ってみようと試みたのです。初めて耳にする国の名でしたから」
「えぇ、属国の存在は知っておりましたけれど、みっつある内で一番離れているらしいのです、耳慣れないのもそのせいでしょうか。
馴染みのない音ですもの、文化圏がまったく違うらしいというのはわかるのですが」
「一体どんな国なのかしらね」
いくら妃とはいえど、女である私たちが国外のことを学ぶ必要はない。だからその国の知識は全く与えられてこなかった。父ならもちろんのこと知っているだろうが。
私の知識と想像力では何も描けなかった。城壁の外どころか、街の様子でさえ上手く描けないのだから当たり前のことかもしれない。
では次会うまでに何かひとつ、その国のことを調べて披露し合おう――ということで本日の見舞いという名の茶話会は終わったのだった。
簡単にわかってはつまらないから、それには『鴇耶様には聞いてはならない』という決め事が設けられた。
***
今日はこのあと午後から朱璃姫の訪問がある。
婚姻の儀式が完了したことにより楼の立ち入りが解除されてからというもの、再び妹姫の楼参りは復活していた。彼女の訪問頻度は変わらず二日毎だ。
いくら日課のようになろうとも、鴇耶様の妹の訪問準備をおざなりにすることはできない。
茶菓子の用意は終えているし、今しがた部屋の清掃が終わったという報告を受けた。仕上げとばかりに私も簡単に部屋の各所を確認する。
「はい、どこも問題はないですね。あとはお越しをお待ちするだけ」
「翠雨様」
満足げに頷き完了を告げる私に、控えていた涼香が寄ってきた。そして世間話のような、気軽い話題のように話し始める。
「日昇ヶ位の方ですが、中々身体の調子が戻りませんね。明日も訪われるご予定でしょうから、久しぶりに見舞いの品を用意いたしましょうか。今は枇杷が季節でございますが」
「っ!?」
不意打ちにたじろぐ。
それは悪意の込められた言葉。いくら私室とはいえど、誰が聞いているか知れないではないか。
果物の多くは身体を冷やすものが多いという。見舞いの品であるならば、せめて身体を温める効能のあるものを選ぶべきだろう。
今、彼女は熱に侵されている最中ではない。弱った身体を内側から冷やすのは毒だ。
彼女がそれらを知った上で口にしているのは分かり切っていた。
自らの主人主導で――意図したことでも望んだことでもないが――日昇ヶ位の妃と名を呼び合うという間柄になったせいだろう。
馴れ合うなとでも忠告しているつもりなのだろうか。
「涼香、そういうことは行動に移すのはおろか口にしてもいけないと、何度言えばわかるのですか」
「ああそうでした。失礼いたしました、ここまでですとあからさまに過ぎますわね」
手土産まではいらないでしょう、とそう笑んだ。
意味ありげに顔ごと一瞬こちらへと向けて、涼香は元の立ち位置へと戻って行く。朱璃姫が訪れた際にすぐに反応できる扉の近くへと。
こちらを見た時に彼女の目が細まった意味は、よくわからなかった。
「朱璃が参りましたわ、翠雨様」
「…………いらせられませ」
扉が開ききると、いつものように朱璃姫が儀礼めいた挨拶を行う。
私も数瞬の間を出してしまったものの、何とか平静を装って礼の形を取った。
朱璃姫の背後には初めて見る女性がいた。その女性が女官でも側仕えでも、お目付け役でもないことはその纏う衣装から分かり切っている。
「ようこそおいでくださいました。では、こちらに――妃殿下、朱璃姫」
「あらぁ、残念だわ。黙っていたのにもう分かってしまったのねぇ……」
至極残念そうな口振りではあるものの、装飾華美な衣類を替えていないところからして本気で隠すつもりはないのだろう。
その女性の正体は、王妃殿下。朱璃姫を伴っているところを見るに、鴇耶様と彼女の母親で間違いない。
先触れには朱璃姫が来るとだけあって他の情報は含まれていなかったというのに。
これは抜き打ち訪問というものだろうか。
「毎日のように朱璃が遊びに行く鴇耶の妃、私はずぅっとお会いしたかったのよ。気になって、気になって。とうとうこうして来てしまったわぁ。ふふ、鴇耶には内緒よお?」
「は、母上!落ち着いてまずは座ってからお話を始めるのがいいわ。きっと翠雨様も困るもの」
娘の注意にそうねぇと返して、歩きながらも王妃の口は止まらない。
間延びしたような口調でずっと話している。もう少ししゃっきりと話せば発言時間は減るように思う。
真意が発言そのままとは限らないからと、私は気を引き締めるようにこっそりと深呼吸をした。
だがこの調子では相槌が打ちにくい。いっそのこと、黙って頷いておくくらいで丁度いいのかもしれない。
短いはずの、扉から卓までの距離が長く感じた。与えられる情報量が多かったせいだろうか。
「わざわざお訪ねいただき、ありがとうございます。茶の用意が整うまで、しばらくお待ちくださいませ」
「朱璃は翠雨様の隣に座ることにするのよ」
いつもは向かいにある頭が横で揺れているのは、不思議な心地がした。いつもの調子で動いて、手や肘を当ててしまわないよう気を付けなくては。
腰を下ろし二言三言言葉を交わした頃、涼香が盆を持って現れた。
甘い餡を絡めた餅菓子を摘みながら他愛のない話を重ねる。
主に妃殿下の話を聞き、ねだられた楼での過ごし方を答えたのだった。
合間に朱璃姫の話も挟まって、会話の流れは落ち着きなくあちらこちらへと転がっていく。
「鴇耶様がいつも仰っているのです。陛下と妃殿下が理想の夫婦像、と」
そのお心に添えるよう、精進しているのです。
私の言葉に、それまで変わらず笑顔だった妃殿下がふと真顔になった。
それは妃殿下を持ち上げるための言葉で、模範的な妃の様子を見せるためのもの。それなのに、想定外の反応は私の身を固くする。
「そうねぇ、あなたにとっておきの夫婦円満の秘訣を教えてあげるわ」
間延びの具合は減じたようだが、その声の調子に変わりはない。
先人の手法は是非とも知っておきたい。私は心なしか前のめりになっていたようだった。
そこへ穏やかなまま紡がれた言葉、は。
「恋をしてはいけないのよ、けっして」
「は、……え?」
頭をゆるりと傾ける。
それはつまり、どういうことだろう。
鴇耶様以外の、他の男と通じるなということなら言われるまでもないことだ。だが。
「この楼ではねぇ、夫に対して持つべきなのは慈しむ心だけだわ。
恋なんて、そんなものにおちてしまってはいけないの」
「恋はこわいものよね」
私が打てなかった相槌の代わりを、朱璃姫がしてくれたようなものだった。
それでも一切の反応をしないという選択肢はない。何とか一言を囁くように捻り出して、瞼を伏せる。
どこまできちんと紡げたかは定かではない。
妃殿下はそれ以上を語らず、朱璃姫を連れて部屋を後にしたのだった。




